LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

茶事・・感動

2007-05-02 | 美の壺的解釈
今日はとても感激した一日だった。
先日増改築現場の引渡しを終えたお施主様より茶事に招待された。
スタッフ4人でお伺いさせていただいたが、茶事は全員が初体験。
茶碗を数回廻してからお茶を飲み干す事ぐらいは知っていたが、
皆、緊張した面持ちで茶事に望んだ。

玄関に入ると一気に茶事の雰囲気が伝わる。
着物姿で迎えてくれた亭主。
単に濃茶を飲むためのものでは無い事は容易に想像できた。
玄関の生花も素晴らしい。流派を超えた美が感じられる。

(ちなみに本来の茶事では亭主は出迎えない。
そのため亭主は玄関を少し開けて置く。それが、いつでも茶事が行えるという合図なのだ。)

お施主様は表千家の先生で、勝手の分からない私たちに何でも教えてくれた。
本当にありがたい事だ。
今回は、略式なので...。と亭主が言ったが、とんでもない。
貴重な茶器でお茶を振舞われたり、その解説をして頂いたりと私たちにとっては至れり尽くせりの世界だった。

濃茶の席に掛軸があった。
書の心得の無い私にとっては、何と書いてあるのか分からなかった。
このような時、はたして聞いて良いものやら?と思っていたが、
ここは勉強と思い、尋ねてみた。

青松多寿色・・・seishou jyushoku ooshi
松は一年を通してもまた年月を重ねても青々とし、色あせることのないその姿は、いつも変わることのない永遠の心を象徴している。
読み方だけでなく、掛軸の意味まで教えていただいた。

常に輝き続けてください。
そんな亭主のメッセージを感じ取りながらお施主様宅を後にした。

本当にありがとうございました。

和菓子

2007-03-17 | 美の壺的解釈
昨日NHKで放映した「美の壺」では、和菓子を取り上げていた。
和菓子と言えば、小生、大福や桜餅・柏餅といったオーソドックスな発想しか浮かばないが、
ここで取り上げられたのは、どちらかと言うと茶事などで登場してくる和菓子だった。

しかし、実に興味深い。
和菓子にも鑑賞の壺があるとは...。

和菓子には、菓名がある。
菓名とは言っても、豆大福とか薄皮饅頭とか言ったものではない。
確かにそれも菓名かもしれないが、
たとえば、「初雪」「初ちぎり」等のように季節感や情景を想像させるような菓名だ。

その菓名を知って、その奥に潜む物語を堪能することに意義があるそうだ。
美の壺では、「初雪」を思い描いた和菓子を3人の職人がそれぞれ違った作風で作り上げていた。

初雪のイメージ...。
地域によってもその感覚は異なるだろう。
枝葉にそっと積もった雪、
ほんの一瞬地面が薄っすらと白くなりそして今にも溶け出しそうな雪、
雪の中の一輪の紅梅。

職人の思いもそれぞれだ。
そんな情景や季節感を感じ取る。まさに粋の世界だ。

何も考えず一口で食べてしまっていた和菓子、これは悔い改めなければならない..。

わくわく美術展

2007-03-02 | 美の壺的解釈
先日、県民文化センターで開催されている「わくわく美術展」に行ってきた。
義父の作品と会社OBの方の作品が展示されていると知ったので、敬意を表して見学に行ったのだ。

わくわく美術展は、シニア対象の美術展で県と社会福祉協議会が主催している。
アマチュアの作品なので...と会場に入る前は思っていたが、
なんと、とてもアマチュアの作品展とは思えない力作が多かったのに驚いた。

会場には、若者の姿は見えない。
皆、年配の方々だ。
茨城なまりの言葉で、あちこちから作品に対する批評が聞こえてくる。
僅かな段差につまづきよろけ警備員に思わず抱きかかえられていた老婆がいたが、
いつまでも絶えない向上心には感服する。

個人的には、洋画の「向日葵」、写真の部の「海霧」が印象に残った。



茶事の心 | 和

2007-02-20 | 美の壺的解釈
水戸の事務所から駐車場に出ると、今増築工事を行っているお施主様の祖母がたまたま通りかかった。

挨拶をすると同時に、先日の茶事の心について感銘を受けたことを話した。
「先日言いたかった事は、一期一会という事ですよね。
 茶事は同じことは無い。
 だから、一瞬一瞬を客のためにもてなす。
 亭主は客の心を思いやる。と同時に、客は亭主の心を推し量りながら茶事に望む。
 本当に素晴らしいことですね。とても感激しました。」

「お茶と言ったら、私は【和】であると言います。
 たとえば、お茶は一人ではできない。客人あっての事でしょ。
 茶事においても、互いに【和】を尊重し合わなければならないのよ。」
いきいきと喜ばしそうに話してくれるその姿は、過去の流れを凝縮するように自信に満ち溢れているものだった。
「お茶はとても奥が深いのよ。」と最後に言い残しその場を去っていった。

時間にしてほんの数分の会話だ。
しかし、非常に印象に残った言葉だった。
【和】というものは、もちろん茶事の世界だけでない。
一般社会にも絶対必要だよなぁ、と改めて考えさせられる。

他人を思いやる心...。
そこに和が生まれる。


 
 

茶事の心

2007-02-06 | 美の壺的解釈
事務所近くで施工している増改築現場に立ち寄った。
スタッフと今後の工程について打合わせした後、つくばいの設置予定場所で立ち止まった。
そこには、お施主様の祖母がいらっしゃった。

その方は茶道師範で、今回の増改築も当然ながら茶のテイストを非常に重要視されている。
つくばいはデザイナー側から提案されたものだったが、茶の心意気として別のもので代用できるというご意見を頂いた。

その際、つくばいの目的や使い方、また、本格的なつくばいについて話をして下さった。
茶道を志していないと知らないような事が多かったが、それでもなるほどと頷きながら聴き入っていた。

最後に茶事の心について話して頂き、さらに感銘を覚えてしまった。

「茶事の終局の目的は、
亭主は客の心を思いやり、客は亭主の心を推し量り、
互いに真の心の交わりを楽しむ。
そういった心の修養を志すことなんですよ。」

招かれた客が、その茶事の意味について理解する...。
単なる作法、茶器や軸、花の観賞や濃茶・薄茶の味わいだけでないのだ。

何故その茶器を亭主は選んだのか?
その茶事で軸の意味するものは?
当然ながら、会話もその茶事の空気にあったものでなくてなならない。

亭主(ちなみにもてなす側を言い、一般的な主人とは異なる)の心を推し量る器量、そういったものを身に着けなければならないのだ。

まさに目から鱗だった。

茶室建築として意匠的な観点からはある程度の知識があったが、茶の心意気という事までには及んでいなかった。

今回の現場では、デザイナーの感覚、そして伝統的な和の融合がある。
完成まであと一歩だ。


陰翳礼賛|in'eiraisan

2007-02-04 | 美の壺的解釈
NHK「美の壺」、今回は建具を取り上げていた。
障子や襖のもつ暖かみ、和やかさ、清楚な感じは、日々我々に安らぎや時には緊張感をも与えてくれる。

西洋のそれとは大きく異なり、職人の繊細な心意気の中に織り成す技は、全て光と空間を意識しているのだ。

谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」では、その日本建築の陰影の美について様々な角度から触れている。
昭和8年のエッセイではあるが、谷崎潤一郎が当時意識していた事が、現在も同様な感覚で捉えることができる。

陰翳礼賛、やはり我々はどこかで日本建築文化を伝承していく必要性があると感じざるを得ない。
自分も同感だが、陰影のもつ感覚はまさに谷崎潤一郎が著述している通りだ。

勿論、時代は常に変化している。
全ての伝統をそのまま実現して行こうという訳ではない。

クライアントに提案する建築も当然ながら押し付けであってはならない。
また、建築コストや利便性も影響するだろうし、限られた建築面積や耐震性能などの問題も出てくるであろう。
現代においてそういった建築を実務的に進めるには、数々の問題をクリアしていかなければならないのは事実だ。

しかし、「陰翳礼賛」、そう言った感覚は少なくとも享受する事ができるのだ...。









藍染

2007-01-19 | 美の壺的解釈
おおっ、今日は藍染めかぁ。
NHK「美の壺」、谷啓が藍染の羽織を着て登場してきた。
あの深い色、なんとも言えない味わい深いものがある。

今、まさに小生が着ている作務衣も無地の藍染のものだ。
確か結婚した年に買ったものだから、もう十数年になる。
色アセはしているものの、小生お気に入りの一品だ。
室内着、作業着、パジャマ、たまに外出着として愛用している。

「美の壺」では、藍染は時と共に深い色になっていくとあったが、
色アセするのは?と多少疑問もなくには無かったが、藍染の素晴らしさを改めて感じた。

遊び心ある柄、絞りの織り成す奥行き感、等々...。
職人の世界は素晴らしい。
そういった職人の思いを感じ取りたい。

画家は語る・・シャガール

2007-01-10 | 美の壺的解釈
「画家は語る」20世紀の巨匠たち・・・奇跡のインタビュー ~八坂書房

シャガールは、自身の作品について深く語ろうとしない。
自分自身の作品は好きではないと言っている。
また、他の著名な画家の作品に対しても、準備無しにはすぐには理解できないとも発言している。

シャガールは、インタビューアに対してこう発言していた。

「制作しながら絵についてうまく語る、なんていうことは出来ないものだ。
ただ、絵だけが語ってくれる。
まさにそういうものなんだ。
もし私が美しい布を目にしたとして、それについて何が言えるというんだい。
あなたはそうやって写真を撮っているが、写真がよりよく語ってくれるからじゃないのかい。
他に何かうまく出来ることがあるなら、なにもそんなことはしないものさ。
絵を描くこと以外に何か出来た画家は珍しいよ。」

「若いころ、私はセザンヌの作品に出会った。
私は、気が動転してしまったよ、私には理解できなかったんだ。
物事を感じ、理解することができるようになるまでには、
回り道が必要だ。
ゴッホやセザンヌやゴーガンを理解することが出来るようになるまでに、
私は長い時間をかけて、
人生の砂漠を横断する必要があったんだ。
準備なしに、ボナールの一枚の絵に表現された全ての美を見て取ることはできない。」

うーん、シャガールまでが作品を理解するには、様々な経験や思考などそれ相応の時間を費やさなければならないとしている。
短絡的な作品の良し悪しや瞬間的な感動の有無ではなく、その作品に込められた美は、そう簡単に判断されてしまっても困るということだろう。
なんとなく、安心したというのが私の実感だ。
真の美を理解するという境地には残念ながら私には程遠いものがある。
しかし、作品から何かを感じることはできると思う。
それが作者の意図とするものでなかったとしても...。
そう感じた。



感動をつくれますか?

2007-01-08 | 美の壺的解釈
おお、ズバリきたな。という感じだ。
作曲家 久石 譲の著書「感動をつくれますか?」
 ~ 角川書店

私は、作曲家としても作家としても名前は知らなかった。
しかし、久石 譲が作曲した作品名を聞くと、あの曲がそうだったのかと思ってしまうぐらいに有名な方だったのだ。
誰でもが知っているような馴染み深い曲、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」など多くの作曲をしている。

著書の中で、久石譲が「感性」について述べている。
ものづくりにおいて、いや、ものづくりだけではない、日々の我々の活動において、感性が重要だとほとんどの人が認識している。
確かに、感性は重要な要素だと私自身も強く感じる。
しかし、感性ってそもそも何なのだろう?
これだと言う物が無いだけに表現するのが難しかった。

久石譲は、こんな感じで「感性」というものを捉えていた。

「感性」という言葉でくくられているものを冷静に分析して整理していくと、
もちろんその人の持つ感覚的なものもあるが、
それ以上に、
その人のバックボーンにあるものが基礎になっているのではないかと考えられる。

いつも作品は自分の力で創作しているという意識でいるが、
実際には、過去の経験、知識、出会い、思考、それらの蓄積が基になって生まれてくるものだ。
感性の95%は実はこれらなのではないだろうか?
独自の感覚だけでゼロからすべてを創造するなんてことは有り得ない。

うーん、確かに言われてみればそんな気がするなぁ。

しかし、95%のバックボーンに支えられながらも、残りの5%が肝心だと言っている。
その5%が感覚的ひらめき(直感力)、それこそが創造力の肝だとしている。

その5%の直感を磨いているのも、実は過去の体験だ。
しかし、実のところ、直感の啓示のようなものをいかにしてつかみとるかという所で、誰もが悩んでいる。
久石譲も同様に日々苦しんでいるそうだ。

結局は、直感力を導くため、ひたすら考えるしかない。
考えて、考えて、自分を極限まで追い詰めていくしかないのではないか。
何かが降りてくる、その瞬間を自分自身が受け入れやすくすることに時間と力を注ぐ。
つまりは、自分の受け入れ態勢を整える状況づくりをすることなのかなあ。
と、述べている。

また、普通に生活していても、ふと意識を向けたり、興味を持ったということは、
自分の琴線触れるものがあったということだ。

何気なく目に飛び込んでくるもの、
耳に入ってくる音、
漂ってくる香り、
人と話していてはっとしたこと...
それらは直感センサーが反応していると捉えたほうが良い。
そこから思わぬ展開が拓ける場合があるそうだ...。



村山密展

2007-01-07 | 美の壺的解釈
先日、村山密展に行ってきた。
茨城県近代美術館で開催されている。

村山密は茨城県の潮来出身の画家で、パリに在住しながらパリ近郊の風景画などを数多く残している。
大正7年生まれだそうだ。
恥ずかしながら、村山密の存在は知らなかった。

美術館の長いスロープを折り返し二階に行くと、数々の作品が展示されていた。
中でも興味を持ったのは、睡蓮の数枚の絵とシャンゼリゼを見下ろした絵だ。

「睡蓮」は、パリ近郊の池の描写という事だそうだが、穏やかに煌く水面と可憐に咲いている睡蓮の花が印象的だった。
睡蓮と言うとモネが有名だが、勿論モネのタッチとはまた違う。
同じ題材でも表現方法が違うんだよなぁ、と当たり前の事ではあるのだけれど再認識してしまう。

「シャンゼリゼ」は、私自身残念ながらフランスに行ったことは無いが、パリの雰囲気がなんとなく伝わってくるようだった。
大通りを挟んで交差する道路も印象的だった。