LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

ヴィバルディ四季:チョン・キョンファ

2008-01-27 | 音楽の調べ?
久しぶりにヴィバルディの四季を聞いた。
ボストンシンフォニー&小沢征爾指揮のものと、チョン・キョンファ&セントルークスの演奏によるもの、それぞれ聞いてみた。

どちらがどうのこうのという論議はできないが、個人的にはチョン・キョンファの演奏によるのもが好きだ。
チョン・キョンファの演奏があまりにも目立ちすぎているかも知れないが、情景がありありと伝わり、非常に心地よい響きだ。
何度も聞いてしまった。

四季というとイ・ムジチ合奏団が有名だが、こうやって同じ曲をそれぞれ異なる演奏家のものを聞くと、それぞれに違いと味があるのが分かる。
まあ、何となくだが...。

チンキョンファの四季、CDの最後には、韓国語で自らヴィバルディ四季の解説をしている。
当然韓国語は分からないので解説書を読みながら聞きなおしてみた。
うーん、なるほど...。





fado:ファド

2007-11-28 | 音楽の調べ?
なかにし礼が「天上の音楽」の中で、fadoについて語っていた。

fadoかぁ。そう言えば久しく聞いていないなぁと思いながら読んでいた。

fadoは、ポルトガルの首都リスボンの下町にうまれた哀愁漂う歌だ。
19世紀に入り、ポルトガルやスペインの植民地支配による栄光の日々は陰りを見せ、
ブラジルやアフリカの植民地を手放したポルトガルは暗い困窮した時代に入る。
リスボンの石畳を敷いた裏町の安宿から、黒いショールをまっとた女が歌い出だす。そういった音楽だ。

なかにし礼は、ファド歌手のアマリアロドリゲスに、リスボンのfadoは何ゆえにかくも哀しいのかと質問をしている。

「それは昔から問われ続けている質問です。ファドはとても古い。
ファドは運命と言われています。
運命は人生です。多分人生が哀しいからファドも哀しいのでしょう。
ファドは私たちの人生。
遠いところへ新しい世界を発見するために、海へ行った人たちの人生なのです。
彼らは家族から離れ、愛から離れ、そして哀しさに懊悩する。
それがファドになった。
だからファドは哀しいのです。」
とアマリアロドリゲスは答えていた。

私がファドを知ったのは、ある方との出会いからだった。
20年程前にその方と知り合った。
戦時中はインパール作戦等を経験した方で、その方は通信が主な任務だった。
戦後は商船会社に勤務して、人生の1/3は海外と海上で生活していた方だ。
ある時そのお宅に伺うと、スコッチを片手に一人ソファーに座りfadoを聞いていたのだ。

あまりにも哀愁を帯びた歌が印象的だった。

その方は私に、海外の話、政治経済の話、戦時中の話など数々語ってくれた。
自分自身を支えてくれた心の糧として、
今はもう思い出としてしかないのがまさに哀しいが、やはりこれも運命なのだろう...。







小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ

2007-05-07 | 音楽の調べ?
小澤征爾の魅力について、
「サイトウ・キネン・オーケストラ欧州を行く」~小学館
の著者である一志治夫がこう語っていた。

小澤征爾は、一言で言えば「気」が違うのだ。
それがどんな人とも異なる。
張りつめている空気、高みに向かって駆け上がろうとする気、本質をつかもうとする気だ。
何に対しても臆することなくぶつかっていき、本質のみを知ろうとする本能。
小澤の身体からは、ときに何か野生のにおいすら感じる。
その一方で、とてつもなく繊細で、研ぎ澄まされた美意識を持っている。
そういった事が小澤征爾の魅力だと言っている。

小澤征爾は水戸室内管弦楽団の顧問をし、水戸芸術館での公演も行っているので以前から興味があった。
興味本位で本を読んでいると、オーケストラの事は良く分からないが、小澤征爾が多少なりとも理解できたような気がした。
2005年末から体調を崩し入院し暫く療養していたが、2006年7月に国内の活動に復帰し、さらに今年4月末からウィーン国立歌劇場に復帰したと先日のニュースで取り上げていた。
71歳だそうだ。

繊細さと高みに向かって駆け上がろうとする気。

これは、音楽業界に限ったことではない...。

絶対音感

2007-04-10 | 音楽の調べ?
岩城宏之の「音楽の影」文芸春秋社を読んでいたら、
絶対音感についての記載があった。
岩城宏之は指揮者で、知っている方も多いだろう。
確か、昔、ネスカフェゴールドブレンドのCMに出ていた。
違いの分かる男。
多分20年以上も前の事だったと思う。

指揮者には、絶対音感は当然ながら備わっているものだと思っていたら、
なんとそうでもないのだ。
岩城宏之自身、絶対音感は無いと言っている。

絶対音感とは、様々な音の高さを聞き分ける事ができる能力だ。
小生、多少なりとも楽器を演奏するので興味のある言葉だが、
残念ながら確実に絶対音感は無いと断言できる。
ギターのチューニングにしても、基本の音が未だにこれだと言える自信が無い。

岩城宏之の絶対音感が無いと言うのと、小生が言うのでは当然ながらレベルの差は大きいはずだ。
でも、音楽はフィーリングだと自分に言い聞かせ、日々自己満足の世界に浸っているのだ。

絶対音感、岩城宏之はこんな捉え方をしていた。
絶対音感を持つことと、音楽才能とは別のことである。
幼いときから音感の訓練を受けていれば誰にでも可能なことだそうだ。
猿にも可能じゃないかとまで言っていた。
うーん、それもどうかとは思うけど、確かに音楽才能とは別物のようだ。
また、絶対音感の持ち主は音程に融通性が利かないそうだ。
合唱などのハーモニーの場合、一曲が終わる頃には音程が半音の1/4程度下がっているのが自然らしい。
しかし、絶対音感の持ち主はその辺が苦痛に感じられるそうだ。

音と音の間の開きを、音楽的に感じる事を相対音感と言っている。
小生、初めて知った。

そうだ、相対音感だよなぁ。
カラオケでキーを外している貴兄に、相対音感という言葉のプレゼントはいかが?


フジ子・フェミング

2007-03-25 | 音楽の調べ?
私の歩んできた道は、困難に見えるかもしれない。
インタビューを受けて昔のことを聞かれたりする。
なかには思い出したくないこともある。
人間はなんのために生きるのかって考えるけれど、
人生はいろんな苦難を乗り超えていくためにあると思う。
なにもしないで、生きていくなんてダメ。

人に名を知られるようになって生活は変わったけれど、
私自身はなにも変わらない。
今も昔も嫌なことは嫌というし。
それで去っていく友達もいる。
嫌なところがあっても、お互い認め合うことが大事ね。
私自身も、昔はなにかあるとすぐ友達に絶交状を送りつけたこともあった。
もったいないことをしたと、今は思う。
トルストイの言葉、
「他人に対して、どうあるべきかを押し付けてはいけない」
をよく思い出す。
人間は身近な関係から、違うところを認めあっていかないといけないわね。

若いときはちょっとしたことでもしゃくにさわって、人を傷つけたりしたこともあった。
それで、夜も眠れないくらいに悩んだこともある。
でも、嫌なことを乗り越えていけばいいのよ。
淡々と空でも見て。
人間がそんな気持ちになれば、戦争も起こらなくなるでしょうに。
~「運命の力」フジ子フェミング著 TBSブリタニカより

フジ子フェミングのCDを改めて聞く。
ラカンパネラに代表される力強い響きは、彼女の人生そのもののようにさえ感じる。
間違ったって良いじゃない。機械じゃないのよ。
と言い切れるピアニスト。
そんな彼女の音楽が好きだ。

真実の軌跡

2007-03-08 | 音楽の調べ?
ふと立ち止まった所に、「フジ子・フェミング真実の軌跡」と題した書籍が書棚ケースの中に納められていた。
フジ子・フェミングに関して以前ブログ投稿をした事もあり、彼女の音楽やここまで辿ってきた道のりはある程度知っていた。
ショパンとリストを演奏するために生まれてきたピアニストと今では絶賛される彼女。
彼女の人生の軌跡は決して一言では語れない。

中でも衝撃的な事は、壮絶な日々を送りながらやっと事で掴んだ数少ないチャンスが悲劇的結末を迎えてしまう。
一度目は、カラヤンとの出会い。
二度目は、バーンスタインとの出会い。
特に、彼女の才能を絶賛し、後ろ盾を約束してくれたバーンスタインが、フジ子のリサイタルを設定してくれたにも関わらず、彼女の身に悲劇が起こってしまう。
折角のチャンス、こんな事があって良いのだろうかと誰もが感じる壮絶な出来事だ。

当時ウィーンにいたフジ子は、貧困の生活を余儀なくされ、ある未亡人の所に身を寄せていた。
マイナス10度を超える極寒の中、安普請の家に冷気が入り込み、そこで風邪をこじらせてしまった。
しかし、彼女には医者にかかるお金がなく、安いワインで体を温めているだけだった。
リサイタル1週間前に、彼女の耳は聞こえなくなってしまう。
音楽家に取って聴力は命だ。
誰にも聴力の事は言わないで無理矢理リサイタルを決行したフジ子の評判は、言うまでもないように酷評に終わってしまったのだ。

壮絶な人生の軌跡そのものが、一瞬にして彼女の脳裏に走り、絶望感と孤独感で人生の終焉を感じざぜるを得なかったと思う。

しかし、今は違う。
ラ・カンパネラのあの鐘の響きは、彼女自身の人生を物語っているようにも聞こえる...。








Season's Greetings

2006-12-24 | 音楽の調べ?
昨夜からクラシック音楽を聴いている。
聞いているのではなく、一応聴いているつもりだ。
普段聴くことのないクリスマスキャロルだ。
自分に似合おうとも似合わないとも関係ない。まずは聴いてみようと思ったのだ。

それは、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からはじまった。
クリスマスキャロルではないと思うが、くるみ割り人形は、少女クララがクリスマスプレゼントをもらったことから物語がはじまるのだ。
そのような情景を音楽を聴きながら想像できるので意外と分かりやすい。

せっかちな小生は、くるみ割り人形が終わるや否や、続きざまにカラヤン指揮のCD クリスマスアダージョを聴いた。
うーん、クリスマス協奏曲なるものがあるんだなぁ、と感心しながらも聴いてみた。

作曲者はトレッリ?、マンフレディーニ?、ロカテッリ???など、初めて聞く名前だ。
なんとなくクリスマスの雰囲気は伝わるのだが、次第に長丁場になってメリハリがなくなってくる。
メリハリがないというのは、当然ながら小生の主観的なものであり、音楽そのものを理解していないための貧弱な発想と思ってもらって差し支えない。
そこで、曲目を少し飛ばすことにした。
いやっ、少しどころか最後の曲まで飛ばしてしまった。

最後の曲は、おなじみのSilent Nightだった。
トランペットとトロンボーンによる演奏だ。
カラヤンでも、このようなブラスアンサンブルもCDに残すのだなぁ、とこれには関心してしまった。

クラシックCDも他に徹底的に聴くつもりだったが、小生、熱し易く冷め易いという柔軟な性格を持ち合わせているため、急遽予定を変更して山下達郎のCDを聴くことにした。

Season’s Greetings/Taturo Yamashita 1993MMGinc.だ。

これは、山下達郎が1993年に出した全て英語バージョンのCDだ。
全曲がクリスマスキャロルというわけではないが、まさにこの時期しか聴かないアルバムだ。
達郎の名曲Christmas Eveも英語バージョンで入っている。

うーん、たまにはシングルモルト片手に聴くのも良いなぁ。

Mery Christmas!!



ラフマニノフ 《鐘》

2006-11-20 | 音楽の調べ?
たまにはこんな音楽もいい。
取り出したのは、ラフマニノフの出世作:前奏曲嬰ハ短調Op.3-2《鐘》

あまりにも印象に残る。
重い連打によるメロディーが鐘を奏でる。

もしもピアノが弾けたなら、こんな一曲を深夜に思いっきり弾いてみたい。
そんな曲だ。




フジ子 フェミングとラ・カンパネラ

2006-09-04 | 音楽の調べ?
日曜日の午前中、TV番組の中でフジ子フェミングが、ラ・カンパネラを演奏していた。
フジ子フェミングの指先はとても繊細とは言えないし、勿論決して若くはない。
しかし、演奏を聴く限りでは、とてもパワフルで ラ・カンパネラのあの鐘の模倣した音色がとても印象的だった。

アナウンサーが、「激動の人生を歩んできた....。」云々とフジ子フェミングを紹介していたが、その時は何の事か分からなかった。
実は、フジ子フェミング 初めて聞いたピアニストだった。

フジ子フェミングが気になったので、その日の午後、図書館に行きフジ子フェミングのCDを探しに行った。
そのCDを今、改めて聞いている。
CDの中にフジ子フェミングのプロフィールが載っていた。
激動の人生・・・なる程意味が分かった。

彼女は幼い頃からピアノを習い、世界的なピアニストの夢を抱いていた。
16歳の時に右耳の聴力を失い、持ちえた才能を発揮できないままヨーロッパに渡る。
そして、世界デビューを果たそうとしたその直前に両耳の聴力を失ってしまう。
その後も波乱の人生を歩むことになる。

うーん。信じられない。
今このCDを聞く限りではそんなハンディキャップは感じられない。
(現在では左耳が40%の聴力だそうだ)
ハンディキャップを感じるどころかパワフルさを感じたのだ。

ラ・カンパネラ繰り返し聞いてみた。
彼女の激動の人生を彷彿させるかのごとく、鐘の音はパワフルで繊細な響きとともに流れていった。


ピアノ協奏曲第一番(ショパン)

2006-06-18 | 音楽の調べ?
クラシック音楽は丸首のカシミアのセーターである。
もとより色や形は変哲もなく、風合さえも、およそ代り映えがしないのが丸首のセーターである。
同じように百年一日のごとく、バッハやモーツァルトの作品を取り上げてコンサートを行っているのがクラシック音楽である。
とサライ紙上で音楽評論家が言っていた。

なるほど面白い事を言うなと感じながらサライを読んでいた。
そうだ、たまにはクラシックでも思い、ショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調を聞いてみた。
協奏曲とは言え、第三楽章まで40分ある大作だ。

うーん。
第一楽章は哀切の情を歌うメロディが印象的だが、どうも第三楽章の最後まではなかなか音楽に集中できない。
いつの間にか、別の事を考えはじめてしまっている。
ピアノ小品などは比較的聞くほうだが、曲全体を通して大局観でその音楽を捉えるのは、今の自分には至難の業だ。
やっぱりメロディが口ずさめるものが良いなぁ。

しかし、このような大作をよく作曲できるものだ。
音楽そのものよりもそういった事に敬意を表してしまうのは自分だけだろうか?
この曲、ショパンが20歳の時に作曲したものだそうだ。