2011.2/21 900
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(77)
「暮れぬれば、例の『彼方に』ときこえて、御湯漬けなど参らせむとすれど、『近くてだに見奉らむ』とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今少し気近きかたに、屏風など立てさせて入り居給ふ」
――この日も暮れましたので、侍女が、薫にはいつものように「あちらの御客間にどうぞ」と申し上げ、お湯漬けなどを差し上げようとしますが、薫は「せめてお近くに居りまして御看病申したい」とおっしゃいます。南廂は僧たちのお席が準備されていますので、東面の大君のお部屋の少しお近くに屏風などを立てさせて、そこにお入りになります――
「中の宮苦しとおぼしたれど、この御中を、なほもてはなれ給はぬなりけり、と、皆思ひて、疎くももてなし隔て奉らず。初夜よりはじめて法華経を不断に読ませ給ふ。声たふときかぎり十二人して、いと尊し」
――中の宮(中の君のこと)は余りにも薫がお近くにいらっしゃいますので、いくら何でも、はしたないこととお思いになりますが、侍女たちはみな、やはり薫と大君とは、それらしい間柄であるとお察ししていますので、よそよそしく薫を遠ざけるようなことはいたしません。初夜(そや)の勤行から始めて、法華経などを絶え間なくお読ませになります。声の尊い僧ばかり十二人で、それはそれは有難く聞こえるのでした――
「燈はこなたの南の間に灯して、内は暗きに、几帳を引き上げて、少しすべり入りて見奉り給へば、老人ども二三人ぞさぶらふ」
――灯は東面の南の間に灯して、大君の居られる中は暗いので、几帳の帷子(かたびら)を引き上げて少し滑るようにして入ってごらんになりますと、老女が二三人控えております――
お側にいらした中の君はさっと隠れておしまいになりましたので、あたりはひっそりとして、大君だけが心細げに臥せっておいでになりますのを、薫が、
「『などか御声をだに聞かせ給はぬ』とて、御手をとらへておどろかしきこえ給へば」
――「お声だけでもどうしてお聞かせくださらないのです」とお手を捉えて、目をお覚まさせしますと――
大君は、
「心地には覚えながら、物言ふがいと苦しくてなむ。日頃おとづれ給はざりつれば、おぼつかなくて過ぎ侍りぬべきにや、と、くちをしくこそ侍りつれ」
――心ではお話したいと存じながら、近頃お訪ねくださいませんでしたので、このままお目にかからずに死んでしまうのかしら、と、悲しく思っておりました――
と、苦しげな息の下からおっしゃいます。
◆中の宮=中の君のこと。ときどき混同して書かれている。
◆初夜よりはじめて=初夜(そや)よりはじめて=初夜は夜六時の一で、現在の十時~十二時の間。この時刻から始めて僧が、代わるがわる連続して休みなく読経する。
◆絵:大君を看病する薫
では2/23に。
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(77)
「暮れぬれば、例の『彼方に』ときこえて、御湯漬けなど参らせむとすれど、『近くてだに見奉らむ』とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今少し気近きかたに、屏風など立てさせて入り居給ふ」
――この日も暮れましたので、侍女が、薫にはいつものように「あちらの御客間にどうぞ」と申し上げ、お湯漬けなどを差し上げようとしますが、薫は「せめてお近くに居りまして御看病申したい」とおっしゃいます。南廂は僧たちのお席が準備されていますので、東面の大君のお部屋の少しお近くに屏風などを立てさせて、そこにお入りになります――
「中の宮苦しとおぼしたれど、この御中を、なほもてはなれ給はぬなりけり、と、皆思ひて、疎くももてなし隔て奉らず。初夜よりはじめて法華経を不断に読ませ給ふ。声たふときかぎり十二人して、いと尊し」
――中の宮(中の君のこと)は余りにも薫がお近くにいらっしゃいますので、いくら何でも、はしたないこととお思いになりますが、侍女たちはみな、やはり薫と大君とは、それらしい間柄であるとお察ししていますので、よそよそしく薫を遠ざけるようなことはいたしません。初夜(そや)の勤行から始めて、法華経などを絶え間なくお読ませになります。声の尊い僧ばかり十二人で、それはそれは有難く聞こえるのでした――
「燈はこなたの南の間に灯して、内は暗きに、几帳を引き上げて、少しすべり入りて見奉り給へば、老人ども二三人ぞさぶらふ」
――灯は東面の南の間に灯して、大君の居られる中は暗いので、几帳の帷子(かたびら)を引き上げて少し滑るようにして入ってごらんになりますと、老女が二三人控えております――
お側にいらした中の君はさっと隠れておしまいになりましたので、あたりはひっそりとして、大君だけが心細げに臥せっておいでになりますのを、薫が、
「『などか御声をだに聞かせ給はぬ』とて、御手をとらへておどろかしきこえ給へば」
――「お声だけでもどうしてお聞かせくださらないのです」とお手を捉えて、目をお覚まさせしますと――
大君は、
「心地には覚えながら、物言ふがいと苦しくてなむ。日頃おとづれ給はざりつれば、おぼつかなくて過ぎ侍りぬべきにや、と、くちをしくこそ侍りつれ」
――心ではお話したいと存じながら、近頃お訪ねくださいませんでしたので、このままお目にかからずに死んでしまうのかしら、と、悲しく思っておりました――
と、苦しげな息の下からおっしゃいます。
◆中の宮=中の君のこと。ときどき混同して書かれている。
◆初夜よりはじめて=初夜(そや)よりはじめて=初夜は夜六時の一で、現在の十時~十二時の間。この時刻から始めて僧が、代わるがわる連続して休みなく読経する。
◆絵:大君を看病する薫
では2/23に。