永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて

2015年06月11日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (41) 2015.6.11

「かくて、とかう物するなど、いたづく人おほくて、みなし果てつ。今はいとあはれなる山寺につどひて、つれづれとあり。夜、目もあはぬままになげき明かしつつ、山づらを見れば、霧はげに麓をこめたり。京も、げに誰がものへかは出でんとすらん、いで、なほこころながら死なんと思へど、生くる人ぞいとつらきや。」
◆◆こうして、あれこれ母親の葬儀万端をとりはかってくれる人が大勢いて、すべて滞りなく済ませました。今はたいそう悲しい思いのする山寺にみな一緒に喪に服しながら、それぞれが過ごしていました。夜、眠れぬままに一晩中嘆きあかして、明け方に山の方を眺めると、霧が麓まで立ち込めていました。京に帰るとして、いったい誰のところへ身を寄せるというのであろう、いっそこのままここで死んでしまいたいと思うけれど、生きさせようとする人々がいるので、まことに辛いことなのでした。◆◆

「かくて十よ日になりぬ。僧ども念仏のひまに物語するを聞けば、『この亡くなりぬる人の、あらはに見ゆる所なんある。さて近くよれば、消え失せぬなり。遠うては見ゆるなり』、『いづれの国とかや』『みみらくの島となむ言ふなる』など、口々語るを聞くに、いと知らまほしう悲しうおぼえて、かくぞ言はるる。」
◆◆こうして十日あまりにもなりました。僧侶たちがお勤めの合い間に話しているのを聞くと、「この亡くなった方の姿が、はっきりと見える所があるそうだ。だが近づくと、消え失せてしまうという。遠くからならば見えるということだ」「それはどこにある国かね」「みみらくの島という所らしい」などと、口々に言うのを聞くと、そこを知りたくて、又悲しくなって、わたしはこんな歌を口ずさんだのでした。◆◆


「<ありとだによそにても見む名にし負はば我に聞かせよみみらくの山>
と言ふを、せうとなる人聞きて、それも泣く泣く、
<いづことか音にのみ聞くみみらくの島隠れにし人を尋ねん>
かくてあるほどに立ちながらものして、日々に訪ふめれど、ただいまは何心もなきに、穢らひの心もとなきこと、おぼつかなきことなど、むつかしきまで書きつづけてあれど、物おぼえざりしほどのことなればにや、おぼえず。」
◆◆(道綱母の歌)「母の姿をせめて遠くからでも見たい。耳を楽しませるとその名のとおりなら、母上がいるということを私に聞かせておくれ、耳楽の山よ」
と。すると弟なる人が耳にして、泣く泣く、
(道綱母の弟の歌)「噂に聞くだけの、みみらくの島の在り処を、どこなのかと探して、亡き母上をお探し申したらよいのだろう」
こうしている間にもあの人は訪れては立ったまま、毎日見舞ってくれるようでしたが、こちらはただもうぼおっとしていて、穢れの間のことや、はっきりしないことなどが書き綴られているけれども、そのあたりのことは悲しみに沈んでいた時期だったので、まったく覚えていないのでした。◆◆


■みみらくの島=五島列島の福江島の三井楽(北端)で、遣唐使一行の船はかならずそこで飲料水や食料を詰め込み、外国へ向うのが常であった。夜になると死んだ人があらわれて、父子相見るといわれていた。

■せうとなる人=兄弟で、ここでは、道綱母の同母弟の「長能」だろうといわれる。歌人であった。