永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(80)

2015年11月10日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (80) 2015.11.10

「かうなどしゐたるほどに、秋は暮れ、冬になりぬれば、なにごとにあらねど、ことさわがしき心ちしてありふるうちに、十一月に、雪いと深くつもりて、いかなるにかありけん、わりなく、身こころうく、人つらく、かなしくおぼゆる日あり。つくづくとながむるに、思ふやう、
<ふる雪につもる年をばよそへつつ消えむ期もなき身をぞうらむる>
など思ふほどに、つごもりの日、春のなかばにもなりにけり。」
◆◆こんなことをしているうちに、秋は暮れ、冬になったので、何となく忙しい気持ちで過ごしているうちに、11月に雪が深く積もって、どうしたわけでしょうか、無性にわが身が情けなく、あの人が恨めしく、悲しく思われる日がありました。しんみりとした物思いの中で思ったことは、
(道綱母の歌)「降り積む雪に自分の歳を比べながら、雪は消えるが、いつ消えるか分らないわが身がつくづく恨めしく思われます」
こんなふうに過ごし、大晦日を過ごし、春の半ばになったのでした。◆◆


■ことさわがしき=安和二年秋から冬にかけては、作者の近辺も含めてさまざまなことが起っていた。冷泉天皇の譲位、円融天皇践祚、兼家東宮太夫をやめ、昇殿、道綱童殿上、兼家正三位、
天皇即位式、登子尚侍に任ぜらる。藤原師尹薨去(八月賀の祝い。十月死去)など。


■『蜻蛉日記』中巻 著者村上悦子の解説から引用。
「わりなく、身心憂く、人辛く、悲しくおぼゆる日あり」と暗いせつないことばを書き連ねた箇所は、『蜻蛉日記』の中ではここのみであり、そのあとに、生きるすべを失ったような絶望に瀕した「降る雪の……」の歌が書かれている。彼女は円融天皇のご即位や兼家の栄達、道綱の童殿上など明るい晴れやかな話にはまったく触れずにただ自己の鬱積した暗澹とした心情のみを垣綴っているのはどうしたことだろう。……。東三条邸がだんだん竣工し、この頃になるといったい誰が新邸入りするかが人々の話題にのぼり、時姫母子は確実に新邸の住人になろうが、道綱母子は恐らく迎えいれられないであろうという噂がひろがり、兼家も今はそれを否定せず、噂どおりに事が着々と進捗しつつあったからではなかろうか。作者の何よりの宿望は生涯兼家の夫人として世人から一目置かれることと、道綱が兼家息として栄達し大臣の座にも就くことで、そのため是非本邸に迎えられたかったのであろう。本邸入りにより時姫は正室的存在となり、作者は一介の妻として兼家の気が向くときだけ通う。場合によっては、いつ捨てられるかも知れない。道綱の将来も案じられる。作者にとっては号泣すべき、きわめて
大きな出来事であったのである。作者は時姫を羨望し兼家を怨恨し、生きる張り合いをまったく喪失し、だれにも怒りのぶちまけようのない絶望の淵に落ち込んだのだが、やはり書くに堪えなかったのであろう。しかもプライドも許さなかったのであろう。そこではっきりと理由を表面に出さず、独詠でもって絶望感を表したのではあるまいか。