蜻蛉日記 中卷 (88) 2015.12.25
「貞観殿の御方は、おととし尚侍になりたまひにき。あやしく、かかる世をも問ひたまはぬは、このさるまじき御中の違ひにたれば、ここをもけ疎くおぼすにやあらん、かくことのほかなるをも知り給はでと思ひて、御文たてまつるついでに、
<ささがにの今はとかぎる筋にてもかくてはしばし絶えじとぞ思ふ>
ときこえたり。返りごと、なにくれといとあはれにおほくのたまひて、
<絶えきとも聞くぞかなしき年月をいかにかきこし蜘蛛ならなくに>」
◆◆貞観殿の御方(兼家の妹・登子)は、おととし尚侍におなりになりました。どうして私のこの境遇をお尋ねくださらないのか、仲たがいなさるはずもないご兄妹の仲が気まずくなってしまったので、その縁につながる私までうとうとしくお思いになるのでしょうか、こんな意外な状態になってしまっている私たち夫婦の仲をご存知なくてはと思って、お手紙を差し上げるついでに、
(道綱母の歌)「私たち夫婦の仲はもうおしまいでございますが、夫との血縁でありましても、あなたさまとは、仲がとぎれないようにいたしたいです」
と申し上げます。お返事は、なにやかやと身に沁みるお言葉をお書きくださって、
(貞観殿登子の歌)「あなた方の御仲が絶えたと聞くのは、とても悲しゅうございます。長年あなたを思い続けてきた兼家ですのに。」
「これを見るにも、見聞きたまひしかばなど思ふに、いみじく心地まさりてながめ暮すほどに、文あり。『文物すれど、返りごともなくはしたなげにのみあめれば、つつましくてなん。今日もと思へども』などぞあめる。これかれそそのかせば、返りごと書くほどに、日暮れぬ。まだ行きも着かじかしと思ふほどに、見えたる。」
◆◆この歌を拝見するにつけても、私たちの仲をよくご存知だったのかと思うと、ますます悲しくなってきて、物思いに沈んでしまっているときに、あの人から手紙がありました。「手紙を出したが返事もなく、まるで取り付くしまもない状態だから、つい伺うのが億劫でね。今日でも訪ねようと思っているが…」などと書いてあるようだった。侍女たちが、返事をするようにと勧めるので、書いているうちに日が暮れてしまったのでした。返事を持たせた使いがまだ先方に行きつかないだろうと思う頃に、あの人が姿を見せます。◆◆
「人々『なほあるやうあらん、つれなくてけしきを見よ』など言へば、思ひかへしてのみあり。『慎むことのみあればこそあれ、さらに来ずとなん我は思はぬ。人のけしきばみくせぐせしきをなん、あやしと思ふ』など、うらなくけしきもなければ、け疎くおぼゆ」
◆◆侍女たちが、「なにかご事情がおありなのでしょう。知らぬふりをして、様子を御覧なさいませ」と言うので、じっと我慢していました。あの人は「物忌みや方たがえばかり続いたので来られなかったのだが、決して訪れまいと思っていたわけではない。あなたが怒って拗ねているのが不思議に思うよ」などと、まったく単純で上機嫌なので、こちらの気も知らず興ざめに思ったのでした。◆◆
「つとめては、『ものすべきことのあればなむ。今、あすあさてのほどにも』などあるに、まことは思はねど、思ひ直るにやあらんと思ふべし、もし、はたこのたびばかりにやあらんと心みるに、やうやうまた日かず過ぎゆく。さればよと思ふに、ありしよりもけの物ぞかなしき。」
◆◆翌朝あの人は、「しなければならない用事があるので今夜は来れない。すぐ明日、明後日のうちにでも来よう」などと言う。この言葉どおりとは思わないけれど、あの人が思いなおしてくれたのだろうか、あるいは今回だけのことかも知れないと思って、様子を見ていると、だんだんと又しても日数が経って行くので、案の定そうだったのかと思うと、以前よりましてもの悲しくなってくるのでした。◆◆
■尚侍(ないしのかみ)=尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。
准位は従五位のち従三位。定員は2名。多くは摂関家などの有力な家の妻や娘から選任された。天皇の側近くに仕えて、臣下が天皇に対して提出する文書を取り次いだり、天皇の命令を臣下に伝えること(内侍宣)などをした。もともと、これらの職掌は尚侍のみのものであって、典侍以下が扱うことはできなかった。奈良時代から平安時代前期には尚蔵を兼ねることもあった。
■このさるまじき御中の違ひにたれば=兼道、兼家兄弟の不仲の余波で、妹登子と兼家の間も疎遠であったのか、又は、兼家と登子の不仲か。
「貞観殿の御方は、おととし尚侍になりたまひにき。あやしく、かかる世をも問ひたまはぬは、このさるまじき御中の違ひにたれば、ここをもけ疎くおぼすにやあらん、かくことのほかなるをも知り給はでと思ひて、御文たてまつるついでに、
<ささがにの今はとかぎる筋にてもかくてはしばし絶えじとぞ思ふ>
ときこえたり。返りごと、なにくれといとあはれにおほくのたまひて、
<絶えきとも聞くぞかなしき年月をいかにかきこし蜘蛛ならなくに>」
◆◆貞観殿の御方(兼家の妹・登子)は、おととし尚侍におなりになりました。どうして私のこの境遇をお尋ねくださらないのか、仲たがいなさるはずもないご兄妹の仲が気まずくなってしまったので、その縁につながる私までうとうとしくお思いになるのでしょうか、こんな意外な状態になってしまっている私たち夫婦の仲をご存知なくてはと思って、お手紙を差し上げるついでに、
(道綱母の歌)「私たち夫婦の仲はもうおしまいでございますが、夫との血縁でありましても、あなたさまとは、仲がとぎれないようにいたしたいです」
と申し上げます。お返事は、なにやかやと身に沁みるお言葉をお書きくださって、
(貞観殿登子の歌)「あなた方の御仲が絶えたと聞くのは、とても悲しゅうございます。長年あなたを思い続けてきた兼家ですのに。」
「これを見るにも、見聞きたまひしかばなど思ふに、いみじく心地まさりてながめ暮すほどに、文あり。『文物すれど、返りごともなくはしたなげにのみあめれば、つつましくてなん。今日もと思へども』などぞあめる。これかれそそのかせば、返りごと書くほどに、日暮れぬ。まだ行きも着かじかしと思ふほどに、見えたる。」
◆◆この歌を拝見するにつけても、私たちの仲をよくご存知だったのかと思うと、ますます悲しくなってきて、物思いに沈んでしまっているときに、あの人から手紙がありました。「手紙を出したが返事もなく、まるで取り付くしまもない状態だから、つい伺うのが億劫でね。今日でも訪ねようと思っているが…」などと書いてあるようだった。侍女たちが、返事をするようにと勧めるので、書いているうちに日が暮れてしまったのでした。返事を持たせた使いがまだ先方に行きつかないだろうと思う頃に、あの人が姿を見せます。◆◆
「人々『なほあるやうあらん、つれなくてけしきを見よ』など言へば、思ひかへしてのみあり。『慎むことのみあればこそあれ、さらに来ずとなん我は思はぬ。人のけしきばみくせぐせしきをなん、あやしと思ふ』など、うらなくけしきもなければ、け疎くおぼゆ」
◆◆侍女たちが、「なにかご事情がおありなのでしょう。知らぬふりをして、様子を御覧なさいませ」と言うので、じっと我慢していました。あの人は「物忌みや方たがえばかり続いたので来られなかったのだが、決して訪れまいと思っていたわけではない。あなたが怒って拗ねているのが不思議に思うよ」などと、まったく単純で上機嫌なので、こちらの気も知らず興ざめに思ったのでした。◆◆
「つとめては、『ものすべきことのあればなむ。今、あすあさてのほどにも』などあるに、まことは思はねど、思ひ直るにやあらんと思ふべし、もし、はたこのたびばかりにやあらんと心みるに、やうやうまた日かず過ぎゆく。さればよと思ふに、ありしよりもけの物ぞかなしき。」
◆◆翌朝あの人は、「しなければならない用事があるので今夜は来れない。すぐ明日、明後日のうちにでも来よう」などと言う。この言葉どおりとは思わないけれど、あの人が思いなおしてくれたのだろうか、あるいは今回だけのことかも知れないと思って、様子を見ていると、だんだんと又しても日数が経って行くので、案の定そうだったのかと思うと、以前よりましてもの悲しくなってくるのでした。◆◆
■尚侍(ないしのかみ)=尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。
准位は従五位のち従三位。定員は2名。多くは摂関家などの有力な家の妻や娘から選任された。天皇の側近くに仕えて、臣下が天皇に対して提出する文書を取り次いだり、天皇の命令を臣下に伝えること(内侍宣)などをした。もともと、これらの職掌は尚侍のみのものであって、典侍以下が扱うことはできなかった。奈良時代から平安時代前期には尚蔵を兼ねることもあった。
■このさるまじき御中の違ひにたれば=兼道、兼家兄弟の不仲の余波で、妹登子と兼家の間も疎遠であったのか、又は、兼家と登子の不仲か。