永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(92の解説から)

2016年01月23日 | Weblog
(92)全体の解説(上村悦子著)から  2016.1.23

 石山寺へ作者が突然、供人もそろえず、しかも最初の間、徒歩で家を抜け出るや小走りにどんどん進んで行った理由は何であろう。作者のような貴婦人の行為としてはまったく異常である。道綱も大勢の侍女も伴わないので遊山でないことはむろんであるが、なぜそんなに思いつめて石山詣でを決行したのであろう。


 一説では兼家との仲を断念して出家しようと決意したからだと言われるが、そのすぐ前に、作者が尼になる希望を道綱に漏らした時の子どもの反応の激しさに驚き、出家することを思いとどまっている。(略)そして最後に、「さもあらばれ、今はなほ然るべき身かは」と言っている。その他種々のことを考え合わせ、出家する前提として作者は石山詣でを思いたったとは思われない。
(略)今一度兼家の愛情を取り戻したい。出来たら子宝を得たい。また道綱の将来の出世も祈念したい。こうした願いから霊験あらたかな石山寺に参詣したのではないかと考える。侍女たちから兼家の愛人の名を具体的に種々聞かされただけに、作者は矢も盾もたまらず、急遽でかけたのであろう。
 

次に紀行文として本項をみると、石山寺の御堂の周辺の模様が上下遠近にわたって視野広く、また光や風・色・種々の音を入れて、きわめて克明にビビットに描かれている。日常の苦悩の多い身の上を書く時のあの近接同語の頻出やまわりくどい、わかりにくい、充分洗練されていない文章に比べると、これはまったく渋滞なくすらすらと写生するごとく紙面にうつしとられている。私たちの脳裏に千年前の風景や音が鮮やかによみがえる思いがする。(略)


 作者の自然描写は自然のみを切り離して描写するのでなく、その中に人物の行動と心理をとけこませて描写していくので、主観的な叙情性がたたえられている。(略)
 この旅によって作者自身の人生観照も深まり、人生・自然を見る目もたしかとなり作家としての成長が感じられる。