枕草子を読んできて
読む前に。 2017.12.12
参考文献:日本古典文学大系19 岩波書店刊行 『枕草子 紫式部日記』
日本の古典12 小学館 『枕草子』一、二
「作者について」その1 (1)
『枕草子』の作者は、清少納言一人の女性である、という点については、今日ほとんど異論がないといってよかろう。しかしそれではその清少納言は、どのような生涯をたどったかということになると、この当時の女性の通例として必ずしも明らかではない部分が非常に多いのである。
(中略)
しかし近年、『枕草子』をめぐるさまざまの研究が進むにつれて、そのおぼろげな輪郭はどうにかたどることができるようになってきた。そうした先賢の研究の成果の一端をふまえて、まず清少納言の生涯を概観しておきたい。
清少納言の父は清原元輔である。元輔は延喜八年(908)に生まれ、正暦元年(990)に八十三歳で没した。官位は肥後の守どまりでさほど高くはなかったが、和歌所寄人の一人として『後撰和歌集』の撰う進にあずかり、また『万葉集』に訓点をほどこす仕事にたずさわりなどして、歌人としては著名な人であった。また軽快洒脱で自在な人柄であった。そうした面は清少納言にもそのままあらわれているようである。母については全く不詳といってよい。
(中略)
清少納言は康保三年(966)に生まれたものと推定されている。父元輔はすでに五十九歳であった。天元四年(981)、橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌五年二人の間に一子則長が誕生したものと考えられる。十六、十七歳のころのことである。(中略)二人は間もなく別れ、その後は「いもうと」「せうと」といった義兄妹の間柄として親しく交際していたらしい。
「作者について」その2 (2)
定子の許に出仕したのは正暦四年(993)のころであろう。この年作者は二十八歳、女房としてはかなり年かさであった。中宮定子よりほぼ十歳年上ということになる。
「清少納言」なる呼名は、宮仕えに出仕することによって与えられた女房名である。はどうして宮仕えするに至ったのであろうか。その動機に関しても直積的な資料はもとより残されてはいないが、やはり『枕草子』の内容から作者側におけるその素地のようなものが窺えるようである。
中宮側における何らかのを契機として宮仕えを実現に至らしめたものであろう。これより以前、正暦元年六月に、父元輔は八十三歳で没している。このとき清少納言は二十五歳前後であった。父の死や則光との結婚生活の失敗を宮仕えに踏み切った原因とみる説もある。
清少納言は、長保二年(1000)十二月十六日、中宮定子崩御まで宮仕えをつづけていたことはほぼ確実である。以後宮仕えの生活はなかったとみてよいであろう。
そののちの、晩年の清少納言に関しては、もとより資料に乏しいのであるが、全体としてさびしい姿がうかがわれるようである。孤独な晩年を伝える歌がわすかに見えている。『清少納言集』に拠ると、一時摂津国に住んでいたらしいが、晩年は京都の郊外の月の輪に居住していた模様である。没年はもとより不明というよりほかない。
読む前に。 2017.12.12
参考文献:日本古典文学大系19 岩波書店刊行 『枕草子 紫式部日記』
日本の古典12 小学館 『枕草子』一、二
「作者について」その1 (1)
『枕草子』の作者は、清少納言一人の女性である、という点については、今日ほとんど異論がないといってよかろう。しかしそれではその清少納言は、どのような生涯をたどったかということになると、この当時の女性の通例として必ずしも明らかではない部分が非常に多いのである。
(中略)
しかし近年、『枕草子』をめぐるさまざまの研究が進むにつれて、そのおぼろげな輪郭はどうにかたどることができるようになってきた。そうした先賢の研究の成果の一端をふまえて、まず清少納言の生涯を概観しておきたい。
清少納言の父は清原元輔である。元輔は延喜八年(908)に生まれ、正暦元年(990)に八十三歳で没した。官位は肥後の守どまりでさほど高くはなかったが、和歌所寄人の一人として『後撰和歌集』の撰う進にあずかり、また『万葉集』に訓点をほどこす仕事にたずさわりなどして、歌人としては著名な人であった。また軽快洒脱で自在な人柄であった。そうした面は清少納言にもそのままあらわれているようである。母については全く不詳といってよい。
(中略)
清少納言は康保三年(966)に生まれたものと推定されている。父元輔はすでに五十九歳であった。天元四年(981)、橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌五年二人の間に一子則長が誕生したものと考えられる。十六、十七歳のころのことである。(中略)二人は間もなく別れ、その後は「いもうと」「せうと」といった義兄妹の間柄として親しく交際していたらしい。
「作者について」その2 (2)
定子の許に出仕したのは正暦四年(993)のころであろう。この年作者は二十八歳、女房としてはかなり年かさであった。中宮定子よりほぼ十歳年上ということになる。
「清少納言」なる呼名は、宮仕えに出仕することによって与えられた女房名である。はどうして宮仕えするに至ったのであろうか。その動機に関しても直積的な資料はもとより残されてはいないが、やはり『枕草子』の内容から作者側におけるその素地のようなものが窺えるようである。
中宮側における何らかのを契機として宮仕えを実現に至らしめたものであろう。これより以前、正暦元年六月に、父元輔は八十三歳で没している。このとき清少納言は二十五歳前後であった。父の死や則光との結婚生活の失敗を宮仕えに踏み切った原因とみる説もある。
清少納言は、長保二年(1000)十二月十六日、中宮定子崩御まで宮仕えをつづけていたことはほぼ確実である。以後宮仕えの生活はなかったとみてよいであろう。
そののちの、晩年の清少納言に関しては、もとより資料に乏しいのであるが、全体としてさびしい姿がうかがわれるようである。孤独な晩年を伝える歌がわすかに見えている。『清少納言集』に拠ると、一時摂津国に住んでいたらしいが、晩年は京都の郊外の月の輪に居住していた模様である。没年はもとより不明というよりほかない。