永子の窓

趣味の世界

枕草子を読んできて 作品の背景その1

2017年12月15日 | 枕草子を読んできて
「作品の背景について」その1  (3) 2017.12.15
 
作者の仕えた定子中宮なくして、『枕草子』は生まれ得なかったであろう。
平安中期に藤原兼家が政権をとるに及んで、藤原氏の位置は不動のものとなった。更に、兼家の長子道隆が関白となってからは、この一門は政治の中枢を占めると同時に、当時の文化全体をになう立場に置かれることともなって、まさに全盛をきわめたのである。
 
この道隆の一門を、同じ兼家の息でも道兼や道長の家と区別して、中関白家と称している。その道隆のむすめである中宮定子は、こうした中関白家の栄華と権威とを土台として、一条天皇ののとに入内したのであるが、むしろ定子の入内によって中関白家の基盤は定まったと表現すべきかもしれない。
 
こうした場合問題となるのは、中宮その人の資質のいかんであるが、幸いにも定子は稀にみる
お最高の美質を備えた女性であったからである。その中宮のもとに、清少納言は宮仕えしたのである。
 
ところが、宮仕え後、しばらくして不幸にも道隆は病没し、これを契機として中関白家は没落の一途をたどることになる。ついには道長の勢力に押しひしがれた形のうちに、定子は二十四歳の生涯を閉じ、それと同時に『枕草子』の中宮をめぐる記事にも終止符が打たれた。「をかし」や「めでたし」の語に代表される、中宮に対する明るく快い感動や賛美が全体の色調であって、われわれは主として外側の他の資料から、上述したような政治的な暗い背景を知らせれてむしろ驚くのである。
 
まず定子中宮のこうした運命の変転をもう少し具体的に述べておこう。定子中宮は貞元二年(977)才学のほまれ高い高内侍(高階成忠のむすめ貴子)を母として生まれた。『枕草子』にみえる伊周、隆家、隆円、淑景舎女御原子、御匣殿などは同母のきょうだいである。
 
定子は正暦元年(990)十四歳の折に、十一歳の一条天皇のもとに入内したが、一条天皇も道隆の妹東三条院詮子を母としているので、いとこ同士ということになる。正暦四年初出仕説に従えば、作者は二十八歳前後のころに、約十歳年下の中宮に宮仕えしたわけである。