七〇 草の花は (83) その2 2018.9.15
葦の花。さらに見所なけれど、みてぐらなど言はれたる、心ばへあらむと思ふに、ただならず。もしも薄にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめとおぼゆ。「これに薄を入れね、いとあやし」と、人言ふめり。秋の野おしなべたるをかしさは薄にこそあれ。穂先の蘇芳に、いと濃きが、朝露に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花のかたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白くおほきなども知らで、昔思ひ出で顔になびきてこひろき立てるは、人にこそいみじう似たンめれ。よそふる事ありて、それこそあはれとも思ふべけれ。
◆◆葦の花。それはさらに見所のない花だけれど、幣帛(みてぐら)などと言われているのは、それなりの意味があると思うと一通りではない。言葉の上でも歌に詠まれて薄(すすき)には劣らないけれど、葦は水辺に生えていておもしろいのであろうと思われる。「この『草の花は』の中に薄を入れないのは、とても変だ」と、人は言うようだ。秋の野を通じてのおもしろさというものは、まさに薄にこそあるのだ。穂先が蘇芳色で、たいへん濃いのが、朝露に濡れてうちなびいているのは、これほどすばらしいものが他にあろうか。しかし秋の終わりには全く見るべきところがない。色々な色に咲き乱れていた花が形もなく散ってしまった後、冬の末まで、頭が真白くオホキナ?をも知らないで、昔を思い出しているような顔つきで風になびいてゆらゆら立っているのは、人間に良く似ているように見える。こういうふうになぞらえることがあるので、それをこそしみじみと感慨深く思うはずなのである。◆◆
■みてぐら=神に供える幣帛。葦の花が白木綿(しらゆう)に似ているところから言うか。
■もしも=不審。一説「文字も」で言葉の意。葦も歌に詠まれて言葉の上で薄には劣らないが、と解く。仮に従う。
萩は、いと色深く、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、なよなよとひろごり伏したる。さを鹿のわきて立ち馴らすらむも、心ことなり。唐葵は、取りわきて見えねど、日の影にしたがひてかたぶくらむぞ、なべての草木の心ともおぼえでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹に。岩つつじも、ことなる事なけれど、「折りもてぞ見る」とよまれたる、さすがにをかし。さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。
◆◆◆◆萩はたいへん色が濃く、枝もしなやかに咲いているのが、朝露に濡れて、なよなよと広がって伏してしるのがいい。牡鹿がとりわけて好んでいつも立ち寄るそうであるのも、特別な感じがする。唐葵は、取り立てて美しいとは見えないけれど、日の光につられてその方向に向くそうであるのが、普通の草木の持つ性質とも思われないでおもしろい。花の色は濃くはないけれど、咲く山吹には心惹かれる。岩つつじも、特別なことはないけれど、「折もてぞ見る」と歌に詠まれているのは、そうは言うもののやはりおもしろい。薔薇は、近くにある場合は枝の様子がわずらわしいけれど、おもしろい。雨などがやっと止んで晴れていった水辺や、黒木の階などのあたりに、乱れ咲いている夕暮れの薄明かりの光の中での姿はおもしろい。◆◆
■さを鹿=「さ」は接頭語。牡鹿。
■唐葵(からあふひ)=「たちあおい」の古名という。
■花の色は濃からねど~=この一文不審。
■岩つつじ=山つつじ
■「折りもてぞ見る」=「岩つつじ折りもてぞ見るせこが着し紅染めの衣に似たれば」和泉式部。和泉式部は同時代の人であるが、当時有名なので引用したのか。
■さうび=ばら科の低木の総称。
葦の花。さらに見所なけれど、みてぐらなど言はれたる、心ばへあらむと思ふに、ただならず。もしも薄にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめとおぼゆ。「これに薄を入れね、いとあやし」と、人言ふめり。秋の野おしなべたるをかしさは薄にこそあれ。穂先の蘇芳に、いと濃きが、朝露に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花のかたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白くおほきなども知らで、昔思ひ出で顔になびきてこひろき立てるは、人にこそいみじう似たンめれ。よそふる事ありて、それこそあはれとも思ふべけれ。
◆◆葦の花。それはさらに見所のない花だけれど、幣帛(みてぐら)などと言われているのは、それなりの意味があると思うと一通りではない。言葉の上でも歌に詠まれて薄(すすき)には劣らないけれど、葦は水辺に生えていておもしろいのであろうと思われる。「この『草の花は』の中に薄を入れないのは、とても変だ」と、人は言うようだ。秋の野を通じてのおもしろさというものは、まさに薄にこそあるのだ。穂先が蘇芳色で、たいへん濃いのが、朝露に濡れてうちなびいているのは、これほどすばらしいものが他にあろうか。しかし秋の終わりには全く見るべきところがない。色々な色に咲き乱れていた花が形もなく散ってしまった後、冬の末まで、頭が真白くオホキナ?をも知らないで、昔を思い出しているような顔つきで風になびいてゆらゆら立っているのは、人間に良く似ているように見える。こういうふうになぞらえることがあるので、それをこそしみじみと感慨深く思うはずなのである。◆◆
■みてぐら=神に供える幣帛。葦の花が白木綿(しらゆう)に似ているところから言うか。
■もしも=不審。一説「文字も」で言葉の意。葦も歌に詠まれて言葉の上で薄には劣らないが、と解く。仮に従う。
萩は、いと色深く、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、なよなよとひろごり伏したる。さを鹿のわきて立ち馴らすらむも、心ことなり。唐葵は、取りわきて見えねど、日の影にしたがひてかたぶくらむぞ、なべての草木の心ともおぼえでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹に。岩つつじも、ことなる事なけれど、「折りもてぞ見る」とよまれたる、さすがにをかし。さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。
◆◆◆◆萩はたいへん色が濃く、枝もしなやかに咲いているのが、朝露に濡れて、なよなよと広がって伏してしるのがいい。牡鹿がとりわけて好んでいつも立ち寄るそうであるのも、特別な感じがする。唐葵は、取り立てて美しいとは見えないけれど、日の光につられてその方向に向くそうであるのが、普通の草木の持つ性質とも思われないでおもしろい。花の色は濃くはないけれど、咲く山吹には心惹かれる。岩つつじも、特別なことはないけれど、「折もてぞ見る」と歌に詠まれているのは、そうは言うもののやはりおもしろい。薔薇は、近くにある場合は枝の様子がわずらわしいけれど、おもしろい。雨などがやっと止んで晴れていった水辺や、黒木の階などのあたりに、乱れ咲いている夕暮れの薄明かりの光の中での姿はおもしろい。◆◆
■さを鹿=「さ」は接頭語。牡鹿。
■唐葵(からあふひ)=「たちあおい」の古名という。
■花の色は濃からねど~=この一文不審。
■岩つつじ=山つつじ
■「折りもてぞ見る」=「岩つつじ折りもてぞ見るせこが着し紅染めの衣に似たれば」和泉式部。和泉式部は同時代の人であるが、当時有名なので引用したのか。
■さうび=ばら科の低木の総称。