八八 里にまかでたるに (101)その2 2018.12.11
夜いたくふけて、門おどろおどろしくたたけば、何の、かく心もとなく、遠からぬほどをたたくらむと聞きて、問はすれば、滝口なりけり。左衛門のかみとて、文を持て来たり。みな寝にたるに、火近く取り寄せて、見れば、「明日、御読経の結願にて、宰相中将の御物忌に籠りたまへるに、『いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせたてまつるべき。いかに。仰せにしたがはむ」とぞ言ひたる。返事も書かで、布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。
◆◆夜がすっかり更けてから、門をひどく恐ろしげにたたくので、一体何者が、こんなふうに気がかりなように、遠くもない距離にある門を叩くのだろうと、人を出してたづねさせると、北面の武士であった。左衛門のかみ(この当時則光はまだ尉)の使いだといって、手紙を持ってきている。みな寝てしまっているので、灯火を近く取り寄せて、手紙を見ると、「明日、御読経の結願の日ということで、宰相の中将が御物忌みに籠っていらっしゃいますが、『女きょうだいの居る場所を申せ』とお責めになるので、どうしようもありません。とてもお隠し申し上げることはできそうにもありません。これこれの所で、とお聞かせもうしあげるべきでしょうか。あなたの仰せに従いましょう」と書いてある。返事も書かないで、海藻を一寸ほど紙に包んで、使いの者に持っていかせた。◆◆
■ずちなし=術なし。仕方がない。
さて後に来て、「一夜せめて問はれて、すずろなる所にゐてありきたてまつりて、まめやかにまめやかにさいなむに、いとからし。さてとかくも御返りのなくて、そぞろなる布ばしを包みて給へりしかば、取りたがへたるにや」と言ふに、「あやしのたがへ物や。人のもとにさる物包みておくる人やはある。いささかも心得ざりける」と見るがにくければ、物も言はで、硯にある紙の端に、
かづきするあまのすみかはそこなりとゆめいふなとやめを食はせけむ
と書きて出だしたれば、「歌よませたまひたるか。さらに見はべらじ」とて、扇返して逃げていぬ。
◆◆そうした後で、則光が来て、「先夜は宰相の中将に無理にたずねられて、でたらめなところをお連れ申し上げて、真面目に本気でお責めになるので、とても辛い。そうしてあなたからは何ともご返事がなくて、とんでもない海藻の切れ端を包んでくださっていたので、あれは取り違えていらっしゃるのでしょうか」と言うので、「妙な取り違えがあったものよ。人のところにそんな物を包んで送る人が他にいますか。まったくあの謎が分からなかったのだ」と、見るさえ気に食わないので、ものも言わずに、硯箱にある紙の端に、
「海に潜る海女のように姿を隠しているわたしの住かは、そこだと決して言うなと、目配せをするとて、布(め)を食わせたのでしょう」
と書いて、出したところ、「歌をお詠みになっていらっしゃるのですか。決して拝見しますまい」と言って、扇で髪をあおぎ返して逃げ去る。◆◆
■すずろなる所=作者が居そうもない、でたらめなところ
夜いたくふけて、門おどろおどろしくたたけば、何の、かく心もとなく、遠からぬほどをたたくらむと聞きて、問はすれば、滝口なりけり。左衛門のかみとて、文を持て来たり。みな寝にたるに、火近く取り寄せて、見れば、「明日、御読経の結願にて、宰相中将の御物忌に籠りたまへるに、『いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせたてまつるべき。いかに。仰せにしたがはむ」とぞ言ひたる。返事も書かで、布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。
◆◆夜がすっかり更けてから、門をひどく恐ろしげにたたくので、一体何者が、こんなふうに気がかりなように、遠くもない距離にある門を叩くのだろうと、人を出してたづねさせると、北面の武士であった。左衛門のかみ(この当時則光はまだ尉)の使いだといって、手紙を持ってきている。みな寝てしまっているので、灯火を近く取り寄せて、手紙を見ると、「明日、御読経の結願の日ということで、宰相の中将が御物忌みに籠っていらっしゃいますが、『女きょうだいの居る場所を申せ』とお責めになるので、どうしようもありません。とてもお隠し申し上げることはできそうにもありません。これこれの所で、とお聞かせもうしあげるべきでしょうか。あなたの仰せに従いましょう」と書いてある。返事も書かないで、海藻を一寸ほど紙に包んで、使いの者に持っていかせた。◆◆
■ずちなし=術なし。仕方がない。
さて後に来て、「一夜せめて問はれて、すずろなる所にゐてありきたてまつりて、まめやかにまめやかにさいなむに、いとからし。さてとかくも御返りのなくて、そぞろなる布ばしを包みて給へりしかば、取りたがへたるにや」と言ふに、「あやしのたがへ物や。人のもとにさる物包みておくる人やはある。いささかも心得ざりける」と見るがにくければ、物も言はで、硯にある紙の端に、
かづきするあまのすみかはそこなりとゆめいふなとやめを食はせけむ
と書きて出だしたれば、「歌よませたまひたるか。さらに見はべらじ」とて、扇返して逃げていぬ。
◆◆そうした後で、則光が来て、「先夜は宰相の中将に無理にたずねられて、でたらめなところをお連れ申し上げて、真面目に本気でお責めになるので、とても辛い。そうしてあなたからは何ともご返事がなくて、とんでもない海藻の切れ端を包んでくださっていたので、あれは取り違えていらっしゃるのでしょうか」と言うので、「妙な取り違えがあったものよ。人のところにそんな物を包んで送る人が他にいますか。まったくあの謎が分からなかったのだ」と、見るさえ気に食わないので、ものも言わずに、硯箱にある紙の端に、
「海に潜る海女のように姿を隠しているわたしの住かは、そこだと決して言うなと、目配せをするとて、布(め)を食わせたのでしょう」
と書いて、出したところ、「歌をお詠みになっていらっしゃるのですか。決して拝見しますまい」と言って、扇で髪をあおぎ返して逃げ去る。◆◆
■すずろなる所=作者が居そうもない、でたらめなところ