8/6の朝ラジオ「明日へののことば」で、1961年生まれ、長崎で母親被ばくの二世写真家吉田敬三さんのことばを聞いた。
吉田さんは司会者のインタビューに答える形で、話が進んだ。まず、デジタルカメラだと被爆二世の素顔が見えず、フィルムカメラ使用、現像プリントまでこなしているという。
中学卒業後、親から独立するため、横須賀の陸上自衛隊「少年工科学校」に入隊、戦車学校から北海道に配属、運転、砲撃など4年ほど班長をやり、通信教育で4年で大学を卒業できたが、閉鎖的社会環境になじめず、海外の軍事を見たかったので除隊して出かけた。
中南米バスの旅で急停車、政府軍に打たれたゲリラが死んだばかりと聴いて、驚愕、これを記事にしかし、記者として赤字続きで、一枚の写真の方が、読者にはいかにインパクトがあるかを思い知らされ、写真の道に進んだという。しかし、地雷のカンボジアで長崎原爆のことを聞かれても、一般的なことしか説明できず、まして母親自身のことは分からず、二世の現状はどうなのかと探した。二世に手紙を書いても一年返事がない。そこで、8/6に広島で二世の写真を初めて撮影することができた。その後、二世のバックアップがあり、10年以上続けられた。120名を超える二世の半分以上は親のことを聞いていないという。
病気などで悩み孤立している全国に30~50万の二世が、この写真展を見て、被爆者を一番近くで見てきた二世ならではの思いや素顔が被爆者に伝わると信じて、写真をとっているという。
吉田さんは司会者のインタビューに答える形で、話が進んだ。まず、デジタルカメラだと被爆二世の素顔が見えず、フィルムカメラ使用、現像プリントまでこなしているという。
中学卒業後、親から独立するため、横須賀の陸上自衛隊「少年工科学校」に入隊、戦車学校から北海道に配属、運転、砲撃など4年ほど班長をやり、通信教育で4年で大学を卒業できたが、閉鎖的社会環境になじめず、海外の軍事を見たかったので除隊して出かけた。
中南米バスの旅で急停車、政府軍に打たれたゲリラが死んだばかりと聴いて、驚愕、これを記事にしかし、記者として赤字続きで、一枚の写真の方が、読者にはいかにインパクトがあるかを思い知らされ、写真の道に進んだという。しかし、地雷のカンボジアで長崎原爆のことを聞かれても、一般的なことしか説明できず、まして母親自身のことは分からず、二世の現状はどうなのかと探した。二世に手紙を書いても一年返事がない。そこで、8/6に広島で二世の写真を初めて撮影することができた。その後、二世のバックアップがあり、10年以上続けられた。120名を超える二世の半分以上は親のことを聞いていないという。
病気などで悩み孤立している全国に30~50万の二世が、この写真展を見て、被爆者を一番近くで見てきた二世ならではの思いや素顔が被爆者に伝わると信じて、写真をとっているという。