アランは自然を愛し、ヒルティは神を愛し二人とも全体の中の個人の幸福を考えた。しかし、ラッセルは個人から全体統一を眺め、獲得する幸福を考えた。即ち、今のスピード時代に、「遠くの親戚より近くの他人」はいまだ田舎に残っているがそれはばかげた考えになったという。今シリア情勢で米英仏の軍事介入ありきで問題になっているが、ラッセルは数学者らしく、平和維持のため戦争は必要かを幾何学的論法で戦争と平和を考えた。その中に、パラドックスがある。
合田自身は哲学、思想史の専門で、数学論理的表現が少なく分かり悪い表現になっている。ここから私なりに話を進めていく。
ラッセルが数学原理や記号論理学の基礎を作ったことから、
自分自身を要素χとして含まない集合全体をRとすると、 R={χ∣χ∉χ} となる。
R∊Rと仮定すると、Rの定義から R∉Rとなり矛盾する。
また、R∉Rと仮定すると、Rの定義から、R∊Rとなり矛盾する。
これは、「R」と「RのR]の混同により発生する論理的パラドックスである。
我々のことばに、「貧しき者は幸いなり」「急がば回れ」「負けるが勝ち」などである。
例えば、村でたった一人の床屋が、自分で髭をそらない人には剃り、それ以外は剃らないとする。
床屋自身の髭を、自分で剃らないなら、自分自身で剃らなくてはいけない。また、自分で剃るなら、剃らない規則に違反する。この矛盾の解消は自分自身を含まないような集合は集合でないと解釈すると論理は成り立つ。
合田自身は哲学、思想史の専門で、数学論理的表現が少なく分かり悪い表現になっている。ここから私なりに話を進めていく。
ラッセルが数学原理や記号論理学の基礎を作ったことから、
自分自身を要素χとして含まない集合全体をRとすると、 R={χ∣χ∉χ} となる。
R∊Rと仮定すると、Rの定義から R∉Rとなり矛盾する。
また、R∉Rと仮定すると、Rの定義から、R∊Rとなり矛盾する。
これは、「R」と「RのR]の混同により発生する論理的パラドックスである。
我々のことばに、「貧しき者は幸いなり」「急がば回れ」「負けるが勝ち」などである。
例えば、村でたった一人の床屋が、自分で髭をそらない人には剃り、それ以外は剃らないとする。
床屋自身の髭を、自分で剃らないなら、自分自身で剃らなくてはいけない。また、自分で剃るなら、剃らない規則に違反する。この矛盾の解消は自分自身を含まないような集合は集合でないと解釈すると論理は成り立つ。