ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その32)上司への反抗は減給損

2015-06-12 19:57:56 | 自分史
 再び当局から指示事項でT/P比(その28、参照)が名指しで求められた時点、私が47歳になりたての早春に戻ります。

 指示事項を受けた翌月、臨床開発部門から後方支援部隊が分れてTS部となり、Yoさんがそのトップに就きました。社長の国際戦略構想に忠実に従い、社長のお気に入りとなってのご褒美人事でした。

 TS部は生物統計(BS)、データ・マネジメント(DM)、私が属すメディカル・ライティング(MW)などの職種からなり、開発品目の種類に関わらず共通する業務を担当します。ある意味、受託業者のように他社の業務でも有償で請け負うことが可能な機能を持つ組織です。

 Yoさんは就任後さっそく、所信表明として新組織TS部の方針を発表したのですが、その中味は突拍子もない異様なものでした。新組織が受託業者のような性格の部門である旨の話をした直後、私たちに各担当業務の請負単価を出すよう業務命令を出して来たのです。

 いきなりですから、この命令に正直狼狽えました。業界の相場がどのぐらいなのか全く不案内だったのです。私の担当するMWは業界でも新しい職種で、受託業者の噂はあっても仕事を業者に委託した経験は皆無でした。まして、自社の仕事をこなすのに精一杯で、他社の業務を受注する余裕などありませんでした。そんな訳で対応できない旨を告げると、MWが発足してから1年近く経つのに業務上必要な情報収集もしていないのか、とYoさんは私を詰(なじ)ってきました。

 一事が万事、Yoさんには現場経験も知識もなく、現場に即した発想というものが全くなかったのです。これにはさすがに嫌気がさしてヤケ酒挙句の二日酔いを繰り返し、私は2日間ほどカゼと称して会社を休んでしまいました。いわゆるフテ寝です。案の定、3日目に会社からプロジェクト関連の会議があると電話で呼び出しがあり、渋々出社するハメとなりました。

 あとから考えてみると、この時は受託業者の役目までも担おうとしたわけではなく、予算の提出時期だったので単に算出根拠が欲しかったのだろうと察しがつきました。それならば TS部が分離される前の実績から人数割りするなど、いくらでも応急的な当座の対処法はあったはずです。新たに発足した組織ならばこの程度のことは許容範囲内のことです。

 この後もYoさんの唯我独尊状態は続いたままで、Yoさんとの齟齬が続きました。かつて色々あったN先輩に輪をかけた人物だと分かり、一緒に那智行をしたのは一体誰だったのだろうと思ったものです。

 Yoさんに一旦捉まったら文字通り黙って聞くしかない、これは我々部下の一致した見方でした。

 「ちょっといいかな?」と捉まったら最後、就業時間内は何も出来ないだろうと諦める方が賢明でした。聞く耳を持たずに一方的に自説を喋り続けて止まらないのです。聴き手の都合などお構いなしだったのです。彼の特殊な性格の所為でもありますが、社長という虎の威を借りたところも厄介至極でした。この人物は普通の大人ではない、噂にたがわず御しがたい変人か狂人だと皆が身構えるようになりました。

 部内の他の部署でもYoさんと齟齬をきたすことが頻発し、業務に支障が出始めるなど組織として危機的状況になりつつありました。同僚たちは皆困り果て、苦々しく思っていました。中でもBS室長の件のO女史、彼女がYoさんの恰好の餌食となりました。

 O女史は机の正面と両脇の三方に本やら資料ファイルやらを上に並べ、その上にさらに資料を山積みしてバリケードを築くのが趣味で、資料の山の中に姿を隠していることが普通でした。そんなO女史のところにYoさんが押しかけてはしょっちゅう議論を吹っかけていました。実は二人はよく似た性格で、それだけに一層ややこしい状況になったようです。

 しばらくすると吃驚(びっくり)することが起こりました。YoさんはPC操作にずぶの素人の女性たち4人をプログラマーの契約社員としてBS室に雇ったのです。彼女たちを教育するだけで、どれだけの人手と時間を割かなければならないか、ちょっと考えれば誰でも分かります。

 その時期は、Ca拮抗薬Pの指示事項回答のため、ちょうど家庭血圧を活用して追加の治験計画を練っていた時期と重なっていました。当時O女史が、家庭血圧計のデータ記録装置の仕組を逆手にとって、データの盲検化(=匿名化)を思いつかなかったのは、Yoさんとの確執あってのことで無理からぬことだったのかもしれません。(その30、参照)

 当時、国際臨床開発品として向精神病薬Abがあり、会社の将来を担う一大プロジェクトとなっていました。米国でも莫大な売上が見込めると、米国の大手製薬企業から共同開発の申込みがあり、契約が締結されたのです。この件でも一騒動ありました。

 契約締結から間もないある日、YoさんはTS部のAbプロジェクト担当者の前で向精神病薬の領域に最も明るいのは自分だと言い張り、自分がAbプロジェクトの全指揮を執ると言い出しました。恐らく功名心からだったのでしょう。Abプロジェクト専任の前線部隊スタッフがいない場とはいえ、彼らAbプロジェクト担当者を見くびった、あまりにも不遜な発言でした。

 これを聞いて同席していた私はさすがにキレてしまいました。刺違えまで覚悟していたか定かではありませんが、感情を抑えきれずにこう言ってしまったのです。
「全面的に黙ってあなたに従えということですか?・・・。今までにあなたに付いて一緒に仕事をした者で、良い思いをした人は一人もいない。これは誰もが知っていることです」遂に抜き差しならない状態になってしまいました。

 会社には半期に1回ずつ年2回の自己申告制度がありました。申告項目には、仕事量、業務に対する満足度や適性、職種の異動希望や転勤希望の有無などの他、職場の改善点や問題点を申告する欄も設けてありました。職場の改善点や問題点とはずばり問題上司か否かという問いと、その時は受け取りました。

 「特にナシ」と書くのが普通ですが、その年のTS部員からの自己申告書は壮観だったと聞きました。誰もが上司が問題とびっしり書いて来たというのです。同僚に「申告書はどうした?」と聞くと、「上司」という答えが決まって帰って来ました。まるで合言葉のようでした。

 TS部が発足した年の晩秋に名大贈収賄事件が発覚し、社長が辞任するという事件となりました。翌年後任として新社長に就任したのは創業家以外の人物で、同じグループ内会社の社長をしていた現場感覚に優れた人物でした。

 Yoさんから少し遅れてMW室に着任してきたKa氏は定年を間近に控えた経験豊かで温厚な人物で、部長職として名目上私の直接の上司でした。Ka氏はYoさんの議論に付き合いつつ真っ当な意見を述べていたようです。帰って来るとよくため息をついていました。その内さすがのKa氏もYoさんの屁理屈だらけの専横には辟易してしまい、会社からこのままの状態で放置されたなら、客観的に見て組織全体が危うくなると考えたようでした。

 Ka氏と新社長とが旧知の間柄だったことは幸いでした。TS部発足から2年目、新社長に変わった初秋に、Ka氏は意を決して新社長に直訴してくれました。新社長の現場重視の経営感覚がKa氏の冷静で誠実な直訴を理解してくれたのだと思います。Yoさんは年の暮れに更迭され、発足から2年足らずでTS部は解消されました。私たちは臨床開発の前線部隊と再び統合されました。

 前社長の辞任事件がなく在任のままなら、たとえ直訴しても難しかったろうと思います。TS部独立は前社長お気に入りのYoさんの提言を容れての人事だったのですから・・・。それに、自己申告書による告発だけだったなら、たとえその数が夥しいものであっても事態がどう転んだのか分かりません。やはり経験豊富なKa氏と現場主義の新社長が旧知の間柄であったからこそ、直訴が受け入れられたのだと思います。36年間の会社在職中で唯一のハプニングでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その33)につづく



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