ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その33)家主なのに自宅で下宿人?

2015-06-19 19:32:13 | 自分史
 社長が名大贈収賄事件で引責辞任した翌年のことです。私は48歳になり、一人暮らしの別居生活も丸6年になろうとしていました。

 六甲おろしの吹くまだ寒い2月のある日、長男が思いがけないことを伝えて来ました。本宅に戻って来てもいいと母親に言われたというのです。狐につままれた気分でした。聞き返してみても本当だと言うので、早速引っ越しの準備に取り掛かりました。学生時代に4回も引っ越しをしたので要領はよく心得ていました。

 引っ越しの当日、息子たちが手伝いに来てくれました。荷物を運び去った室内を改めて見回すと、褐色にくすんだ壁に、洋服ダンスや色紙額、カレンダーなどの跡がそこだけクッキリと残っていました。部屋ボコリとタバコのヤニを免れた跡です。6年間という時間の長さを物語っていました。こんなお化け屋敷のような部屋に、よくも住んでいたものだと苦笑いするだけでした。絨毯敷の床に散らばるゴミを拾い集めるだけに止め、大型車両の騒音と振動に馴れさせられた部屋とおさらばしたのです。

 机と椅子も引っ越し荷物に含まれていました。長男が、机と椅子は邪魔なので運送屋に処分してもらおうと言い出しました。私に割り当てられる部屋は、かつて父親が一時使ったこともある6畳間で、広さにゆとりがないと言うのです。仕方ないので承知しましたが、机には書類や小物などを残していたのです。そのことに気が付いたのはずっと後のことでした。

 この頃からすでにアルコールによる記憶障害があったのでしょう。幸いなことに、後になってアレが無いコレが無いと、蒼くなって慌てたことはありませんでした。断捨離とはよく言ったもので、必要と思い込んでいるものでも、無ければ無いで別段不便を感じないで済むものだと納得させられました。

 自宅に戻った最初の夜、寝床に入って気付いたのはシーンとした静けさでした。大型トラックが四六時中往来し、交差点も近い国道脇のワンルームでは、騒音と振動が絶えたことがありません。そのような環境に馴れてしまった身には異様とも思える静寂でした。日中でも車がほとんど通らず、周囲が緑に囲まれた公園のような住宅地ですから、当たり前と言えば当たり前のことです。「やっと・・・、戻って来れたぁ~!」と実感しました。

 ほぼ6年ぶりに自宅マンションに戻ったわけですが、実のところ新しい下宿先に転居したような奇妙な生活が始まりました。テレビと冷蔵庫、洋服ダンスを備えた南向きの6畳一間の和室だけが私専用のスペースで、玄関、トイレ、浴室、洗面所、居間(食事時だけ)、これらすべてが共同住宅の共用部分のような具合でした。自宅はマンション2階の角部屋で、南、西、北の三方にベランダがあるのですが、物干用として私に割り当てられたのは西側のベランダだけでした。

 ローンの支払い、管理費、光熱費は従前通りに私が負担し、約二人分の月々の食費を妻に渡し、妻は電話料金を負担する、これがおおよその家計分担の内訳です。もちろん家族としての団欒などはなく、家主が下宿人として隔離されるという面白い構図です。淡い期待を抱いていた私の思惑とは全く異なる境遇でした。

 妻は化粧品関係の会社に勤めており、長男は知人の所に居候、二男は高校に通っていました。週日の昼間には家に誰もおらず、休日には各々出掛けることが多かったように記憶しています。こんな状況で、息子たちとのコミュニケーションをどう取っていたかについて触れておきます。

 阪神西宮駅えびす口の駅前北側に “華京” という中華レストランがありました。品のある綺麗な造りの店で、まともな広東風料理を出してくれるので、ワンルームの独居時代から休日にはたまに昼食を楽しんでいました。機会を見つけては、息子たちとその店で夕食を一緒にするようにしました。3人が一緒ということは稀でしたが、長男、二男それぞれと1時間ぐらい話す場にしていたと思います。独居時代には、特に二男との夕食を妻の近況も聞き出す機会にしていたのです。

 私の週日の夜は、定時の会社帰りに居酒屋 “旬香” 詣でが相変わらず続いていました。その一方で休日には、西国三十三ヵ所巡礼などへと外出するようにしていました。これも相変わらずです。私の行動は完全に習慣化していました。

 前年の6月には速くも、西国三十三ヵ所巡礼最後の札所、岐阜にある33番札所の谷汲(たにぐみ)までの一巡目を正味6ヵ月間で終え、引っ越し時には二巡目についても、京都亀岡にある21番札所の穴太寺(あなおじ)まで済ませていました。温かくなると朝早く家を出て、暗くなってから家に戻る、帰路は無論ビールが入った状態です。そんな休日の過ごし方をしていました。

 雨の日や家族のいない休日には、酒を飲まないでいられるよう一人で写経に励み、全札所に納めるべく一日2~3枚準備するようにしていました。写経には1枚当たり2時間強かかりました。

 なぜ写経を? 西国三十三ヵ所巡礼の必携品として朱印帳、掛け軸、笈摺(おいずる:白衣)の三点セットがよく知られています。これらは各札所で朱印をいただくのが目的です。しかし、巡礼の一番の目的は納経です。一巡目の途中でそれを悟らされました。そのためには写経が必須で、ワンルームの独居時代から始めていました。一巡目で持参したのは朱印帳だけでしたが、二巡目には写経と掛け軸も必携品に加えることが出来ました。

 こんな訳ですから、久々に戻って来た自分の家なのに、私の “居場所がない” ことなりました。何とも皮肉なことでした。当然、家の中での飲み直しは自室で一人やっていました。“居場所がない” とは居心地が悪く、安らぎがないことです。速い話が何とも “おもしろくない” のです。心にポッカリ空洞を抱えることになりました。会社ではYoさんと確執中の時期でもありました。

 巡礼を続ける一方で、心に空洞を抱えた時のお決まりの “Shelter探し” もやっていました。大阪には旧赤線の街が少なくとも2ヵ所残っていて、半ば公然と営業しています。巡礼の帰り道、それらの街の一つにある某店に通い始めました。

 馴染みとなって4ヵ月ぐらい続いたでしょうか。晩秋のある日、贔屓にしていた娘が店からいなくなりました。聞くと店を辞めたというのです。何のことはない、依存症に特有の習慣化が仇となり、ストーカー紛いの付き纏いと見做され、それで逃げられたのです。私の風俗遊びは、これで目出度く幕引きとなりました。

 こんな風に、まるで隔離されたような状態でしたから、妻がなぜ私の帰宅を許したのか当初は不思議でした。引っ越しが許された(?)のは二男が高校三年になる年です。かつて妻と交わした覚書では、二男が高校卒業までは別居継続も止む無しとしていたのです。これをすっかり失念していました。

 妻としては、別居生活でこの上ない自由を満喫できていたのでしょう。再び同居するのは不本意だったのだと思います。どんな風に私の生活態度が変わったのか、それをじっくり観察するためのお試し期間とするつもりだったのかもしれません。復籍などは、もちろんありませんでした。

 私が自宅に戻った年の年末に長男が結婚しました。いわゆるデキちゃった婚です。居候と称していたのは実は同棲のことで、同棲相手の方と目出度く結婚と相なったというのが真相です。やはり血は争えないと思いました。翌年には男児が生まれました。私の初孫で、とうとうお爺ちゃんになってしまいました。

 アルコールの害は、じわじわと身体を蝕み続けていました。

 当時の手帳にこんなメモが残っています。
「・・・アルコール依存症の身体的徴候は着実に現れている。昨日も(会社の)全体研修会でうたた寝中に、出席者確認の署名用紙が回ってきて振戦がモロに出た。現在、焼酎お湯割り7杯の後、3杯目のウィスキーの水割りを飲んでいる。その最中に記述している。振戦はこのように(今は)ない。」筆跡はまともですが、会社で振戦に悩まされていたことが書かれていました。

 この全体研修会は午後1時の開催でした。ちょうどアルコールが切れる時間帯に符合します。会場は300人収容の机なしのスクール形式で、下敷き用の台紙もなしだったので、多少文字が乱れていても気付かれない可能性はありました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その34)につづく



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