路上のポイ捨てゴミの始末屋を続けています。ささやかな社会奉仕でもと思い、週に2日、定期的に始めてから9ヵ月目に入りました。特に最近やたらに目につくのは蓋付きコップに入ったコーヒー飲料です。刈り揃えた植え込みの上やベンチの上、塀の上などにちょこんと置いてあるのです。それも飲みかけの状態で・・・。さもさも「よかったら誰か飲んでェ~!」と言っているように見え、侮辱とも不躾な挑発とも思えて、つい腹立たしくなってきます。
件のコーヒー飲料は、コンビニで淹れ立てを手軽にテイクアウトできるようにしたのが大当りだったとよく分かります。どこでも飲めて、どこでも捨てられる。便利由来の名称であるコンビニで、便利そのものの代表みたいな商品とも思えてきます。
便利というのは手間が省けることです。少し見方を変えると、コップごとポイ捨てした輩は、手間を省くことに馴れすぎて、飲み終えた後の始末のつけ方さえも分からないのかもしれません。ワタシ飲むヒト・ボク捨てるヒト、これだけが自分の出番と思っているのかもしれません。便利なもので飽和状態になると、逆説的に欲求不満が溜まるばかりではないでしょうか。飲み終えた後、これ見よがしにポイと置き去ることだけが唯一自分の出番と心得違いをしているようです。自分の存在を誇示したいだけの欲求不満とも思えてきます。単にゴミに託した嫌がらせなら、絶望的な自己主張とでも言うしかありません。何とも痛ましい限りです。
私が痛ましいと思う物語がもう一つあります。便利の代名詞としてピッタリなスマフォにまつわることです。スマフォは、まさに便利な現代社会の象徴でもあります。
スマフォは携帯電話が進化したものというよりは、情報を電子信号化して送受信可能な情報通信機器というのが本質で、それに文字入力機能とカメラ、時計、計算機、個人情報管理の各機能を追加したものと理解しています。が・・・、むしろ掌サイズのパソコン(PC)に電話機能が備わったものと私には思えます。メール、ネット検索・閲覧、音楽再生、動画閲覧、ゲームetc、このようにPCの機能がほぼ揃っているようですから(肝腎の高度計算機能が欠けてますが・・・)、あながち間違いではないでしょう。このスマフォなしでは、大多数の現代人は最早生きることが出来なくなっているのではないでしょうか?
人との待ち合わせすら、スマフォなしではできない現代人を私は苦々しく思っています。待ち合わせ場所選びの際に必要な想像力や、相手に対する思いやりなど、どこ吹く風とゾンザイになりがちだからです。時間厳守は日本人の美徳の一つのはずですが、待ち合わせ時間に遅れることがザラだと聞きます。その他、歩きながらのスマフォ、電車の中でのスマフォ、自転車を漕ぎながらのスマフォ、はては電車を運転しながらのスマフォもあるそうで・・・。
周囲の人々に対する配慮が完全に欠落しています。視線がスマフォに囚われ、まともに前を向いている人を見たことがないくらいです。すべてがスマフォ任せで、スマフォ中心に生活そのものが回っているようにさえ見えます。人々は最早頭を捻って悪戦苦闘しなくてもよく、欲しい情報を検索して画面で見ればよいだけです。否応なしに必要に迫られ創意工夫を余儀なくされる、そんなことをしなくても、ただ受け身になっていれば済まされる世の現状が心配です。
今からほぼ40年前のことですが、新入社員の頃にコンピューター・プログラミングの講習を受けたことがあります。膨大な症例数の治験データを統計処理するのに小型コンピューターが必要だったのです。その時に習ったのがプログラミング言語basicでした。しっかり段取り(構想)を決めて、let ・・・、go to・・・ときちんと手順を踏んで指示しなければ何事も進みません。面倒臭がりの私は1週間ほどで音を上げてしまいました。卓上型の小型コンピューターはオリベッティ社(?)製で、1行40字ほどのビュアー画面しかないものでした。思い通りにうまく動かなかったとき、プログラミングに抜けがないか、適切だったのかを確かめるには印刷して点検するしか他に手段がない時代でした。
先に受講していた同僚の女性社員二人は、basicでプログラミングをし、解析ソフトSASを上手に使いこなして、すでに治験データの統計処理が出来ていました。さらに創意工夫をこらし、作表についてもキレイに仕上げるまでになっていたのです。彼女らは薬学部を主席で卒業したという評判でしたので、文学部卒の自分とは土台から出来が違うと負け惜しみの言い訳をしていたものです。振り返ってみると、彼女らは進行中だった治験のデータ処理の必要に迫られ、切羽詰まって否応なしにマスターせざるを得なかったのだと思います。一方の私は、将来に備えての謂わばお遊びでしたので、切迫感が全然違ったのです。
当時のコンピューターは手間のかかる機械でした。熟練者に手ほどきを受け、その指導のもとに何度も稽古をし、それで初めて自分でプログラミングして独自のプログラムを作ることができたのです。ある意味、芸事と同じ趣がありました。それだけに創意工夫をこらす伸びシロが多かったと言えます。その伸びシロを基本ソフトOSで埋め、商業化に成功したのが現在のPCであって、さらに便利を追求し、カメラ付き携帯電話機能を持たせてコンパクトに進化させたものがスマフォなのだと思えるのです。
私は、嫌味や僻みで言うわけではないですが、今やだれもが持っているスマフォは勿論のこと、ガラ携と呼ばれる携帯電話も、(車の)運転免許証さえも持っていません。世に便利とされるモノが単に好きになれないだけです。便利なモノの内、唯一PCだけは手放せないぐらい重宝しています。PCはモノを書く道具として、またe-mailによる連絡用と確定申告用(?)として欠かせない道具だからです。それでも初めてPCを触るときには強い抵抗感がありました。すでにワープロに馴れていたので、どうにかこなせるようになっただけの話です。
そのPCを触っているときに今でも思うことがあります。繰り返しになりますが、初期のコンピューターは、始まりから結末まで全体の構想をしっかりと持っていることが必須で、一つひとつ煩わしい手順をも着実に踏まなければならなかったことです。一事が万事、世の中は全体の構想をしっかりと持って、手順を踏まなければ成就できないことばかり。その道理だけは今でもしっかりと頭に刷り込まれています。構想するにも手順を踏むにも、頭を使った創意工夫がどうしても必要だったのです。
私は、便利さで飽和状態になり、自ら考えない人々が多くなることを恐れています。自然科学の領域で、博士論文でさえもコピ・ペ(コピー・ペースト)で作成したという事例を聞くにつれ、その思いが強くなるばかりです。一握りの人間が考えた成果を他の大勢の人々は享受するばかり、そんな現代社会と近未来が見えてきます。
便利さが商品の最上位の付加価値に置かれるまま続くと、その行き着く先は完璧な人工知能だろうと思います。完璧な人工知能が出来たら、人間の居場所や出番はあるのでしょうか? おそらく多くの人々の出番は失われるでしょう。自分の出番がなくなると、世間から認めて貰う機会もなくなります。自分を認めて貰いたいという承認欲求は人間の根源的な欲求です。それが満たされないとなると、ヤケノヤンパチだらけで世の中が充満することにならないでしょうか? 白黒思考のアダルトチルドレンばかりが世に溢れ返るのではないでしょうか?
いくら警鐘を鳴らしたところで便利さを崇める時代風潮を止めることは出来ないでしょう。困難な問題に直面したとき、検索をかけさえすれば最適な解決策がいつも簡単に出て来る?・・・世の中そんな甘いものではない、これが世の常です。問題を冷静に分析する力と、解決に向け着実に手順を踏む力がカギになると思います。手順を踏むということは地道で手間のかかることです。
路上のゴミ拾いは手間のかかる仕事です。路上のゴミ拾いでは、全行程をこなして初めて全体が俯瞰できるようになります。どこに多くが捨てられ、どこを重点的に巡回すべきかが分かって来るのです。手順を踏む煩わしさに音を上げた過去を持つ私としては、若い世代が煩わしい問題にどう対処すべきか、手間のかかる路上のゴミ拾い姿を手本として示すぐらいしか出来ません。そして、こうして “始末をつける” 手本を示し続けることだけがシニア世代が出来るせめてもの務めと考えています。「やって見せ・・・」から始めないと、「人は動かじ」ですからね。成熟しなければ見えて来ない世の中の仕組、それが少しでも伝わってくれたらよいのですが・・・。
少し心温まる話をひとつ、先日いつものゴミ拾いコース途中でのこと。少し広めの公園で、ゴミ箱が山のようにゴミで溢れかえっているのが見えました。カップ麺容器や、弁当の空箱、割りばし、発砲スチロールの容器、菓子袋、ペットボトル、ドリンク缶やらが散らかり、おまけに大きな家庭用ゴミ袋3つまでもがゴミ箱の周りに放置されていました。私の守備範囲外ですが、さすがに惨状を見るに見かねて、散らかっているゴミだけでもと、私のゴミ袋に入れて片付けたのです。作業を終えて立ち去ろうとしたとき、小学4~5年ぐらいの女の子が私の後をついてきて、小さな声でこう言ってくれました。「キレイにしてくれて、ありがとう。」地表を流れる水流が乏しくなっても、清冽な伏流水が地面の下を流れていれば、たとえ飢饉になっても救われるはずです。
最後に私からの皮肉を込めた “ぼやき” を・・・
【現代の文明利器のうち罪深いワースト3(罪状)】
○スマフォ(全視覚が虜となった依存症者が急増中)
○自動車(脚・腰の廃用性委縮者を量産)
○テレビ(1億総白痴化?)
便利なものは時代を大きく変えますが、変な病人も増やします。憑りつかれたら離れられなくなるのが依存症です。廃用性(筋)委縮とは、長い間使わないでいると筋肉が萎縮して使い物にならない状態のことをいいます。ヒトの身体は使わないと退化してしまいます。どちらもいかに頭脳や身体を上手に働かせ続けるかが肝腎要となりますね。以上、アナログ大好き、ヒゲジイの “ぼやき” 節でした。
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件のコーヒー飲料は、コンビニで淹れ立てを手軽にテイクアウトできるようにしたのが大当りだったとよく分かります。どこでも飲めて、どこでも捨てられる。便利由来の名称であるコンビニで、便利そのものの代表みたいな商品とも思えてきます。
便利というのは手間が省けることです。少し見方を変えると、コップごとポイ捨てした輩は、手間を省くことに馴れすぎて、飲み終えた後の始末のつけ方さえも分からないのかもしれません。ワタシ飲むヒト・ボク捨てるヒト、これだけが自分の出番と思っているのかもしれません。便利なもので飽和状態になると、逆説的に欲求不満が溜まるばかりではないでしょうか。飲み終えた後、これ見よがしにポイと置き去ることだけが唯一自分の出番と心得違いをしているようです。自分の存在を誇示したいだけの欲求不満とも思えてきます。単にゴミに託した嫌がらせなら、絶望的な自己主張とでも言うしかありません。何とも痛ましい限りです。
私が痛ましいと思う物語がもう一つあります。便利の代名詞としてピッタリなスマフォにまつわることです。スマフォは、まさに便利な現代社会の象徴でもあります。
スマフォは携帯電話が進化したものというよりは、情報を電子信号化して送受信可能な情報通信機器というのが本質で、それに文字入力機能とカメラ、時計、計算機、個人情報管理の各機能を追加したものと理解しています。が・・・、むしろ掌サイズのパソコン(PC)に電話機能が備わったものと私には思えます。メール、ネット検索・閲覧、音楽再生、動画閲覧、ゲームetc、このようにPCの機能がほぼ揃っているようですから(肝腎の高度計算機能が欠けてますが・・・)、あながち間違いではないでしょう。このスマフォなしでは、大多数の現代人は最早生きることが出来なくなっているのではないでしょうか?
人との待ち合わせすら、スマフォなしではできない現代人を私は苦々しく思っています。待ち合わせ場所選びの際に必要な想像力や、相手に対する思いやりなど、どこ吹く風とゾンザイになりがちだからです。時間厳守は日本人の美徳の一つのはずですが、待ち合わせ時間に遅れることがザラだと聞きます。その他、歩きながらのスマフォ、電車の中でのスマフォ、自転車を漕ぎながらのスマフォ、はては電車を運転しながらのスマフォもあるそうで・・・。
周囲の人々に対する配慮が完全に欠落しています。視線がスマフォに囚われ、まともに前を向いている人を見たことがないくらいです。すべてがスマフォ任せで、スマフォ中心に生活そのものが回っているようにさえ見えます。人々は最早頭を捻って悪戦苦闘しなくてもよく、欲しい情報を検索して画面で見ればよいだけです。否応なしに必要に迫られ創意工夫を余儀なくされる、そんなことをしなくても、ただ受け身になっていれば済まされる世の現状が心配です。
今からほぼ40年前のことですが、新入社員の頃にコンピューター・プログラミングの講習を受けたことがあります。膨大な症例数の治験データを統計処理するのに小型コンピューターが必要だったのです。その時に習ったのがプログラミング言語basicでした。しっかり段取り(構想)を決めて、let ・・・、go to・・・ときちんと手順を踏んで指示しなければ何事も進みません。面倒臭がりの私は1週間ほどで音を上げてしまいました。卓上型の小型コンピューターはオリベッティ社(?)製で、1行40字ほどのビュアー画面しかないものでした。思い通りにうまく動かなかったとき、プログラミングに抜けがないか、適切だったのかを確かめるには印刷して点検するしか他に手段がない時代でした。
先に受講していた同僚の女性社員二人は、basicでプログラミングをし、解析ソフトSASを上手に使いこなして、すでに治験データの統計処理が出来ていました。さらに創意工夫をこらし、作表についてもキレイに仕上げるまでになっていたのです。彼女らは薬学部を主席で卒業したという評判でしたので、文学部卒の自分とは土台から出来が違うと負け惜しみの言い訳をしていたものです。振り返ってみると、彼女らは進行中だった治験のデータ処理の必要に迫られ、切羽詰まって否応なしにマスターせざるを得なかったのだと思います。一方の私は、将来に備えての謂わばお遊びでしたので、切迫感が全然違ったのです。
当時のコンピューターは手間のかかる機械でした。熟練者に手ほどきを受け、その指導のもとに何度も稽古をし、それで初めて自分でプログラミングして独自のプログラムを作ることができたのです。ある意味、芸事と同じ趣がありました。それだけに創意工夫をこらす伸びシロが多かったと言えます。その伸びシロを基本ソフトOSで埋め、商業化に成功したのが現在のPCであって、さらに便利を追求し、カメラ付き携帯電話機能を持たせてコンパクトに進化させたものがスマフォなのだと思えるのです。
私は、嫌味や僻みで言うわけではないですが、今やだれもが持っているスマフォは勿論のこと、ガラ携と呼ばれる携帯電話も、(車の)運転免許証さえも持っていません。世に便利とされるモノが単に好きになれないだけです。便利なモノの内、唯一PCだけは手放せないぐらい重宝しています。PCはモノを書く道具として、またe-mailによる連絡用と確定申告用(?)として欠かせない道具だからです。それでも初めてPCを触るときには強い抵抗感がありました。すでにワープロに馴れていたので、どうにかこなせるようになっただけの話です。
そのPCを触っているときに今でも思うことがあります。繰り返しになりますが、初期のコンピューターは、始まりから結末まで全体の構想をしっかりと持っていることが必須で、一つひとつ煩わしい手順をも着実に踏まなければならなかったことです。一事が万事、世の中は全体の構想をしっかりと持って、手順を踏まなければ成就できないことばかり。その道理だけは今でもしっかりと頭に刷り込まれています。構想するにも手順を踏むにも、頭を使った創意工夫がどうしても必要だったのです。
私は、便利さで飽和状態になり、自ら考えない人々が多くなることを恐れています。自然科学の領域で、博士論文でさえもコピ・ペ(コピー・ペースト)で作成したという事例を聞くにつれ、その思いが強くなるばかりです。一握りの人間が考えた成果を他の大勢の人々は享受するばかり、そんな現代社会と近未来が見えてきます。
便利さが商品の最上位の付加価値に置かれるまま続くと、その行き着く先は完璧な人工知能だろうと思います。完璧な人工知能が出来たら、人間の居場所や出番はあるのでしょうか? おそらく多くの人々の出番は失われるでしょう。自分の出番がなくなると、世間から認めて貰う機会もなくなります。自分を認めて貰いたいという承認欲求は人間の根源的な欲求です。それが満たされないとなると、ヤケノヤンパチだらけで世の中が充満することにならないでしょうか? 白黒思考のアダルトチルドレンばかりが世に溢れ返るのではないでしょうか?
いくら警鐘を鳴らしたところで便利さを崇める時代風潮を止めることは出来ないでしょう。困難な問題に直面したとき、検索をかけさえすれば最適な解決策がいつも簡単に出て来る?・・・世の中そんな甘いものではない、これが世の常です。問題を冷静に分析する力と、解決に向け着実に手順を踏む力がカギになると思います。手順を踏むということは地道で手間のかかることです。
路上のゴミ拾いは手間のかかる仕事です。路上のゴミ拾いでは、全行程をこなして初めて全体が俯瞰できるようになります。どこに多くが捨てられ、どこを重点的に巡回すべきかが分かって来るのです。手順を踏む煩わしさに音を上げた過去を持つ私としては、若い世代が煩わしい問題にどう対処すべきか、手間のかかる路上のゴミ拾い姿を手本として示すぐらいしか出来ません。そして、こうして “始末をつける” 手本を示し続けることだけがシニア世代が出来るせめてもの務めと考えています。「やって見せ・・・」から始めないと、「人は動かじ」ですからね。成熟しなければ見えて来ない世の中の仕組、それが少しでも伝わってくれたらよいのですが・・・。
少し心温まる話をひとつ、先日いつものゴミ拾いコース途中でのこと。少し広めの公園で、ゴミ箱が山のようにゴミで溢れかえっているのが見えました。カップ麺容器や、弁当の空箱、割りばし、発砲スチロールの容器、菓子袋、ペットボトル、ドリンク缶やらが散らかり、おまけに大きな家庭用ゴミ袋3つまでもがゴミ箱の周りに放置されていました。私の守備範囲外ですが、さすがに惨状を見るに見かねて、散らかっているゴミだけでもと、私のゴミ袋に入れて片付けたのです。作業を終えて立ち去ろうとしたとき、小学4~5年ぐらいの女の子が私の後をついてきて、小さな声でこう言ってくれました。「キレイにしてくれて、ありがとう。」地表を流れる水流が乏しくなっても、清冽な伏流水が地面の下を流れていれば、たとえ飢饉になっても救われるはずです。
最後に私からの皮肉を込めた “ぼやき” を・・・
【現代の文明利器のうち罪深いワースト3(罪状)】
○スマフォ(全視覚が虜となった依存症者が急増中)
○自動車(脚・腰の廃用性委縮者を量産)
○テレビ(1億総白痴化?)
便利なものは時代を大きく変えますが、変な病人も増やします。憑りつかれたら離れられなくなるのが依存症です。廃用性(筋)委縮とは、長い間使わないでいると筋肉が萎縮して使い物にならない状態のことをいいます。ヒトの身体は使わないと退化してしまいます。どちらもいかに頭脳や身体を上手に働かせ続けるかが肝腎要となりますね。以上、アナログ大好き、ヒゲジイの “ぼやき” 節でした。
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