希望とは “よりよい状態を期待して、その実現を願うこと”(新明解国語辞典)
現在私は65歳ですが、さすがに残された時間に限りが見えてきました。それで、これからでも遺せるものは何だろうと考えるようになりました。この歳になると遥か彼方のおぼろげな夢を望むよりも、身近で実現可能なものの方に挑戦し、希望を見出そうとしています。
この1年間、“路上のゴミ拾い” をやってきました。その実践でゴミの散らかり方にも微妙な変化が見え、それなりの手応えを感じています。ささやかな今の活動を続けることでも、まわりの人々が少しずつ変わってくれるかもしれない・・・そんなふうに考えるようになりました。
路上にゴミが散らかっている様子を目にすると、誰しも苛立ちと不快感を覚えると思います。歩道のど真ん中に無神経に捨てられた吸い殻やレシート、マスクなどのゴミ。これ見よがしにベンチや植え込みの上にちょこんと置かれた飲料コップやペットボトル、アルミ缶などのゴミ(中には飲みかけのものもあります)。植え込みの茂みに隠したペットボトルやアルミ缶、ビン、丸めたちり紙などのゴミ。すべて人為によるものです。これらのゴミは人の仕業と分かるからこそ「なんだ、これは・・・!?」と苛立ったり、不快感が湧いてきたりするのです。それぞれのゴミの背後に、それをやった人の節操のなさ、底意地の悪さ、ひいては悪意までもが透けて見えます。
ところが、自然由来のものに対しては違います。私は、落ち葉も含め自然由来のものには怒りが湧いてきませんし、不快と思ったこともありません。伸び放題の夏草の叢でもしかりです。むっとした草いきれや蚊の襲撃までも連想してしまい、さすがに苦手としていますが、自然のものは自然のものとしてそのまま受け入れます。多くの方は私と同じ感覚ではないでしょうか。(ただし、散らかった落ち葉にゴミと同じ不快を感じる人もいるかもしれませんが・・・。)
自然由来のものか否か、言い換えれば人工のものか否かで、私はゴミか否かを決めています。やはり人為的というところが私の神経を逆なでするのだと考えています。人工のゴミが散らかっている無秩序な状態を見ると、気持ちが乱れて落ち着きません。平静を保つためには見て見ぬふりをし、無関心を装うしかありませんが、精神的には重い負担を感じます。ザックリ言うと、私の脳は秩序が保たれた状態が好きで、秩序が乱れると不安定になるようなのです。これについても同じような考えの人が少なくないものと勝手に考えています。人工のものだけなら、拾うには火バサミで十分です。ですから、箒を使っての掃き掃除までやるつもりはありません。
たかがゴミぐらいで・・・と思いがちですが、住い環境の乱れはそこの住民の精神衛生にも悪影響を及ぼすだろうと考えています。ゴミが散らかり放題の猥雑な住い環境では、住民の気分は荒むだろうと思います。家のまわりの汚さ(乱れ)に見て見ぬふりを決め込み、住民同士お互いの動向にも無関心を装うようになるでしょう。こうなると治安は悪くなる一方だと思います。逆に、ゴミの少ないきれいな住い環境を見ていると、住民に落ち着いた雰囲気と心のゆとりが感じられ、治安のよさも見てとれます。ゴミの少ない住い環境は、ほどよい秩序が維持されています。それで精神衛生上も快適な状態なのだと考えています。
さて、路上のゴミはその散らかり方によっても違った顔を見せます。手が付けられないほど乱雑過ぎて、「これじゃー、どれだけやっても切りがない!」とつい腰が引け見限ってしまうような顔。「目障り! せっかく感じのいい場所柄なのにもったいない」とついゴミの一つや二つ拾ってあげたくなるような顔。それらの中間の顔。手が付けられないような状態を目にした場合、手元にゴミ拾いの七つ道具がなければ、さすがの私も腰が引け、何もせずに見て見ぬふりを決め込みます。・・・が、少し手を付ければマシな状態になりそうなら、思わず素手でもゴミを拾ってみようかという気になります。つい拾ってみようとするぐらいのゴミの少なさ、こんな状態にまで持って行けたなら、「世の中まだまだ捨てたものじゃない!」と見直すことだろうと思っています。
人には他人の行為を見倣おうとする習性があるようです。比較的狭い範囲に新旧入り混じった複数の吸い殻が捨てられていると、その辺りへのポイ捨ては決まってさらに増えます。逆に、目を光らせ始末している人の気配が感じられさえすれば、少なくともポイ捨てすることは控えるようです。これは私の体験から得た実感です。中には進んでゴミ拾いを始めた人も出て来ているのでは・・・、と思っています。
“路上のゴミ拾い” はしょせん他人の尻拭いに過ぎません。・・・が、他人の尻拭いこそが真実の奉仕なのだと教わりました。曽野綾子氏がこう言っています。
“真実の奉仕というのは、すべて汚物を通して行われるべきなのであり、極言すれば他者の「うんことおしっこ」の世話をすることだ。”
自慢じゃありませんが、私も犬の “うんこ” を道で見つけたら、躊躇せずさっさと始末してのけます。人糞にも極たまに出くわします。どうやらご近所にも同病真っ盛りの方がいるらしいのです。見てくれ・匂いとも犬の比ではありません。しっかり覚悟を決めてから始末します。「自分がやらなくて、誰がやる?」の覚悟です。始末をつけた後は、不思議と清々しい気分にもなれます。これが社会奉仕で得られる達成感なのだろうなと思っています。
週1~2回定点観測している近くのバス停には、吸い殻のポイ捨て常習者が3~5人ぐらいいるようです。吸い殻の銘柄で分かります。このバス停の利用客は多分1日100~150人ぐらいと思われます。“路上のゴミ拾い” を始めた頃と比べると、吸い殻の状況は大分改善しています。このバス停を利用する人々が今後どう変わってくれるのか楽しみにしています。
私が言わんとすることはもうお察しのことと思います。“路上のゴミ拾い” 最初は何気なく始めた活動でしたが、今は健常な身体でいる限りこの活動を続け、ご近所がどう変わるかその変化を見続けたいと思っています。“路上のゴミ拾い” は世の中を変える運動にもなり得ます。その目標に向かって、私の同輩や若い者の「手本でありたい」これが今の私の希望であり、挑戦でもあります。
ご参考のため、私の “路上のゴミ拾い” 七つ道具をご紹介しておきます。コトを始める際は、その日どこまでやったら切り上げるのか、予め決めておくことをお勧めします。
● 軍手
● 火バサミ
● レジ袋(可燃ゴミ用、不燃ゴミ用各2枚以上:大・中の方が
便利)
● スーパーの商品水漏れ防止用小ポリ袋(犬の落し物用3~4枚)
○ 大き目の袋(予備品持ち歩き用)
○ 黄色のウィンドブレーカー(交通事故防止用)
○ 麦わら帽子
「自分で始末をつけられる生き方」もご参照ください。
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現在私は65歳ですが、さすがに残された時間に限りが見えてきました。それで、これからでも遺せるものは何だろうと考えるようになりました。この歳になると遥か彼方のおぼろげな夢を望むよりも、身近で実現可能なものの方に挑戦し、希望を見出そうとしています。
この1年間、“路上のゴミ拾い” をやってきました。その実践でゴミの散らかり方にも微妙な変化が見え、それなりの手応えを感じています。ささやかな今の活動を続けることでも、まわりの人々が少しずつ変わってくれるかもしれない・・・そんなふうに考えるようになりました。
路上にゴミが散らかっている様子を目にすると、誰しも苛立ちと不快感を覚えると思います。歩道のど真ん中に無神経に捨てられた吸い殻やレシート、マスクなどのゴミ。これ見よがしにベンチや植え込みの上にちょこんと置かれた飲料コップやペットボトル、アルミ缶などのゴミ(中には飲みかけのものもあります)。植え込みの茂みに隠したペットボトルやアルミ缶、ビン、丸めたちり紙などのゴミ。すべて人為によるものです。これらのゴミは人の仕業と分かるからこそ「なんだ、これは・・・!?」と苛立ったり、不快感が湧いてきたりするのです。それぞれのゴミの背後に、それをやった人の節操のなさ、底意地の悪さ、ひいては悪意までもが透けて見えます。
ところが、自然由来のものに対しては違います。私は、落ち葉も含め自然由来のものには怒りが湧いてきませんし、不快と思ったこともありません。伸び放題の夏草の叢でもしかりです。むっとした草いきれや蚊の襲撃までも連想してしまい、さすがに苦手としていますが、自然のものは自然のものとしてそのまま受け入れます。多くの方は私と同じ感覚ではないでしょうか。(ただし、散らかった落ち葉にゴミと同じ不快を感じる人もいるかもしれませんが・・・。)
自然由来のものか否か、言い換えれば人工のものか否かで、私はゴミか否かを決めています。やはり人為的というところが私の神経を逆なでするのだと考えています。人工のゴミが散らかっている無秩序な状態を見ると、気持ちが乱れて落ち着きません。平静を保つためには見て見ぬふりをし、無関心を装うしかありませんが、精神的には重い負担を感じます。ザックリ言うと、私の脳は秩序が保たれた状態が好きで、秩序が乱れると不安定になるようなのです。これについても同じような考えの人が少なくないものと勝手に考えています。人工のものだけなら、拾うには火バサミで十分です。ですから、箒を使っての掃き掃除までやるつもりはありません。
たかがゴミぐらいで・・・と思いがちですが、住い環境の乱れはそこの住民の精神衛生にも悪影響を及ぼすだろうと考えています。ゴミが散らかり放題の猥雑な住い環境では、住民の気分は荒むだろうと思います。家のまわりの汚さ(乱れ)に見て見ぬふりを決め込み、住民同士お互いの動向にも無関心を装うようになるでしょう。こうなると治安は悪くなる一方だと思います。逆に、ゴミの少ないきれいな住い環境を見ていると、住民に落ち着いた雰囲気と心のゆとりが感じられ、治安のよさも見てとれます。ゴミの少ない住い環境は、ほどよい秩序が維持されています。それで精神衛生上も快適な状態なのだと考えています。
さて、路上のゴミはその散らかり方によっても違った顔を見せます。手が付けられないほど乱雑過ぎて、「これじゃー、どれだけやっても切りがない!」とつい腰が引け見限ってしまうような顔。「目障り! せっかく感じのいい場所柄なのにもったいない」とついゴミの一つや二つ拾ってあげたくなるような顔。それらの中間の顔。手が付けられないような状態を目にした場合、手元にゴミ拾いの七つ道具がなければ、さすがの私も腰が引け、何もせずに見て見ぬふりを決め込みます。・・・が、少し手を付ければマシな状態になりそうなら、思わず素手でもゴミを拾ってみようかという気になります。つい拾ってみようとするぐらいのゴミの少なさ、こんな状態にまで持って行けたなら、「世の中まだまだ捨てたものじゃない!」と見直すことだろうと思っています。
人には他人の行為を見倣おうとする習性があるようです。比較的狭い範囲に新旧入り混じった複数の吸い殻が捨てられていると、その辺りへのポイ捨ては決まってさらに増えます。逆に、目を光らせ始末している人の気配が感じられさえすれば、少なくともポイ捨てすることは控えるようです。これは私の体験から得た実感です。中には進んでゴミ拾いを始めた人も出て来ているのでは・・・、と思っています。
“路上のゴミ拾い” はしょせん他人の尻拭いに過ぎません。・・・が、他人の尻拭いこそが真実の奉仕なのだと教わりました。曽野綾子氏がこう言っています。
“真実の奉仕というのは、すべて汚物を通して行われるべきなのであり、極言すれば他者の「うんことおしっこ」の世話をすることだ。”
自慢じゃありませんが、私も犬の “うんこ” を道で見つけたら、躊躇せずさっさと始末してのけます。人糞にも極たまに出くわします。どうやらご近所にも同病真っ盛りの方がいるらしいのです。見てくれ・匂いとも犬の比ではありません。しっかり覚悟を決めてから始末します。「自分がやらなくて、誰がやる?」の覚悟です。始末をつけた後は、不思議と清々しい気分にもなれます。これが社会奉仕で得られる達成感なのだろうなと思っています。
週1~2回定点観測している近くのバス停には、吸い殻のポイ捨て常習者が3~5人ぐらいいるようです。吸い殻の銘柄で分かります。このバス停の利用客は多分1日100~150人ぐらいと思われます。“路上のゴミ拾い” を始めた頃と比べると、吸い殻の状況は大分改善しています。このバス停を利用する人々が今後どう変わってくれるのか楽しみにしています。
私が言わんとすることはもうお察しのことと思います。“路上のゴミ拾い” 最初は何気なく始めた活動でしたが、今は健常な身体でいる限りこの活動を続け、ご近所がどう変わるかその変化を見続けたいと思っています。“路上のゴミ拾い” は世の中を変える運動にもなり得ます。その目標に向かって、私の同輩や若い者の「手本でありたい」これが今の私の希望であり、挑戦でもあります。
ご参考のため、私の “路上のゴミ拾い” 七つ道具をご紹介しておきます。コトを始める際は、その日どこまでやったら切り上げるのか、予め決めておくことをお勧めします。
● 軍手
● 火バサミ
● レジ袋(可燃ゴミ用、不燃ゴミ用各2枚以上:大・中の方が
便利)
● スーパーの商品水漏れ防止用小ポリ袋(犬の落し物用3~4枚)
○ 大き目の袋(予備品持ち歩き用)
○ 黄色のウィンドブレーカー(交通事故防止用)
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