1995年1月17日(火)午前5時46分、兵庫県南部地震(M7.2、最大震度7激震)が発生。死者6,434人、倒壊・焼失家屋15万余棟。当時、戦後最悪といわれた阪神大震災の始まりです。私が目にした地震当日の被災現場の体験を綴ります。
阪神間には南から北へ順に国道43号線、阪神本線、国道2号線、JR神戸線、阪急神戸線が東西に通っています。阪神大震災の被害が集中していたのは国道43号線と阪急神戸線に挟まれた細長い帯状の地域で、国道2号線を中心として阪神本線とJR神戸線の間のせいぜい1kmにも満たない巾の狭い地帯が特に被害が酷かったのです。阪急神戸線より北側の山の手地域は意外に軽い被害で済んだようです。このことは後から報道で知りました。私はこの地帯の南縁に住んでいました。
夜明け前の暗闇の中でした。ドーンという爆発音のような音と同時に突き上げられるように体がフワッと浮き、猛烈な揺れが襲ってきて目が覚めました。二重になっていたアルミサッシの内側の引戸が左右に激しく動き、動きに同調してガッチャガッチャとガラスが砕ける音がしました。猛烈な揺れで脇にあった洋服ダンスの扉の片方がバーンと開いてしまい、そのまま倒れてくるのが見えました。咄嗟に頭から布団を被ったのと、洋服ダンスが顔と胸に覆い被さったのとはほぼ同時でした。私は洋服ダンスの下敷きになったのです。布団を被ったお蔭で幸いケガはありませんでした。
揺れが収まると、遠くで「お~ぃ、大丈夫かぁ~?」という男の声が外の暗がりから聞こえてきました。部屋の中も暗かったのですが、いつもは窓に映る高速道路の照明が点いていたのかどうか覚えていません。暗がりの中で室内がグチャグチャになっているのが気配で分かりました。起き上がって服を着込み、枕元にあった厚手の靴下を履いて立ち上がってみました。
二重になっていたアルミサッシを見ると、針金入りの外側のサッシは大丈夫でしたが、内側はガラスが大部分割れ落ち、破片が枕元まで散乱していました。「地震だったのか」と初めて気づきました。震度4程度の地震は度々経験していましたが、これほど強いものは経験がなく、初め地震だとは信じられませんでした。
天井の蛍光灯の紐スウィッチを引いてみましたが、電気が停まったらしく明かりが点きません。暗い中、食器や鍋が散乱し、ガラスの破片やら食器やらが散らばっているのが分かりました。足元に注意しながら炊事場のガスの元栓を止め、水道からまだ水が出ることを確かめました。玄関のドアも開くことが分かりました。倒れた洋服ダンスは重く、独りで元通りに立ち上げることは無理でした。強い余震が始まっていました。
しばらくして外が白み始めました。本宅(?)マンションの様子が心配になり、4~5kmほどの距離を歩いて向かいました。星が煌めく晴れ渡った冬空で、まだヘリコプターの爆音は聞こえていなかったと思います。
バス通りに面した二階建てのアパートの一階がベチャと潰れ、瓦葺き屋根の二階がそのままの姿で乗っかっていました。同じように潰れた一階に無傷の瓦葺き屋根の二階が傾いて乗っかっている家、壁に亀裂が入った瓦葺き屋根の家、一階が少し傾いた瓦葺き屋根の家、・・・このような瓦葺き屋根の木造家屋があちこちで見られました。
市立中央図書館前の舗道の煉瓦が蛇行するように歪(ひず)んで、芸術的ともいえる奇妙なリズムを刻んでいました。地震前は長方形の煉瓦が真っ直ぐ直線的に並んでいたのです。人工的な力ではありえない、横方向からの強大な力が押し潰したように思われました。
夙川に掛っている橋の橋詰では道路に10~15cmほどの段差が出来て、車はゆっくりとしか走れなくなっていました。川を境に地面が沈下したのだと思います。道路のあちこちにひび割れが走って、小さな段差もありました。歩道橋でも橋桁との間に小さな段差が出来て、左右にも少しズレていました。
引っ切りなしに続く余震のために、人々は家の外に出ていて、道端や外に出した自家用の車の傍で、ほとんど無言のまま不安そうに佇んでいました。ヒソヒソ言葉を交わすぐらいで、不思議なほど静かで落ち着いているように見えました。あるいは、あまりの驚きで声が出なかったのかもしれません。緊急自動車のサイレンも多くはなかったと思います。
私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず、興奮もしていないことが不思議でした。意表を突かれた出来事に感情が完全に封じ込められていたのかもしれません。茫然自失。この四文字熟語では当時の実感は表現できません。
本宅マンションに着いてみると、敷地の所々から砂が液状化して噴き出し、煉瓦を張った舗道では煉瓦が左右にズレたり、上下に波打った所もありました。建物の出入り口の階段が浮き上がって地面と段差が出来たこと、建物と地面の境界線が10~15cmズレていたことから地盤が全体的に沈んだことが分かりました。幸運にも、建物自体は全く無傷でした。居住不能となった建物と住宅ローンの借金が残っただけ、という残酷物語の主人公にならずに済み、心底安堵しました。
息子たちは半分寝ぼけて暢気に寝ていました。妻は家におらず、パートで働いていたスーパーに出掛けたばかりと分かりました。室内の被害は、食器棚が前方に傾いて天井の梁桁に引っ掛かり、食器が床に零れ落ちて、破片が散乱していただけでした。食器棚は押してもびくともしなかったのに、前に引いてみたら元に戻りました。「また戻って来る」と息子たちに言い残し、私はワンルームの自宅に一旦帰ることにしました。
ワンルームの自宅に戻る途中、公衆電話があったので会社に電話してみたところ一発で通じました。公衆電話の回線は別回線だとずっと後になって知りました。
電話に出たのは課長補佐のA君でした。この時初めて時計を見ました。午前8時前でした。彼とはその日、一緒に東北地方へ空路出張に出かける予定でした。予約便が欠航だというので会社に出ているとのことでした。阪神間がとんでもないことになっているとは彼もまだ知らないようでした。「いつ頃になったら出張に出られそうですか?」と訊ねてきました。私もこの地域全体が一体どういう状況になっているのかサッパリ分かりませんでした。自分が知っている範囲のことだけを話し、「少なくとも2~3日は出張に行けないんじゃないかなぁ」と間抜けなことを伝え電話を切りました。西の方、神戸の方角に黒くて太い柱のような煙が4本ほど立ち昇っているのが見えました。
ワンルームの自宅に着いて試にテレビを付けてみたところ、電波の状態が悪く霧が掛ったように画面が荒れていました。映っていたのは災害現場で、阪神高速が横倒しになっている場面が見えました。
自転車で本宅マンションに引き返し、二男を伴って阪神高速が横倒しになっている国道43号線の現場に向かってみました。現場の深江は近かったのです。
倒壊現場では何本もの橋脚が一斉に山側に横倒しになって、眼に見える限りずっと遠くまで続いていました。ある意味壮観でした。橋脚のコンクリートが剝がれ、剝き出しになった太い鉄筋がアメのように曲がっているのが見えました。神戸方面へ向かう海側の車道には障害物が何もなかったのですが、車は全く通っていませんでした。とても奇妙な光景でした。あまりに無残な光景に二人とも息をのみ声を出せませんでした。
上空では無数のヘリコプターが辺りに爆音を響かせていました。阪神高速は西宮方面でも橋桁の落下があり、スキーツァー帰りの観光バスが危うく転落しそうになったことを後で知りました。その事故現場はワンルームの自宅近くでした。
ワンルームの自宅への帰り道、国道43号線の南側の住宅街を通りかかると、倒壊した瓦葺きの木造の建物から人を助け出している場面に出会いました。担架に乗せられ、毛布を被せられている人を人々が取り囲んでいました。私たちが通りかかった範囲では、このような救助場面は他に見かけませんでした。
大手酒造会社の木造瓦葺きの酒造記念館が全壊し、巨大な仕込み樽が野晒しになっていました。ワンルームの自宅から少し離れたところにコンビニがあり、早くも営業していました。入口ドアを半開きにして店内には客を入れず、狭い隙間から店員が商品を手渡していました。私はカップ麺とビール、おつまみを買い求めました。「何か買うか?」二男に聞いても「何もいらない」と返してきました。
ワンルームの自宅から民家を挟んで3軒隣に8階建のマンションがあります。その一階の壁と柱には大きなX字の亀裂が入っているのが見えました。一階の各戸の玄関は扉が歪んで、半開きになったままのところもありました。直ぐ隣りの、いかにも安普請の家の建物は全く無傷に見えました。倒壊していた家屋は皆重い瓦葺き屋根でしたが、隣の家は軽いトタン葺きの屋根でした。この地方では重い土葺瓦屋根が一般的です。倒壊家屋は屋根が重過ぎて倒れたのだろうと思います。
ワンルームの自宅へ戻り、二男に手伝ってもらって、まず洋服ダンスを立ち上げることから始めました。洋服ダンスの扉は倒れた衝撃で片方が外れていました。長男も来てくれたので、外れた扉を応急処置で元の状態に戻しましたが、いつ外れてもおかしくない状態でした。サッシの割れたガラス片も片付け、戸外に持ち出しました。破損した家具類を集積する場所が臨時に設けられていました。集積場所まで運んでみて、サッシのガラスは意外に重いことに驚かされました。
室内が片付いたので、ひとまず皆でカップ麺を食べようとしましたが、その時初めて水が出ないことに気付きました。ガスも止まっていました。何も食べることができません。空腹だったろうと思いますが、家で食べるように言って息子たちには帰ってもらいました。私自身は空腹を感じていませんでした。やはり緊張で興奮していたのだと思います。
ワンルームマンションを挟んで国道43号線とは反対側に小学校があり、付近の避難所になっていました。避難所はトイレが不潔で不自由だろう、自室にいた方が気楽と考え避難しないことにしました。どこの避難所でもトイレの問題が酷かったそうです。
歩いて2~3分ほどの近くに酒屋があって、幸い店を開けていました。水道が止まったので水代わりにビールを飲み、切れたら酒屋で買い求めることにしました。断酒後の今からみたら連続飲酒の始まりと警戒すべき状態です。酒屋の奥さんが店の裏手に手動ポンプの井戸があると教えてくれました。飲用には向かず生活用水としてしか使えないのですが、普段知ることもない井戸の存在も、災害が起こったことで知ることが出来ました。
トイレ用として井戸水を浴槽に汲んでおくことにし、水の入ったバケツを3階まで何回も運びました。これは想像以上にシンドイ作業でした。バケツは一つしか持合わせがなく、バケツ1杯分では浴槽にうっすらと浅く水が残る程度でした。バケツ運びを何回繰り返したでしょうか。バケツを何回運んでも浴槽の1/3程度まで貯めるのが精一杯でした。トイレ1回分を流すに要する水がバケツ2杯分の水では足らない、ということをご存じでしょうか?毎日井戸からバケツで水を運び、その汲み置き水で地震当日を含め3日間を何とか凌ぎました。水洗トイレが必要とする水量がハンパでないことを思い知らされました。
地震直後は建物の貯水槽に水が残っていたはずで、水が出ている間に浴槽に貯めておけば良かったと悔やみました。後で聞いた話ですが、六甲アイランドの高層住宅の住民は26階(?)まで階段を使いバケツ運搬をしたそうです。高層には住むものではないと知りました。
テレビの電波の状態が回復しNHKでは地震災害報道を続けていました。市区ごとの死亡者名や被害状況の報道ばかりでなく、避難所情報も流れていました。引っ切りなしの余震のたびに緊急速報があり、M6程度の余震の恐れも繰り返し報道されました。
夜になって、服を着たまま毛布と布団を被って横になりましたが、寝付かれないままテレビを見続けました。テレビは終夜放送になっていました。固定カメラから撮った暗い神戸の街角が映っていて、時々ヘッドライトを点けた車が通っていました。淡々としたギター曲がBGMで流れ続けていました。余震の緊急速報のたびに音楽が中断しました。明かりを付けたままの、不安だらけの夜でした。
地震3日目に会社から電話が架かってくるまで、毎日水汲みをし、ビールや若干の食料の調達のため酒屋に出る以外、完全に引き籠りの連続飲酒状態でした。いったんアルコールが入ってしまうと、明るい内から酔っ払っている姿を見られるのが嫌で、どうしても必要な場合以外は外出しなくなりました。どうしても必要な場合とは、もちろん酒類が切れた時のことです。
アルコール依存症へ辿った道筋(その17)につづく
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阪神間には南から北へ順に国道43号線、阪神本線、国道2号線、JR神戸線、阪急神戸線が東西に通っています。阪神大震災の被害が集中していたのは国道43号線と阪急神戸線に挟まれた細長い帯状の地域で、国道2号線を中心として阪神本線とJR神戸線の間のせいぜい1kmにも満たない巾の狭い地帯が特に被害が酷かったのです。阪急神戸線より北側の山の手地域は意外に軽い被害で済んだようです。このことは後から報道で知りました。私はこの地帯の南縁に住んでいました。
夜明け前の暗闇の中でした。ドーンという爆発音のような音と同時に突き上げられるように体がフワッと浮き、猛烈な揺れが襲ってきて目が覚めました。二重になっていたアルミサッシの内側の引戸が左右に激しく動き、動きに同調してガッチャガッチャとガラスが砕ける音がしました。猛烈な揺れで脇にあった洋服ダンスの扉の片方がバーンと開いてしまい、そのまま倒れてくるのが見えました。咄嗟に頭から布団を被ったのと、洋服ダンスが顔と胸に覆い被さったのとはほぼ同時でした。私は洋服ダンスの下敷きになったのです。布団を被ったお蔭で幸いケガはありませんでした。
揺れが収まると、遠くで「お~ぃ、大丈夫かぁ~?」という男の声が外の暗がりから聞こえてきました。部屋の中も暗かったのですが、いつもは窓に映る高速道路の照明が点いていたのかどうか覚えていません。暗がりの中で室内がグチャグチャになっているのが気配で分かりました。起き上がって服を着込み、枕元にあった厚手の靴下を履いて立ち上がってみました。
二重になっていたアルミサッシを見ると、針金入りの外側のサッシは大丈夫でしたが、内側はガラスが大部分割れ落ち、破片が枕元まで散乱していました。「地震だったのか」と初めて気づきました。震度4程度の地震は度々経験していましたが、これほど強いものは経験がなく、初め地震だとは信じられませんでした。
天井の蛍光灯の紐スウィッチを引いてみましたが、電気が停まったらしく明かりが点きません。暗い中、食器や鍋が散乱し、ガラスの破片やら食器やらが散らばっているのが分かりました。足元に注意しながら炊事場のガスの元栓を止め、水道からまだ水が出ることを確かめました。玄関のドアも開くことが分かりました。倒れた洋服ダンスは重く、独りで元通りに立ち上げることは無理でした。強い余震が始まっていました。
しばらくして外が白み始めました。本宅(?)マンションの様子が心配になり、4~5kmほどの距離を歩いて向かいました。星が煌めく晴れ渡った冬空で、まだヘリコプターの爆音は聞こえていなかったと思います。
バス通りに面した二階建てのアパートの一階がベチャと潰れ、瓦葺き屋根の二階がそのままの姿で乗っかっていました。同じように潰れた一階に無傷の瓦葺き屋根の二階が傾いて乗っかっている家、壁に亀裂が入った瓦葺き屋根の家、一階が少し傾いた瓦葺き屋根の家、・・・このような瓦葺き屋根の木造家屋があちこちで見られました。
市立中央図書館前の舗道の煉瓦が蛇行するように歪(ひず)んで、芸術的ともいえる奇妙なリズムを刻んでいました。地震前は長方形の煉瓦が真っ直ぐ直線的に並んでいたのです。人工的な力ではありえない、横方向からの強大な力が押し潰したように思われました。
夙川に掛っている橋の橋詰では道路に10~15cmほどの段差が出来て、車はゆっくりとしか走れなくなっていました。川を境に地面が沈下したのだと思います。道路のあちこちにひび割れが走って、小さな段差もありました。歩道橋でも橋桁との間に小さな段差が出来て、左右にも少しズレていました。
引っ切りなしに続く余震のために、人々は家の外に出ていて、道端や外に出した自家用の車の傍で、ほとんど無言のまま不安そうに佇んでいました。ヒソヒソ言葉を交わすぐらいで、不思議なほど静かで落ち着いているように見えました。あるいは、あまりの驚きで声が出なかったのかもしれません。緊急自動車のサイレンも多くはなかったと思います。
私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず、興奮もしていないことが不思議でした。意表を突かれた出来事に感情が完全に封じ込められていたのかもしれません。茫然自失。この四文字熟語では当時の実感は表現できません。
本宅マンションに着いてみると、敷地の所々から砂が液状化して噴き出し、煉瓦を張った舗道では煉瓦が左右にズレたり、上下に波打った所もありました。建物の出入り口の階段が浮き上がって地面と段差が出来たこと、建物と地面の境界線が10~15cmズレていたことから地盤が全体的に沈んだことが分かりました。幸運にも、建物自体は全く無傷でした。居住不能となった建物と住宅ローンの借金が残っただけ、という残酷物語の主人公にならずに済み、心底安堵しました。
息子たちは半分寝ぼけて暢気に寝ていました。妻は家におらず、パートで働いていたスーパーに出掛けたばかりと分かりました。室内の被害は、食器棚が前方に傾いて天井の梁桁に引っ掛かり、食器が床に零れ落ちて、破片が散乱していただけでした。食器棚は押してもびくともしなかったのに、前に引いてみたら元に戻りました。「また戻って来る」と息子たちに言い残し、私はワンルームの自宅に一旦帰ることにしました。
ワンルームの自宅に戻る途中、公衆電話があったので会社に電話してみたところ一発で通じました。公衆電話の回線は別回線だとずっと後になって知りました。
電話に出たのは課長補佐のA君でした。この時初めて時計を見ました。午前8時前でした。彼とはその日、一緒に東北地方へ空路出張に出かける予定でした。予約便が欠航だというので会社に出ているとのことでした。阪神間がとんでもないことになっているとは彼もまだ知らないようでした。「いつ頃になったら出張に出られそうですか?」と訊ねてきました。私もこの地域全体が一体どういう状況になっているのかサッパリ分かりませんでした。自分が知っている範囲のことだけを話し、「少なくとも2~3日は出張に行けないんじゃないかなぁ」と間抜けなことを伝え電話を切りました。西の方、神戸の方角に黒くて太い柱のような煙が4本ほど立ち昇っているのが見えました。
ワンルームの自宅に着いて試にテレビを付けてみたところ、電波の状態が悪く霧が掛ったように画面が荒れていました。映っていたのは災害現場で、阪神高速が横倒しになっている場面が見えました。
自転車で本宅マンションに引き返し、二男を伴って阪神高速が横倒しになっている国道43号線の現場に向かってみました。現場の深江は近かったのです。
倒壊現場では何本もの橋脚が一斉に山側に横倒しになって、眼に見える限りずっと遠くまで続いていました。ある意味壮観でした。橋脚のコンクリートが剝がれ、剝き出しになった太い鉄筋がアメのように曲がっているのが見えました。神戸方面へ向かう海側の車道には障害物が何もなかったのですが、車は全く通っていませんでした。とても奇妙な光景でした。あまりに無残な光景に二人とも息をのみ声を出せませんでした。
上空では無数のヘリコプターが辺りに爆音を響かせていました。阪神高速は西宮方面でも橋桁の落下があり、スキーツァー帰りの観光バスが危うく転落しそうになったことを後で知りました。その事故現場はワンルームの自宅近くでした。
ワンルームの自宅への帰り道、国道43号線の南側の住宅街を通りかかると、倒壊した瓦葺きの木造の建物から人を助け出している場面に出会いました。担架に乗せられ、毛布を被せられている人を人々が取り囲んでいました。私たちが通りかかった範囲では、このような救助場面は他に見かけませんでした。
大手酒造会社の木造瓦葺きの酒造記念館が全壊し、巨大な仕込み樽が野晒しになっていました。ワンルームの自宅から少し離れたところにコンビニがあり、早くも営業していました。入口ドアを半開きにして店内には客を入れず、狭い隙間から店員が商品を手渡していました。私はカップ麺とビール、おつまみを買い求めました。「何か買うか?」二男に聞いても「何もいらない」と返してきました。
ワンルームの自宅から民家を挟んで3軒隣に8階建のマンションがあります。その一階の壁と柱には大きなX字の亀裂が入っているのが見えました。一階の各戸の玄関は扉が歪んで、半開きになったままのところもありました。直ぐ隣りの、いかにも安普請の家の建物は全く無傷に見えました。倒壊していた家屋は皆重い瓦葺き屋根でしたが、隣の家は軽いトタン葺きの屋根でした。この地方では重い土葺瓦屋根が一般的です。倒壊家屋は屋根が重過ぎて倒れたのだろうと思います。
ワンルームの自宅へ戻り、二男に手伝ってもらって、まず洋服ダンスを立ち上げることから始めました。洋服ダンスの扉は倒れた衝撃で片方が外れていました。長男も来てくれたので、外れた扉を応急処置で元の状態に戻しましたが、いつ外れてもおかしくない状態でした。サッシの割れたガラス片も片付け、戸外に持ち出しました。破損した家具類を集積する場所が臨時に設けられていました。集積場所まで運んでみて、サッシのガラスは意外に重いことに驚かされました。
室内が片付いたので、ひとまず皆でカップ麺を食べようとしましたが、その時初めて水が出ないことに気付きました。ガスも止まっていました。何も食べることができません。空腹だったろうと思いますが、家で食べるように言って息子たちには帰ってもらいました。私自身は空腹を感じていませんでした。やはり緊張で興奮していたのだと思います。
ワンルームマンションを挟んで国道43号線とは反対側に小学校があり、付近の避難所になっていました。避難所はトイレが不潔で不自由だろう、自室にいた方が気楽と考え避難しないことにしました。どこの避難所でもトイレの問題が酷かったそうです。
歩いて2~3分ほどの近くに酒屋があって、幸い店を開けていました。水道が止まったので水代わりにビールを飲み、切れたら酒屋で買い求めることにしました。断酒後の今からみたら連続飲酒の始まりと警戒すべき状態です。酒屋の奥さんが店の裏手に手動ポンプの井戸があると教えてくれました。飲用には向かず生活用水としてしか使えないのですが、普段知ることもない井戸の存在も、災害が起こったことで知ることが出来ました。
トイレ用として井戸水を浴槽に汲んでおくことにし、水の入ったバケツを3階まで何回も運びました。これは想像以上にシンドイ作業でした。バケツは一つしか持合わせがなく、バケツ1杯分では浴槽にうっすらと浅く水が残る程度でした。バケツ運びを何回繰り返したでしょうか。バケツを何回運んでも浴槽の1/3程度まで貯めるのが精一杯でした。トイレ1回分を流すに要する水がバケツ2杯分の水では足らない、ということをご存じでしょうか?毎日井戸からバケツで水を運び、その汲み置き水で地震当日を含め3日間を何とか凌ぎました。水洗トイレが必要とする水量がハンパでないことを思い知らされました。
地震直後は建物の貯水槽に水が残っていたはずで、水が出ている間に浴槽に貯めておけば良かったと悔やみました。後で聞いた話ですが、六甲アイランドの高層住宅の住民は26階(?)まで階段を使いバケツ運搬をしたそうです。高層には住むものではないと知りました。
テレビの電波の状態が回復しNHKでは地震災害報道を続けていました。市区ごとの死亡者名や被害状況の報道ばかりでなく、避難所情報も流れていました。引っ切りなしの余震のたびに緊急速報があり、M6程度の余震の恐れも繰り返し報道されました。
夜になって、服を着たまま毛布と布団を被って横になりましたが、寝付かれないままテレビを見続けました。テレビは終夜放送になっていました。固定カメラから撮った暗い神戸の街角が映っていて、時々ヘッドライトを点けた車が通っていました。淡々としたギター曲がBGMで流れ続けていました。余震の緊急速報のたびに音楽が中断しました。明かりを付けたままの、不安だらけの夜でした。
地震3日目に会社から電話が架かってくるまで、毎日水汲みをし、ビールや若干の食料の調達のため酒屋に出る以外、完全に引き籠りの連続飲酒状態でした。いったんアルコールが入ってしまうと、明るい内から酔っ払っている姿を見られるのが嫌で、どうしても必要な場合以外は外出しなくなりました。どうしても必要な場合とは、もちろん酒類が切れた時のことです。
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これは私自信のカタルシスのための手記です。それと、依存症に怯えているお酒好きの方に参考となればと思い綴っています。
ありがとうございました。
凄まじい状況だったという印象だけ、強烈に残っています。