ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

自分で始末をつけられる生き方

2015-08-07 21:21:05 | 世相
 “路上のゴミ拾い” 大切な公共の道を快適にでき、身体を絞って体力増進も図れる。さらに自分で人生に始末をつける算段ともなる。“路上のゴミ拾い” は一石二鳥どころかまさに一石三鳥です。

 「自分で自分の始末をつける」 他人に迷惑をかけず自分のことは自分で決まりをつけたい、人生に終止符が打たれるまでに少なくともその道筋だけはつけておきたい。高齢者の仲間入りにさしかかって、このような思いが募るようになりました。始末というと面倒なモノを処分するニュアンスがあり、陰でコッソリという感じがします。面倒でもやるのが当たり前で、表立って大ぴらに言うのも憚られます。始まりがあったら、終わりの締めも当然あります。“始末” は一連の物事にきちんとした終止符を打つ、ごく当たり前の行為のはずです。

 道に落ちているゴミを拾うようになって、5ヵ月目に入っています。初めはタバコの吸い殻だけ拾うつもりでした。所構わず路上に散らばっている吸い殻が気になりだし、若い頃の罪滅ぼしのつもりで始めました。人生に終止符が打たれるまでは出来るだけ “自分で始末をつける”、その一環としてです。私も若い頃、25年ほど前まではポイ捨てをやっていました。映画やテレビでは、刑事だろうが、ブンヤだろうが、チンピラだろうが、ポイ捨て場面はよく見かけたものです。道でタバコを吸うたびに、俳優の仕草を気取って(?)は、何の違和感もなくやっていました。世間の謙煙志向はまだ弱く、ポイ捨てへの罪悪感などもちろんありませんでした。

 通院のため毎日通う道で、ポイ捨て放置されたままの吸い殻を見ていると、日を追うごとにその付近一帯の吸い殻の数が増えていくばかりです。見るに見かねて吸い殻を素手で拾い始めたのがキッカケでした。始めてすぐに吸い殻以外のゴミまで対象が広がりましたが・・・。今では通院時に素手でつい拾ってしまうことがクセになり、加えて週に1~2回は、軍手に火バサミ、レジ袋といういでたちでやっています。

 始めてみると、吸い殻が捨てられている状況から、捨てた人の意識が透けて見えることに気付きました。信号待ちなどの特定の場所に集中しているとか、ほぼ毎日欠かさず同じ場所に落ちているとかです。場所が集中しているのは他人の吸い殻につられての模倣行為が多いと見えますし、同じ場所たとえば階段の4段目に決まって落ちているという例などは喫煙者個人の癖(習慣的行為)とはっきり分かります。どちらも無意識のままやっているのでしょう。

 路上にゴミを捨てる人の意識は、捨てられている場所柄によって次の3つに大別できそうです。


 a)歩道や路上の中央部・道端:
       ほぼ無意識のまま(罪悪感なし?)
 b)植え込み陰やベンチ下、排水溝付近:
       マナー違反の後ろめたさも(罪悪感あり)
 c)植え込み・塀・欄干などの上:
       他人任せの依存心による大甘意識で(罪悪感なし)


これらは実態からみて私が独断で下した分類です。公共の場と分かっていながら、そこにゴミを捨てる心理はこんなものかと考えています。

 参考までに、捨てられているゴミは以下のようなモノです。


 a)の場合:吸い殻、タバコ空箱、レシート、駐輪場整理券、串棒・割り
       ばし、ストロー、マスク、菓子(小分け)空ポリ袋、
       おにぎり包殻、紙フキン、イヌの糞etc
 b)の場合:ペットボトル・飲料缶・ビン、蓋付きコップ、レジ袋・
       紙袋(ゴミ入り)、弁当箱殻、タバコ空箱、菓子空ポリ袋、
       ビニール傘、商品包装ポリ殻etc
 c)の場合:ペットボトル・飲料缶・紙パック・ビン(飲料入り)、蓋付き
       コップ(飲料入り)、タバコ空箱、ビニール傘、幼児靴・
       靴下(片方)、襟巻、手袋(片方)etc

 植え込みの陰などに隠されているゴミは、火バサミがなければ対処する手段がなく、拾い集めるのにとても難義します。


 a)の場合についてはコメントする気にもなりません。b)の場合は、ゴミ捨て場代わりとしている意図がアリアリで、隠蔽を図るなど本人は明らかに犯罪行為と意識しています。c)の場合は、他人任せの甘えで、責任感の欠片も見えません。完璧な幼児行動です。ただし、c)の一部は落し物か忘れ物かもしれません。私の住む地域では、落し物を誰からも見えるようにして知らせてあげる習慣があります。共通しているのは公共心が全く無いか薄く、公共の場所では何をやっても許されるという我儘(無法?)意識です。

 ご覧のように道に捨てられているゴミは、口にするモノに関する容器などがほとんどです。動物にとってモノを口にする行為は本能です。締めである排泄行為ももちろん本能です。本来、食べ物や飲み物を口にするということは、関連する一切のモノ、もちろん排泄物も含めての諸々を、しっかり始末するのが動物として当たり前の本能のはずです。イヌもネコも排泄した跡には必ず土を掛けます。タバコも口にするものですから、始末をつけるのは当たり前のことです。

 無造作に道に捨てられているゴミを見ていると、人間としての躾がされていず、本能までもが劣化しているとしか思えません。物陰にゴミを隠すのはまだ本能の名残とも見えますが、人間としては恥ずべき行為です。文明化が進んだために便利なものに馴れすぎて、少しでも面倒なことを嫌う風潮が蔓延しています。親が子供に躾るべきことを、つい代わりに親がやってあげる風潮もあります。これらの風潮が不躾なゴミ捨てを増長させているのだと思います。

 ボヤキとも義憤ともつかない嘆き節になってしまいました。何か打つ手はあるのでしょうか? 打つ手に繋がるヒントの事例が2つあります。戸建て持家住宅の多い街区では、吸い殻は意外にも道に放置されたままで、住民が自宅門口の掃き掃除をこまめにやっている気配がしませんでした。それらの町内で吸い殻を拾い集めたところ、人通りが少ないこともあってでしょうが、その後の1~2日は吸い殻を見ないで済むようになったのです。また、タクシーが休憩場所として駐車する公園脇の道は吸い殻だらけで、タクシー運転手の喫煙場所になっていました。私は運転手たちの見ている前で吸い殻拾いを無言でやりました。公園脇の道は依然としてタクシーの休憩場所のままですが、落ちている吸い殻の数は劇的に減りました。吸い殻がキレイに片付けられて1本も落ちていない道では、さすがに捨てるのを躊躇わせるのでしょう。

 “他人の眼が光っている” という無言の圧力が抑止力として効いているとしか思えません。私のひいき目でしょうか? 躾のできていない大人には言葉で訴えても期待うすです。やはり、お手本を見せるしか打つ手はないと考えています。実地にゴミ拾いをして、道をきれいにして見せることです。排水溝が吸い殻で詰る心配もなくなりますし、何よりも清潔で秩序ある環境は防犯にも役立つはずです。ゴミの落ちていない住い環境は価値の高い資産にもなります。狙いは不特定多数の通行人のマナー向上です。無言の抑止力による躾を狙っていますから、少し時間が掛るかもしれません。吸い殻ばかりでなく、人工物のゴミ一切が落ちていない道ならば、さすがにゴミを散らかす無神経な人はいないだろうという心理作戦です。

 これからが私の提案です。あなたもご近所の道でゴミ拾いをやってもらえませんか? 私などは退職した身ですから、週1~2回の割で1回2時間程度なら路上のゴミ拾いなど雑作もないことです。無理をせず2時間程度で出来る範囲でよいと思います。拾い集めたゴミの処分を考えると、ゴミ収集日の早朝にやるのがお勧めです。志を同じにする方が、それぞれ勝手に地域と日時を分担してできれば、それで十分と思います。自分で始末をつけられる生き方、その実地演習として是非ご賛同ください。


 禁煙ゾーンに設置されている灰皿では次の標語をよく見かけます。
「捨てるのは指の動き、拾うのは全身の動き」
 “It only takes fingers to throw it away. It takes the whole body
   to clean it up.”
「吸い殻を排水溝に捨てた。というか隠した」
 “I threw my cigarette butt into the drain. That is to say, I hid
  it in the drain.”
特に “拾うのは全身の動き” という言葉には実感がこもっているので気に入っています。今の暑い季節なら、身体をかがめて吸い殻を拾おうとすると、10回もしない内に汗ビッショリになります。大切な公共の道を快適にできる社会貢献ばかりでなく、身体を絞って体力増進も図れる、まさに一石二鳥ですよ。


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