ここで寄り道ついでに最終段階(第Ⅲ相進行中~承認申請)の時点でのスタッフメンバーを紹介しておきましょう。体力戦と神経戦の両者の色彩が濃く、全能力の総動員が要求される作業に一緒に当ったメンバーです。いうなれば私の戦友です。新Ca拮抗薬Pのチームに加わった順番にしました。他に内勤専従のN子嬢がいました。
I君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験4年。真面目な性格で、
内勤の仕事は完璧にこなす。医者が苦手で腰が引けるタイプ。自分
なりの考えを持っており付和雷同する所なし。
O君:営業部門から異動。臨床開発業務経験3年。仕事に真面目で忍耐力あり。
一部ブッキラボウな態度を示すことがあるが誠実なタイプ。自分なり
の考えを持っており付和雷同する所なし。
M君:営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で全く不慣れ。人懐こく八方
美人で煽(おだ)てに乗り易いタイプ。他人の噂に敏感で精神面が脆
い。頑固な所あるが、一方でやや付和雷同する所あり。
A君(課長補佐):営業部門から異動。臨床開発業務経験2年。他人に指図し
たがり、オレがオレがの自己顕示欲が強いタイプ。頑固で付和雷同す
る所なし。
K君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で不慣れ。忍耐力が
あり、弱音を絶対吐かない寂しがり屋。頑固で付和雷同する所なし。
これらの面々が実戦スタッフ全員のプロフィールです。全員営業分野からの異動組なので、医者の扱いには慣れている頼もしいスタッフです。が、I君だけは医者にこっ酷く怒られた経験があるのか心に傷を負っていたようです。また、全員が自分自身をシッカリ持った自律した考え方の持ち主でした。
それでも、私の個人的な印象では、最終段階の臨床開発業務を完遂するには「帯に短し襷に長し」という失礼な見方をしていました。このスタッフに任せて大丈夫行ける、と言い切れない不安をどこかに感じていました。チーム内で唯一の経験者であるだけに、臨床開発の経験不足が明らかなスタッフを一人前に教育できるという確信が持てなかったのです。
加えて、他人を100%信用してはいけないという人生観もありました。他人を信頼して頼みごとをすることはありますが、他人を丸ごと信用することに私は今でも臆病のままです。信用と信頼とは根っこの所で違うと考えています。
ともかくこのメンバーで、根幹データとなる治験については共同担当として分担してもらい、他の小規模の治験については1~2本を各々一人で担当してもらうことを原則としました。
教育では“なぜそれが大事なのか”が大切で、教科書には書いていないノウハウにあたります。この肝腎要の部分をキッチリ教えないと画竜点睛を欠くことになります。必要な知識や具体的な方法ばかりでなく、“なぜ?” への対応が大切です。
私は人を手取り足取り教育することが好きな方ですが、相手の反応をあまり確かめず一方的に押し売りするタイプではないかと懸念しています。時間が限られている状況で手取り足取り教え込むことは不可能で、むしろ邪魔になりかねません。走りながら教育することが求められる臨床開発業務では、恰好のお手本として完成度の高い資料を示すことこそ相応しいと考えていました。
私自身、臨床開発業務らしい最初の作業が研究会用資料の作成だったこともあって、お手本さえあれば誰でも何とか出来るものと確信していたのです。お手本となる資料がなかったら、研究会の幹事役の医師から他社の資料を貰い受け、最も出来の良いものを選んでお手本としてしまえば良いのです。スタッフの教育にはお手本を活用することにしました。
私自身が作った資料をお手本としてメンバーに作成経験を積んでもらい、研究会資料作成は任せられるようになってもらいました。それでも後日メンバーの一人から聞いた話によると、資料中に盛り込むべき要点が理解出来てないと、お手本の良さが全く分からなかったそうです。スタッフが作成した資料の点検は、私自身が必ずやるようにしていました。
資料の点検というのは想像以上に大変な作業です。元データまで遡って確認しなければなりません。作成作業と同じぐらいの時間を要することもザラです。
対象が論文になったら点検・校閲作業ということになります。元データとの照合に加え、データの解釈や文章表現、論理の一貫性という校閲作業までに及びます。資料の点検までは機械的作業のため全面的にスタッフ任せにすることも可能です。しかし、論文の校閲作業となると文章力とともにデータの解釈能力も要求され、相当の技量がなければ出来るものではありません。下手をすると、点検・校閲作業は最初から書くのと同じだけの時間がかかってしまいます。
このことは後日メディカルライティング専任の仕事をしてみて痛感しました。作成者と点検・校閲者の両者とも高い技量がある場合のみ、短時間で済ませられるのです。高い技量を育むには相当の時間を要します。論文の項目ごとの雛形を活用することで凌ぐこともできますが、雛形を作成する時間も人材もありませんでした。
点検・校閲作業を経験不足のスタッフにすべて任せることができるのか?大袈裟ですが、校閲者の人間としての倫理観や資質の問題とまで考えざるを得ませんでした。私の苦手とする問題です。すべての論文にPMとして関わらざるを得ない。この結論は重いものでした。
この結論に至った考え方こそ私が “管理職” に徹し切れなかった理由です。「部下=他人に任せ、その結果責任は自分が負う」そこまで潔く割り切ることが出来ませんでした。
「一人で抱(かか)え込まずに、周りの他人を抱(だ)き込む」これは組織で仕事を進める際の鉄則です。少しでも関わってもらい、少しでも責任を分担してもらう方が良いのです。たとえて言えば、一度相談を持ちかけられたら、その後知らんぷりはできないものなのです。相談を受けた時点で責任の一端を負ってしまったことになります。効率を考える上でも精神衛生の上でも心掛けなければなりません。
当時、私はこのことにあまり気付いていなかったようです。いや、気付いていてもできなかったのです。そこに「一人で抱(かか)え込まざるを得ない」ことを残してしまう私がいました。「他人に任せ放しにはできない」今でも変わっていない私の人生観です。
カッコ良いことばかり言うつもりはありません。部下に仕事で指示・命令を出すとき私は決まって臆病でした。上司の命令に対して私は内心反感や反発を感じることが多かったのです。面従腹背でした。
部下も私と同じ感じ方をするものと思っていましたから、臆病にならざるを得なかったのです。度量が小さい男にありがちな、“ブーメラン報復(因果応報)”を恐れる小心男の姿です。この面でもやはり管理職失格ですね。
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ついで続きに社長についても触れておきます。元の会社は社長なしには語れないのです。
社長は創業家の3代目(実質的には2代目)で、オーナー社長でした。先代は町工場のような小さな会社を中堅企業まで育てた実質的創業者で、私が入社した年に39歳でその跡を継いだのです。
業界の常識から自由で、柵(しがらみ)が全くない奇抜な発想の持ち主でした。周りの反対を押し切って医療用医薬品(治療薬)の研究開発を提唱し、自ら音頭を取って研究所を新設し、新薬を創出し続けるまでに育て上げました。消費者商品についても、常識に囚われない商品(機能性飲料・食品)を世に出し爆発的人気を博しました。先代から受け継いだ経営手腕以上の天才的経営感覚だったと思います。
世の中には金の匂いに敏感な得体の知れない人物がいるものです。奇抜なことが好きなだけに、大風呂敷を広げる “大ホラ吹き” や “山師” が持ち込む事業話に騙されてはいました。この “人を見る目が無い” ことを除いたら社長の業績の素晴らしさに異を唱える人は誰もいませんでした。
人事権を始め会社の全権を握るオーナー社長ですから、社内には学閥などの一切の派閥は全くありませんでした。派閥にありがちな人間関係の柵(しがらみ)は全くなかったのです。
社員各々は昇進・昇格への近道として、いかにして社長一人に取入ることが出来るかが最大の関心事であり、社員同士の人間関係は単なる遊び仲間か足の引っ張り合いかぐらいが精々の単純な図式でした。
もちろん、幹部の中に社長に進言をする者はいても、諫言をする者は誰一人いませんでした。社長に異を唱えることは即ち退社を意味します。“刺違え”は有り得ません。上司・部下関係も、上司が社長に気に入られているのか否かが重要で、昇進・昇格への損得勘定が第一の乾いた人間関係でした。上司が異動でいなくなればなったで、そこま~で~よ♪のフランクな関係でした。
経営者にしてみれば効率の良い理想的な経営環境だったと思います。社長の指示・命令は絶対ですから・・・。しかし、従業員を使い捨てにするブラック企業のようでは決してありませんでした。信賞必罰が徹底していただけです。
このような社風の人生道場で培われた私の人間関係観は義理人情の薄い乾いたもののようです。深入りした人間関係で有りがちな義理人情で生じる葛藤や摩擦が苦手で、他人とは一定の距離を置いてきました。世の中で避けられない他人との付き合い方として丁度良いものだったと思っています。
会社在籍中は、生殺与奪を握る権力者という、低い天井のような重苦しい社長の存在に辟易していましたが、反面どろどろした社員同士の権力闘争には無縁で済んだことに感謝しています。
「困難に直面したとき、ブレーキではなくアクセルを踏め」
「絶対に諦めるな」
元の社長の口癖でした。自らに言い聞かせていたに違いないこれらの言葉が不思議に懐かしい。元の社長はつい先日(2014年11月28日)、社長就任時の30倍規模、1兆4千億円余の売上高(連結決算)の会社を遺し77歳の天寿を完うして鬼籍に入りました。(合掌)
アルコール依存症へ辿った道筋(その12)につづく
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I君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験4年。真面目な性格で、
内勤の仕事は完璧にこなす。医者が苦手で腰が引けるタイプ。自分
なりの考えを持っており付和雷同する所なし。
O君:営業部門から異動。臨床開発業務経験3年。仕事に真面目で忍耐力あり。
一部ブッキラボウな態度を示すことがあるが誠実なタイプ。自分なり
の考えを持っており付和雷同する所なし。
M君:営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で全く不慣れ。人懐こく八方
美人で煽(おだ)てに乗り易いタイプ。他人の噂に敏感で精神面が脆
い。頑固な所あるが、一方でやや付和雷同する所あり。
A君(課長補佐):営業部門から異動。臨床開発業務経験2年。他人に指図し
たがり、オレがオレがの自己顕示欲が強いタイプ。頑固で付和雷同す
る所なし。
K君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で不慣れ。忍耐力が
あり、弱音を絶対吐かない寂しがり屋。頑固で付和雷同する所なし。
これらの面々が実戦スタッフ全員のプロフィールです。全員営業分野からの異動組なので、医者の扱いには慣れている頼もしいスタッフです。が、I君だけは医者にこっ酷く怒られた経験があるのか心に傷を負っていたようです。また、全員が自分自身をシッカリ持った自律した考え方の持ち主でした。
それでも、私の個人的な印象では、最終段階の臨床開発業務を完遂するには「帯に短し襷に長し」という失礼な見方をしていました。このスタッフに任せて大丈夫行ける、と言い切れない不安をどこかに感じていました。チーム内で唯一の経験者であるだけに、臨床開発の経験不足が明らかなスタッフを一人前に教育できるという確信が持てなかったのです。
加えて、他人を100%信用してはいけないという人生観もありました。他人を信頼して頼みごとをすることはありますが、他人を丸ごと信用することに私は今でも臆病のままです。信用と信頼とは根っこの所で違うと考えています。
ともかくこのメンバーで、根幹データとなる治験については共同担当として分担してもらい、他の小規模の治験については1~2本を各々一人で担当してもらうことを原則としました。
教育では“なぜそれが大事なのか”が大切で、教科書には書いていないノウハウにあたります。この肝腎要の部分をキッチリ教えないと画竜点睛を欠くことになります。必要な知識や具体的な方法ばかりでなく、“なぜ?” への対応が大切です。
私は人を手取り足取り教育することが好きな方ですが、相手の反応をあまり確かめず一方的に押し売りするタイプではないかと懸念しています。時間が限られている状況で手取り足取り教え込むことは不可能で、むしろ邪魔になりかねません。走りながら教育することが求められる臨床開発業務では、恰好のお手本として完成度の高い資料を示すことこそ相応しいと考えていました。
私自身、臨床開発業務らしい最初の作業が研究会用資料の作成だったこともあって、お手本さえあれば誰でも何とか出来るものと確信していたのです。お手本となる資料がなかったら、研究会の幹事役の医師から他社の資料を貰い受け、最も出来の良いものを選んでお手本としてしまえば良いのです。スタッフの教育にはお手本を活用することにしました。
私自身が作った資料をお手本としてメンバーに作成経験を積んでもらい、研究会資料作成は任せられるようになってもらいました。それでも後日メンバーの一人から聞いた話によると、資料中に盛り込むべき要点が理解出来てないと、お手本の良さが全く分からなかったそうです。スタッフが作成した資料の点検は、私自身が必ずやるようにしていました。
資料の点検というのは想像以上に大変な作業です。元データまで遡って確認しなければなりません。作成作業と同じぐらいの時間を要することもザラです。
対象が論文になったら点検・校閲作業ということになります。元データとの照合に加え、データの解釈や文章表現、論理の一貫性という校閲作業までに及びます。資料の点検までは機械的作業のため全面的にスタッフ任せにすることも可能です。しかし、論文の校閲作業となると文章力とともにデータの解釈能力も要求され、相当の技量がなければ出来るものではありません。下手をすると、点検・校閲作業は最初から書くのと同じだけの時間がかかってしまいます。
このことは後日メディカルライティング専任の仕事をしてみて痛感しました。作成者と点検・校閲者の両者とも高い技量がある場合のみ、短時間で済ませられるのです。高い技量を育むには相当の時間を要します。論文の項目ごとの雛形を活用することで凌ぐこともできますが、雛形を作成する時間も人材もありませんでした。
点検・校閲作業を経験不足のスタッフにすべて任せることができるのか?大袈裟ですが、校閲者の人間としての倫理観や資質の問題とまで考えざるを得ませんでした。私の苦手とする問題です。すべての論文にPMとして関わらざるを得ない。この結論は重いものでした。
この結論に至った考え方こそ私が “管理職” に徹し切れなかった理由です。「部下=他人に任せ、その結果責任は自分が負う」そこまで潔く割り切ることが出来ませんでした。
「一人で抱(かか)え込まずに、周りの他人を抱(だ)き込む」これは組織で仕事を進める際の鉄則です。少しでも関わってもらい、少しでも責任を分担してもらう方が良いのです。たとえて言えば、一度相談を持ちかけられたら、その後知らんぷりはできないものなのです。相談を受けた時点で責任の一端を負ってしまったことになります。効率を考える上でも精神衛生の上でも心掛けなければなりません。
当時、私はこのことにあまり気付いていなかったようです。いや、気付いていてもできなかったのです。そこに「一人で抱(かか)え込まざるを得ない」ことを残してしまう私がいました。「他人に任せ放しにはできない」今でも変わっていない私の人生観です。
カッコ良いことばかり言うつもりはありません。部下に仕事で指示・命令を出すとき私は決まって臆病でした。上司の命令に対して私は内心反感や反発を感じることが多かったのです。面従腹背でした。
部下も私と同じ感じ方をするものと思っていましたから、臆病にならざるを得なかったのです。度量が小さい男にありがちな、“ブーメラン報復(因果応報)”を恐れる小心男の姿です。この面でもやはり管理職失格ですね。
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ついで続きに社長についても触れておきます。元の会社は社長なしには語れないのです。
社長は創業家の3代目(実質的には2代目)で、オーナー社長でした。先代は町工場のような小さな会社を中堅企業まで育てた実質的創業者で、私が入社した年に39歳でその跡を継いだのです。
業界の常識から自由で、柵(しがらみ)が全くない奇抜な発想の持ち主でした。周りの反対を押し切って医療用医薬品(治療薬)の研究開発を提唱し、自ら音頭を取って研究所を新設し、新薬を創出し続けるまでに育て上げました。消費者商品についても、常識に囚われない商品(機能性飲料・食品)を世に出し爆発的人気を博しました。先代から受け継いだ経営手腕以上の天才的経営感覚だったと思います。
世の中には金の匂いに敏感な得体の知れない人物がいるものです。奇抜なことが好きなだけに、大風呂敷を広げる “大ホラ吹き” や “山師” が持ち込む事業話に騙されてはいました。この “人を見る目が無い” ことを除いたら社長の業績の素晴らしさに異を唱える人は誰もいませんでした。
人事権を始め会社の全権を握るオーナー社長ですから、社内には学閥などの一切の派閥は全くありませんでした。派閥にありがちな人間関係の柵(しがらみ)は全くなかったのです。
社員各々は昇進・昇格への近道として、いかにして社長一人に取入ることが出来るかが最大の関心事であり、社員同士の人間関係は単なる遊び仲間か足の引っ張り合いかぐらいが精々の単純な図式でした。
もちろん、幹部の中に社長に進言をする者はいても、諫言をする者は誰一人いませんでした。社長に異を唱えることは即ち退社を意味します。“刺違え”は有り得ません。上司・部下関係も、上司が社長に気に入られているのか否かが重要で、昇進・昇格への損得勘定が第一の乾いた人間関係でした。上司が異動でいなくなればなったで、そこま~で~よ♪のフランクな関係でした。
経営者にしてみれば効率の良い理想的な経営環境だったと思います。社長の指示・命令は絶対ですから・・・。しかし、従業員を使い捨てにするブラック企業のようでは決してありませんでした。信賞必罰が徹底していただけです。
このような社風の人生道場で培われた私の人間関係観は義理人情の薄い乾いたもののようです。深入りした人間関係で有りがちな義理人情で生じる葛藤や摩擦が苦手で、他人とは一定の距離を置いてきました。世の中で避けられない他人との付き合い方として丁度良いものだったと思っています。
会社在籍中は、生殺与奪を握る権力者という、低い天井のような重苦しい社長の存在に辟易していましたが、反面どろどろした社員同士の権力闘争には無縁で済んだことに感謝しています。
「困難に直面したとき、ブレーキではなくアクセルを踏め」
「絶対に諦めるな」
元の社長の口癖でした。自らに言い聞かせていたに違いないこれらの言葉が不思議に懐かしい。元の社長はつい先日(2014年11月28日)、社長就任時の30倍規模、1兆4千億円余の売上高(連結決算)の会社を遺し77歳の天寿を完うして鬼籍に入りました。(合掌)
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仕事にせよ学業にせよ、指導する場合の考えをまとめてみたつもりです。最善というものはないかもしれませんが、お手本となるものを示すことができれば、それに越したものはありません。それと、「なぜ」必要なのかに的確に応えることだと思っています。
ありがとうございました。