先日、NHKの番組『プロフェショナル 仕事の流儀』で、スゴ腕の保育士の仕事ぶりを放送していました。番組の主人公は野島千恵子氏という大阪のベテラン保育士で、主役は5~3歳の幼児たちでした。野島氏の保育はユニークで、幼児たちに一から十まで指図などしません。年長組の5歳児1人と年中・年少組の幼児たち数人で構成するグループ単位で保育しています。年長の5歳児にリーダーシップを執らせ、グループ内の年中・年少組の幼児たちにまとまった行動を執らせる保育です。これこそ自分で考えさせる教育の原点ではないかというのが番組のテーマでした。
野島氏は「人は人の中にあってこそ、人間として成長する」をモットーに、幼児たちの教育に当たっているそうです。正確な文言をメモしそびれてしまいましたが、趣旨としてはほぼ間違いありません。「人は、年長の人を見習い、自分で(行動の)好き嫌いを判断し、あるときは反発からケンカにもなる。そんなとき、自分の気持ちや考えを相手に伝えられるのは言葉でしかない。」これが幼児期にコミュニケーション能力を育もうとする野島氏の仕事の流儀です。
リーダーシップを任せられた年長の子は、それなりに苦労を味わうようです。自分から出した提案に、いつでもすべての子が従ってくれるわけではありません。年下の子の中には、自分の意にそぐわないと、反発から暴力に訴える場合もあるようです。暴力(ケンカ)は、年下の子がいきなり年長の子を打(ぶ)ったり蹴ったりで始まるようです。言葉による宣戦布告など、そこにはありません。いきなり暴力を受けた年長の子は、びっくりして泣き出します。ケンカになったときが野島氏の出番となります。まず、暴力をふるった子に、根気よく理由を言葉で説明するよう促します。そして最後には、言葉で謝らせるところまで持って行くのです。頭から教え込むばかりが教育ではない、目からウロコの思いでした。
暴力を受けた年長の子は、年下の相手の子が自分の意の儘にならない別の人格なのだと、否応なしに学ばざるを得ません。親子兄弟だけでいる日々なら、意識することのない他人との人間関係です。好き嫌いを判断する考え方や、行動の仕方から、それぞれに現れるのが人格です。幼児期に、人それぞれが互いに異なる人格の持ち主だと体得できることは、社会生活を送る上でとても貴重なことです。子供同士だけでやる集団の遊びが、人格の違いを体得する上で大切なことなのだと納得させられました。
就寝時刻が過ぎていたので、番組を最後まで見ることなく眠りに就いたのですが、二重の意味で “気づき” のあった番組でした。人格の違いなどというものは、生身の他人同士が身近に付き合い、ぶつかり合ってこそ体得できるものなのです。小説や映画などからも理屈では理解できるとしても、決して体得などできるものではないのです。さらに、幼少期の私の生い立ちと、結婚生活が破綻した因縁についてまでも、大いに気付かされました。
小学2年までの私はひどく病弱で、入退院を繰り返してばかりいました。子供同士が何人か集まって、息遣いが聞こえるぐらいの近さで共に遊んだことはあります。が、その機会はあまり多くはありませんでした。当然、子供同士それぞれの思惑がぶつかった末の、ケンカなどした思い出はありません。屋外で遊ばない分、専ら家の中で、プラモデルを作ったり、本や雑誌を読んだりして過ごしていました。小学3年以降も、こんな過ごし方にあまり変わりがなかったと思います。
こんな生い立ちを振り返ってみると、幼少期の私には、人格の違いを学ぶ絶好の機会が不足していたのだと思い当たりました。記憶力のよい幼少期の内に、知識を丸暗記させるぐらいの押し付け教育も必要ですが、ガキ大将を頭に集団で遊ぶのも、他人同士が付き合う術を学ぶ、絶好の場として欠かせないことなのです。“鉄は熱いうちに打て” 身につけるべき教育には、受けるべき最適の時期があることに気付かされました。
元々、別々の人格を持つ赤の他人同士が一緒になるのが結婚です。「本人(夫)は遊んでばかりのくせに、近所の買い物以外、気持ちよく一人で外出させてくれなかった」、「一人で外出したら、頻繁に連絡を入れないと機嫌が悪かった」、「実家への帰省にすら、文句タラタラだった」、「何かにつけて、頭ごなしに文句ばっかりだった」等々、結婚に破綻した女性たちからよく耳にする元夫への不満です。何かにつけ自由を束縛されていた女性たちの恨みが込められています。
私も元夫の方々と似たり寄ったりで、程度に差はあれ “同じ穴の狢” だったと思います。相手が異なる人格の持ち主などとは気にも止めず、自由を束縛しようとする欲求は、付き合い始めて間もない男女間ではよくある傾向です。しかも、その傾向は男性の方がより強いようです。しかし、そんな傾向はそのうち失せるのが普通で、長く続くようなら精神的に未熟な証というのが世間の相場です。(もしいつまでも長く続くようなら、明らかに病的異常です。)
彼女らの言葉で鮮やかに思い出されたことがあります。「私たち元々、真っ赤な赤の他人だったのよね!」夫婦間に隙間風が吹き始めた頃、妻から突き付けられた言葉です。さすがにハッとさせられました。妻が自分とは異なる人格の持ち主で、赤の他人などとはそれまで考えたこともなかったのです。恋愛という、美名を騙った性欲に目がくらみ、一心同体だとばかりに熱々のままに結婚。人格の異なる相手などということはウヤムヤにしたまま、日々の流れ任せに生活を共にしていたのです。恐らく上の言葉を口にする以前までは、妻も似たようなものだったのかもしれません。
人格が異なる他人との付き合いでは、適当な距離感(間合い)を取るのが大人です。人格の違いを弁えず、適当な間合いが取れないようでは、大人としては未熟な証です。少なくとも私は、ガワ(外見)だけ大人に見えて、頭の中は幼児のままの未熟な大人だったようです。他人と適当な間合いが取れない未熟さから、自分本位の考えを修正できず、つい万事思い通りに成るものという考えに囚われていたのだと思います。そんな考えでは、世の中でうまく行くわけがありません。自分の思い通りにならないなら、その不平不満を酒で紛らわす。こんな悪循環から家庭崩壊へと辿ってしまったのだと思えてなりません。
「いいか、結婚する相手は、自分とは異なる人格の人だということを忘れるな。」
つい最近、FBか何かで偶然目に止まった言葉です。このことを弁えていなかったばっかりに、結婚生活では苦い経験をしてしまいました。「結婚生活は生き残りを賭けた戦いだ」より、よっぽど為になる言葉です。単なる心構えではなく、まだゝゞ未熟さを残す息子への、父親からの実践的な人生訓です。
野島氏の保育所(園)では、年が変わるごとに、それまで年下だった子がグループリーダーを引き継ぎ、異なる人格の間でリーダーシップを学ぶ伝統を繋いで行くのでしょう。赤の他人同士が、人付き合いの “いろは” を学ぶ立派な人生道場です。それと同じように、結婚を間近に控えた息子が引き継ぐべき、父親からの言葉もあっていいはずです。「(結婚する)相手は、自分とは異なる人格の人だ・・・」は、父から息子に引き継ぐに相応しい言葉です。結婚生活を長続きさせる一家の秘伝となるはずです。息子には言いそびれてしまいましたが、孫には将来、直接私の口から伝えたいと思っています。それまで長生きできればの話ですが、・・・。
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野島氏は「人は人の中にあってこそ、人間として成長する」をモットーに、幼児たちの教育に当たっているそうです。正確な文言をメモしそびれてしまいましたが、趣旨としてはほぼ間違いありません。「人は、年長の人を見習い、自分で(行動の)好き嫌いを判断し、あるときは反発からケンカにもなる。そんなとき、自分の気持ちや考えを相手に伝えられるのは言葉でしかない。」これが幼児期にコミュニケーション能力を育もうとする野島氏の仕事の流儀です。
リーダーシップを任せられた年長の子は、それなりに苦労を味わうようです。自分から出した提案に、いつでもすべての子が従ってくれるわけではありません。年下の子の中には、自分の意にそぐわないと、反発から暴力に訴える場合もあるようです。暴力(ケンカ)は、年下の子がいきなり年長の子を打(ぶ)ったり蹴ったりで始まるようです。言葉による宣戦布告など、そこにはありません。いきなり暴力を受けた年長の子は、びっくりして泣き出します。ケンカになったときが野島氏の出番となります。まず、暴力をふるった子に、根気よく理由を言葉で説明するよう促します。そして最後には、言葉で謝らせるところまで持って行くのです。頭から教え込むばかりが教育ではない、目からウロコの思いでした。
暴力を受けた年長の子は、年下の相手の子が自分の意の儘にならない別の人格なのだと、否応なしに学ばざるを得ません。親子兄弟だけでいる日々なら、意識することのない他人との人間関係です。好き嫌いを判断する考え方や、行動の仕方から、それぞれに現れるのが人格です。幼児期に、人それぞれが互いに異なる人格の持ち主だと体得できることは、社会生活を送る上でとても貴重なことです。子供同士だけでやる集団の遊びが、人格の違いを体得する上で大切なことなのだと納得させられました。
就寝時刻が過ぎていたので、番組を最後まで見ることなく眠りに就いたのですが、二重の意味で “気づき” のあった番組でした。人格の違いなどというものは、生身の他人同士が身近に付き合い、ぶつかり合ってこそ体得できるものなのです。小説や映画などからも理屈では理解できるとしても、決して体得などできるものではないのです。さらに、幼少期の私の生い立ちと、結婚生活が破綻した因縁についてまでも、大いに気付かされました。
小学2年までの私はひどく病弱で、入退院を繰り返してばかりいました。子供同士が何人か集まって、息遣いが聞こえるぐらいの近さで共に遊んだことはあります。が、その機会はあまり多くはありませんでした。当然、子供同士それぞれの思惑がぶつかった末の、ケンカなどした思い出はありません。屋外で遊ばない分、専ら家の中で、プラモデルを作ったり、本や雑誌を読んだりして過ごしていました。小学3年以降も、こんな過ごし方にあまり変わりがなかったと思います。
こんな生い立ちを振り返ってみると、幼少期の私には、人格の違いを学ぶ絶好の機会が不足していたのだと思い当たりました。記憶力のよい幼少期の内に、知識を丸暗記させるぐらいの押し付け教育も必要ですが、ガキ大将を頭に集団で遊ぶのも、他人同士が付き合う術を学ぶ、絶好の場として欠かせないことなのです。“鉄は熱いうちに打て” 身につけるべき教育には、受けるべき最適の時期があることに気付かされました。
元々、別々の人格を持つ赤の他人同士が一緒になるのが結婚です。「本人(夫)は遊んでばかりのくせに、近所の買い物以外、気持ちよく一人で外出させてくれなかった」、「一人で外出したら、頻繁に連絡を入れないと機嫌が悪かった」、「実家への帰省にすら、文句タラタラだった」、「何かにつけて、頭ごなしに文句ばっかりだった」等々、結婚に破綻した女性たちからよく耳にする元夫への不満です。何かにつけ自由を束縛されていた女性たちの恨みが込められています。
私も元夫の方々と似たり寄ったりで、程度に差はあれ “同じ穴の狢” だったと思います。相手が異なる人格の持ち主などとは気にも止めず、自由を束縛しようとする欲求は、付き合い始めて間もない男女間ではよくある傾向です。しかも、その傾向は男性の方がより強いようです。しかし、そんな傾向はそのうち失せるのが普通で、長く続くようなら精神的に未熟な証というのが世間の相場です。(もしいつまでも長く続くようなら、明らかに病的異常です。)
彼女らの言葉で鮮やかに思い出されたことがあります。「私たち元々、真っ赤な赤の他人だったのよね!」夫婦間に隙間風が吹き始めた頃、妻から突き付けられた言葉です。さすがにハッとさせられました。妻が自分とは異なる人格の持ち主で、赤の他人などとはそれまで考えたこともなかったのです。恋愛という、美名を騙った性欲に目がくらみ、一心同体だとばかりに熱々のままに結婚。人格の異なる相手などということはウヤムヤにしたまま、日々の流れ任せに生活を共にしていたのです。恐らく上の言葉を口にする以前までは、妻も似たようなものだったのかもしれません。
人格が異なる他人との付き合いでは、適当な距離感(間合い)を取るのが大人です。人格の違いを弁えず、適当な間合いが取れないようでは、大人としては未熟な証です。少なくとも私は、ガワ(外見)だけ大人に見えて、頭の中は幼児のままの未熟な大人だったようです。他人と適当な間合いが取れない未熟さから、自分本位の考えを修正できず、つい万事思い通りに成るものという考えに囚われていたのだと思います。そんな考えでは、世の中でうまく行くわけがありません。自分の思い通りにならないなら、その不平不満を酒で紛らわす。こんな悪循環から家庭崩壊へと辿ってしまったのだと思えてなりません。
「いいか、結婚する相手は、自分とは異なる人格の人だということを忘れるな。」
つい最近、FBか何かで偶然目に止まった言葉です。このことを弁えていなかったばっかりに、結婚生活では苦い経験をしてしまいました。「結婚生活は生き残りを賭けた戦いだ」より、よっぽど為になる言葉です。単なる心構えではなく、まだゝゞ未熟さを残す息子への、父親からの実践的な人生訓です。
野島氏の保育所(園)では、年が変わるごとに、それまで年下だった子がグループリーダーを引き継ぎ、異なる人格の間でリーダーシップを学ぶ伝統を繋いで行くのでしょう。赤の他人同士が、人付き合いの “いろは” を学ぶ立派な人生道場です。それと同じように、結婚を間近に控えた息子が引き継ぐべき、父親からの言葉もあっていいはずです。「(結婚する)相手は、自分とは異なる人格の人だ・・・」は、父から息子に引き継ぐに相応しい言葉です。結婚生活を長続きさせる一家の秘伝となるはずです。息子には言いそびれてしまいましたが、孫には将来、直接私の口から伝えたいと思っています。それまで長生きできればの話ですが、・・・。
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そそそこ自分に合っている職場なら、
続けられるだけ続けたらいいと思いますよ。
離婚の理由として、世間でよく聞かれる“性格の不一致”。
これなどは「人格の違いを弁えていなかった」と、
未熟さを告白しているようなものだと思っています。
元々、相手は自分の意の儘にならない人格の持ち主なのですから、
その前提を全部呑んだ上で結んだ契約が結婚なんですよね。
NHKの“クロ現”は、いい意味で脱皮していました。
重い意味を含んだいい番組でした。