あるときAAの古参の仲間から、「生きづらさ」がAAの『回復のプログラム』ステップ 1に当たる言葉であって、依存症特有の病的な衝動に駆られて自制不能な状態のことだと教わりました。「生きづらさ」漢字を当てはめるとしたら「生き辛さ」になるのでしょうか。自助会AAのミーティングでよく取り上げられるテーマの一つです。AAのミーティングに参加したての頃は、この言葉の意味があまりピンときませんでした。
「・・・づらい」となっている言葉でよく使われるものに「動きづらい」「使いづらい」などがあります。「(うまく)・・・しにくい」「・・・するのに不自由(を感じる)」と同義でしょうか。「生きづらい」が、「生きて行くのが辛い」あるいは「生きにくい」であれば、それは自明の理で、「生きている以上は、(生きるのに)苦労が伴うのは当たり前」としか考えていませんでした。ですから、「日常生活に、とかく不自由を感じる」ぐらいの意味にしか思っていなかったのです。
AAの『回復のプログラム』ステップ 1にはこうあります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」
(下線、筆者;原文では、our lives had become unmanageable)
当初は、 思い通り=自分本位 と解釈し、自分本位の意なら、上で述べたように自明の理ではないかと思い込んでいました。「思い通りに・・・いけなくなっていた」が「どうにもならなくなった」の意とは分からなかったのです。言葉は決して一義的ではなく、解釈も様々と思い知らされました。改めて読み返してみて、どうやら修飾語の “どうにもならない” の方が主眼だと気づきました。
単に、身体が「飲まないでは(やって)いられない」体たらく、退職後に陥ったアルコール依存症末期の状態はまさにこんなふうだったと思います。連続飲酒状態でアルコールが体内を絶え間なく回っていたこともあって、逆説的ですが、“どうにもならない” 精神状態に追い詰められているとはあまり自覚していませんでした。酒を買ってきてはチビチビ飲むのを繰り返してさえいれば、それだけで精神的には癒されていたのです。当時、酒を切らしたことはありません。寝覚めにいつも感じていた身体の不調も、飲み始めさえすればアルコールの麻酔作用で紛れていたのだと思います。
ただ、専門クリニックを受診せざるを得なくなった最末期・断酒直前の1ヵ月は、さすがにちょっと違いました。朝布団から立ち上がるのに相当難義していましたし、着替えの際にボタン嵌めがうまく出来ないとか、便意を催すやいなや堪えきれなくなって粗相してしまう始末でした。ブラックアウトの繰り返しから記憶も斑(まだら)状態で、突然の失神・転倒にも襲われていました。もはや介護なしでは “どうにもならない” ほど身体がいうことをきかなくなっていたのです。私は、この時期が “身体的な底着き” だったと考えています。
専門クリニックにかかり急性期の離脱症状を手当てしてもらった後、ほぼ自力で酒を断たねばならなくなっても、“どうにもならない” という心境ではなかったと思います。断酒直前・直後の過酷な末期症状に懲りたことと抗酒剤の脅しが十分に効いて、飲んだら今度こそ死ぬという恐怖感に駆られていました。そのためイライラすることはあっても、あからさまな飲酒欲求は湧いて来なかったのだと思います。
「何としても断酒を続けなければいけない!」「また飲んだらどうしよう?! 飲まずにいなければいけない!」などと怯えてばかりいたのですが、見方を変えれば、この怯えこそがアルコールに囚われていた立派な証でもあるのです。私はこの強迫的な心理状態を「・・・なければならない病」と呼んでいます。いずれにしても、この程度のことでは “どうにもならない” 生きづらさの渦中で踠(もが)いていたとはとても言えません。
ところがその一方で、断酒中に性的妄想に駆られAV動画に耽っていた時期があり、その時期こそここで言うところの “どうにもならない” 生きづらさの事例だと思います。
― PCをログオンしたら、AV動画サイトに真っしぐら
― ひとつの作品を観終えたら、画面の誘導通りに次の作品へ
これが自室にこもってAV動画に耽っていた時期の状態でした。明らかにクロス・アディクション(cross‐addiction:多重嗜癖)そのものです。断酒を始めて5ヵ月目ぐらいから顕著になりました。「やってはいけない」そんな思い(意志)も虚しく、機械的・自動的にやらされている “どうにもならない” 状態でした。身体的にはすっかり回復していたので、精神的な辛さは一際でした。
私を駆り立てていたのは単なる性欲ではありません。かつても同様の経験が何度かあり、煽られるまま実際にSexをやってみましたが、それで満たされたり癒されたりしたことはなかったのです。ですから単なる性欲でないことは実証済みです。
迫りくる危機から目を背けていたいという潜在意識が仕向けるものらしく、シェルター(shelter )へ逃避させようとする本能的な情念とでもいうのでしょうか。シェルターに相当するのが実態不詳の性的モヤモヤ(妄想)であり、それに向かわせるのも性的衝動としかいいようがありません。今やっちゃいけないと理性が阻もうとすると、一層燃え上がるのです。天邪鬼というか、へそ曲がりというか、とにかく理性に刃向う御しがたい情念でした。私はこれを “性的妄想” と呼んでいます。
この “性的妄想” は、私にだけ負わされた宿命なのか(?)とかつては訝っていました。振り返ってみると、どうやら精神的に窮地に立たされたときに限って憑りつくもののようです。もう後のない大学浪人2年目、担当化合物の新薬承認の成否を決める検証試験の佳境時、継続断酒の成否が掛るPAWS(ドライドランクなど)の好発時期、これらはいずれも私が “性的妄想” に憑りつかれた時期です。現実を直視し続けるのが怖く、無意識の内にシェルターに逃げ込もうとしたのだと思います。
この “性的妄想” が抜けたのは断酒して10ヵ月後のことです。まさに “憑き物が落ちた” という表現がピッタリの体験でした。AV動画に嵌り “どうにもならなく” なった挙句、最後の頃の作品20本以上は途中で画像を停めては再生を繰り返し、その仔細を叙述し続けていた結果でした。実に神秘的で不思議な出来事でした。
叙述という行為は、認知行動療法でいう “言語化” に当るそうですが、“憑き物が落ちた” のは “言語化” が効いた成果だと考えています。同時にアルコールの後遺症(脳のシビレ感)も消え、やっとアルコールが抜けてくれたと実感できました。このことから、アルコールの毒性は酒を断った後も相当長く続くものと思い知らされました。この “憑き物が落ちた” ときを私は “精神的な底着き” と考えています。
思い起こしてみると、精神的なピンチが近づくにつれ、決まってアルコールに頼り、その酔いでストレスを紛らわすのが習い性になっていました。それが重大な危機であれば、なおさら頼り切っていたのです。アルコールには理性を麻痺させる作用があります。窮地から逃避しようとする本能を “性的妄想” にまで増幅させたのは、このアルコールの作用だったのだろうと思えて仕方ありません。
「“性的妄想” の黒幕はアルコール」、これが私の立てた仮説です。“憑き物が落ちた” 体験をした後、幸いなことにこれまで危機的ピンチに見舞われたことはありません。酒を飲まないで普通に過ごせるようになった今、この仮説の実証を強いられる機会など二度と来ないでほしいと願うのみです。
**********************************************************************************
いかがでしょう? “どうにもならない” という言葉の含意が、病的な衝動に駆られ自制不能状態を意味しているのが分ってもらえたでしょうか?
人によっては衝動の矛先が性的なものではなく、賭け事や自殺企図・希死念慮、果ては他害や、破壊行動などの例も十分あり得ることと思っています。自傷行為や無差別な通り魔的傷害・殺人、爆発物造りなどは、この “どうにもならない” 衝動が誘因なのかもしれません。警察沙汰で明るみに出るのは氷山の一角だろうと考えています。
もうお気づきのように、 “どうにもならない” は「強迫的な思考 ― 行動パターン」に苛まれている状態のことで、心の奥に潜む自己防衛本能と深い関係がありそうです。たとえ意にそぐわないことでも、どうしてもつい人に迎合してしまう癖も含まれるそうです。意外にその裾野は広そうですね。
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AAの『回復のプログラム』ステップ 1にはこうあります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」
(下線、筆者;原文では、our lives had become unmanageable)
当初は、 思い通り=自分本位 と解釈し、自分本位の意なら、上で述べたように自明の理ではないかと思い込んでいました。「思い通りに・・・いけなくなっていた」が「どうにもならなくなった」の意とは分からなかったのです。言葉は決して一義的ではなく、解釈も様々と思い知らされました。改めて読み返してみて、どうやら修飾語の “どうにもならない” の方が主眼だと気づきました。
単に、身体が「飲まないでは(やって)いられない」体たらく、退職後に陥ったアルコール依存症末期の状態はまさにこんなふうだったと思います。連続飲酒状態でアルコールが体内を絶え間なく回っていたこともあって、逆説的ですが、“どうにもならない” 精神状態に追い詰められているとはあまり自覚していませんでした。酒を買ってきてはチビチビ飲むのを繰り返してさえいれば、それだけで精神的には癒されていたのです。当時、酒を切らしたことはありません。寝覚めにいつも感じていた身体の不調も、飲み始めさえすればアルコールの麻酔作用で紛れていたのだと思います。
ただ、専門クリニックを受診せざるを得なくなった最末期・断酒直前の1ヵ月は、さすがにちょっと違いました。朝布団から立ち上がるのに相当難義していましたし、着替えの際にボタン嵌めがうまく出来ないとか、便意を催すやいなや堪えきれなくなって粗相してしまう始末でした。ブラックアウトの繰り返しから記憶も斑(まだら)状態で、突然の失神・転倒にも襲われていました。もはや介護なしでは “どうにもならない” ほど身体がいうことをきかなくなっていたのです。私は、この時期が “身体的な底着き” だったと考えています。
専門クリニックにかかり急性期の離脱症状を手当てしてもらった後、ほぼ自力で酒を断たねばならなくなっても、“どうにもならない” という心境ではなかったと思います。断酒直前・直後の過酷な末期症状に懲りたことと抗酒剤の脅しが十分に効いて、飲んだら今度こそ死ぬという恐怖感に駆られていました。そのためイライラすることはあっても、あからさまな飲酒欲求は湧いて来なかったのだと思います。
「何としても断酒を続けなければいけない!」「また飲んだらどうしよう?! 飲まずにいなければいけない!」などと怯えてばかりいたのですが、見方を変えれば、この怯えこそがアルコールに囚われていた立派な証でもあるのです。私はこの強迫的な心理状態を「・・・なければならない病」と呼んでいます。いずれにしても、この程度のことでは “どうにもならない” 生きづらさの渦中で踠(もが)いていたとはとても言えません。
ところがその一方で、断酒中に性的妄想に駆られAV動画に耽っていた時期があり、その時期こそここで言うところの “どうにもならない” 生きづらさの事例だと思います。
― PCをログオンしたら、AV動画サイトに真っしぐら
― ひとつの作品を観終えたら、画面の誘導通りに次の作品へ
これが自室にこもってAV動画に耽っていた時期の状態でした。明らかにクロス・アディクション(cross‐addiction:多重嗜癖)そのものです。断酒を始めて5ヵ月目ぐらいから顕著になりました。「やってはいけない」そんな思い(意志)も虚しく、機械的・自動的にやらされている “どうにもならない” 状態でした。身体的にはすっかり回復していたので、精神的な辛さは一際でした。
私を駆り立てていたのは単なる性欲ではありません。かつても同様の経験が何度かあり、煽られるまま実際にSexをやってみましたが、それで満たされたり癒されたりしたことはなかったのです。ですから単なる性欲でないことは実証済みです。
迫りくる危機から目を背けていたいという潜在意識が仕向けるものらしく、シェルター(shelter )へ逃避させようとする本能的な情念とでもいうのでしょうか。シェルターに相当するのが実態不詳の性的モヤモヤ(妄想)であり、それに向かわせるのも性的衝動としかいいようがありません。今やっちゃいけないと理性が阻もうとすると、一層燃え上がるのです。天邪鬼というか、へそ曲がりというか、とにかく理性に刃向う御しがたい情念でした。私はこれを “性的妄想” と呼んでいます。
この “性的妄想” は、私にだけ負わされた宿命なのか(?)とかつては訝っていました。振り返ってみると、どうやら精神的に窮地に立たされたときに限って憑りつくもののようです。もう後のない大学浪人2年目、担当化合物の新薬承認の成否を決める検証試験の佳境時、継続断酒の成否が掛るPAWS(ドライドランクなど)の好発時期、これらはいずれも私が “性的妄想” に憑りつかれた時期です。現実を直視し続けるのが怖く、無意識の内にシェルターに逃げ込もうとしたのだと思います。
この “性的妄想” が抜けたのは断酒して10ヵ月後のことです。まさに “憑き物が落ちた” という表現がピッタリの体験でした。AV動画に嵌り “どうにもならなく” なった挙句、最後の頃の作品20本以上は途中で画像を停めては再生を繰り返し、その仔細を叙述し続けていた結果でした。実に神秘的で不思議な出来事でした。
叙述という行為は、認知行動療法でいう “言語化” に当るそうですが、“憑き物が落ちた” のは “言語化” が効いた成果だと考えています。同時にアルコールの後遺症(脳のシビレ感)も消え、やっとアルコールが抜けてくれたと実感できました。このことから、アルコールの毒性は酒を断った後も相当長く続くものと思い知らされました。この “憑き物が落ちた” ときを私は “精神的な底着き” と考えています。
思い起こしてみると、精神的なピンチが近づくにつれ、決まってアルコールに頼り、その酔いでストレスを紛らわすのが習い性になっていました。それが重大な危機であれば、なおさら頼り切っていたのです。アルコールには理性を麻痺させる作用があります。窮地から逃避しようとする本能を “性的妄想” にまで増幅させたのは、このアルコールの作用だったのだろうと思えて仕方ありません。
「“性的妄想” の黒幕はアルコール」、これが私の立てた仮説です。“憑き物が落ちた” 体験をした後、幸いなことにこれまで危機的ピンチに見舞われたことはありません。酒を飲まないで普通に過ごせるようになった今、この仮説の実証を強いられる機会など二度と来ないでほしいと願うのみです。
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人によっては衝動の矛先が性的なものではなく、賭け事や自殺企図・希死念慮、果ては他害や、破壊行動などの例も十分あり得ることと思っています。自傷行為や無差別な通り魔的傷害・殺人、爆発物造りなどは、この “どうにもならない” 衝動が誘因なのかもしれません。警察沙汰で明るみに出るのは氷山の一角だろうと考えています。
もうお気づきのように、 “どうにもならない” は「強迫的な思考 ― 行動パターン」に苛まれている状態のことで、心の奥に潜む自己防衛本能と深い関係がありそうです。たとえ意にそぐわないことでも、どうしてもつい人に迎合してしまう癖も含まれるそうです。意外にその裾野は広そうですね。
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いつも、ご心配をくださり
ありがとうございます。
改めてブログ記事を読んでいます。
専門的なところは読み飛ばしですが、全体的にはとても貴重な体験談です。
私は、奥様がどんなふうに感じていらしたのか?知りたいです。
諦めきれず
諦めて
しかし、望みを断ち切ることをしてこなかった
長年にわたる生活
夫の変化
喜び
安心しきれない不安
でも
人って凄い
夫が体現している
そんな気持ち知りたいですが
それは
どこかで、出会えることかも知れません
ありがとうございます
あなたが専門病院のご紹介をして下ったけれど、そちらへ伺うのもいい方法かもと思えるようになりました。
風邪をひいたら早めに病院にかかれば、早く治るように
あとは、わが夫がどんな風に感じるか?決断するかですね
今かかっている内科の先生に相談してみようかなと思いました。
アルコール問題でもっとも厄介な点は、
本人がお酒を甘く見がちだということです。
酒飲みは皆、根拠もないのに何とかなると思っています。
アル症と診断が下っても、大抵は再飲酒で入退院を繰り返し、
その都度、病状が悪化して行きます。
その果てに“もうどうにもならなくなった”という心境になり、
やっと、本気で断酒に取り組むことになる。
これがアル症の進行プロセスです。
アル症は普通の病気ではありません。
家族が心配して気をもんでもうまくいきません。
“成るようにしか成らない”と気長に見るのか、
思い切って見放すのか、
選択の自由は家族の手の内にあると、
考えるゆとりを見失わないことです。
私の場合、単なる同居人状態でしたし、
最後には家族から見放されたことで
良い結果となったと思っています。