生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

絵空事を描く

2010年03月20日 15時20分32秒 | 美術/絵画
2010年3月20日-1
絵空事を描く

 絵空事を辞書で見ると、
  「(絵には美化や誇張が加わって、実際とは違っている意から)大げさで現実にはあり得ないこと。誇張した表現。」(大辞泉)
とある。英訳では、castles in the airとある。砂上の楼閣である。絵空事というのは、大げさだからという理由があって、現実にはあり得ないと言っている。砂上の楼閣に、そのような含意はあるだろうか。

 しかし、実際とは違っていない絵はあるだろうか? これもどの程度の精確さで判定するかということにもなる。個々の絵について、比較の対象となる、つまり参照先となる現実とは存在するのだろうか?(むろん、この世界は実在すると仮定してだが。) さらに、存在するとして、一意に決まるのだろうか? 現実とは移ろうものだから,(たとえば印象派のように、)いっときの見えを、客観的にあるいは主観的に、絵にするという考え方はあるだろう。
 短気を発動して、それら一切のややこしいこと、つまりこの現実というものをいっぱひとからげに包括するか、捨て置く、それが賢明であると考えよう。
 すると、現実の形象のいろいろを省略するとか、単純化するとかをしないで、まったく新奇な世界を創造する(ここでは絵画製作する)となる。
 その先は、おおざっぱには、二つか三つの方針があるだろう。

存在と生成 beness: being and becoming

2010年03月20日 15時12分04秒 | 生命生物生活哲学
2010年3月20日-2
存在と生成 beness: being and becoming
 (世界を素朴に観測すると……)
  a. 万物流転。ゆえに、生死流転。

 もし、(観測者の存在と生成を棚上げして、わたしという意識が知覚する)この世界はどうも現象であって、現象をもたらすものとして法則性とかメカニズムといったものが考えられるのではないか(という仮説。ただし必要条件としてであって、或る現象をもたらす十分条件であるとは仮定しない)、と考えると、ただちに存在論的な(ではなく、存在的onticじゃないの?と尋ねる人がいるかもしれないが、後述)問題が持ち上がる。すなわち、
  b. 法則性はどこに存在するのか? この(現象の)世界に実在するのか?

 われわれの頭のなかにあるのは、たとえば法則が定式化された表現体である。確かにそれは、我々の頭のなかにある。他の人とそれをやりとりできるのは、(なんらかの表現媒体をなんらかの通信手段によって伝送して)それが存在する位置が移動することができるからである。もし、法則がこの世界に実在するならば、それは不可能であると考えるならば、それは構築体を物として考えている。もちろん、さしあたって或ることを仮定し、実在するかどうかは試験するだけだという立場はあり得るし、新しい発見はそのようにしてなされる場合がある。
 また脱線。関連して検討することが多すぎる。

  b2.