2010年3月20日-1
絵空事を描く
絵空事を辞書で見ると、
「(絵には美化や誇張が加わって、実際とは違っている意から)大げさで現実にはあり得ないこと。誇張した表現。」(大辞泉)
とある。英訳では、castles in the airとある。砂上の楼閣である。絵空事というのは、大げさだからという理由があって、現実にはあり得ないと言っている。砂上の楼閣に、そのような含意はあるだろうか。
しかし、実際とは違っていない絵はあるだろうか? これもどの程度の精確さで判定するかということにもなる。個々の絵について、比較の対象となる、つまり参照先となる現実とは存在するのだろうか?(むろん、この世界は実在すると仮定してだが。) さらに、存在するとして、一意に決まるのだろうか? 現実とは移ろうものだから,(たとえば印象派のように、)いっときの見えを、客観的にあるいは主観的に、絵にするという考え方はあるだろう。
短気を発動して、それら一切のややこしいこと、つまりこの現実というものをいっぱひとからげに包括するか、捨て置く、それが賢明であると考えよう。
すると、現実の形象のいろいろを省略するとか、単純化するとかをしないで、まったく新奇な世界を創造する(ここでは絵画製作する)となる。
その先は、おおざっぱには、二つか三つの方針があるだろう。
絵空事を描く
絵空事を辞書で見ると、
「(絵には美化や誇張が加わって、実際とは違っている意から)大げさで現実にはあり得ないこと。誇張した表現。」(大辞泉)
とある。英訳では、castles in the airとある。砂上の楼閣である。絵空事というのは、大げさだからという理由があって、現実にはあり得ないと言っている。砂上の楼閣に、そのような含意はあるだろうか。
しかし、実際とは違っていない絵はあるだろうか? これもどの程度の精確さで判定するかということにもなる。個々の絵について、比較の対象となる、つまり参照先となる現実とは存在するのだろうか?(むろん、この世界は実在すると仮定してだが。) さらに、存在するとして、一意に決まるのだろうか? 現実とは移ろうものだから,(たとえば印象派のように、)いっときの見えを、客観的にあるいは主観的に、絵にするという考え方はあるだろう。
短気を発動して、それら一切のややこしいこと、つまりこの現実というものをいっぱひとからげに包括するか、捨て置く、それが賢明であると考えよう。
すると、現実の形象のいろいろを省略するとか、単純化するとかをしないで、まったく新奇な世界を創造する(ここでは絵画製作する)となる。
その先は、おおざっぱには、二つか三つの方針があるだろう。