2010年3月22日-9
絵画の翻訳または解読
英語で書かれた詩や小説は、日本語に翻訳される。
外国で製作された絵画が、日本語に翻訳されるということはない。器楽音楽の楽譜も、翻訳されることはない。楽譜を経由せず、演奏を聞き取って、同様の音列を演奏できる人もいるだろう。
具象絵画では、或る絵具配置をなんらかの実在物と対応させて、あたかも、たとえば人がいすに座っている景色だとみなす。このとき、同定をするという認識作用が働いている。さらに、人は過去に経験した過去の或る感情を想起してしまうかもしれない。さらに、絵具の配置から識別できる筆跡から、動きを感じ取るかもしれない。など、など。鑑賞するということは、主体的に働きかける、あるいは読み取る、あるいは解釈するということになる。これは鑑賞者が行なう翻訳なのだと考えてもよい。そうすると、記号に置き換えているのだ。「この絵は、近くに小川が流れる谷の農村の爽やかな景色を描いている」として、わかった気になる。
しかし、伝達すること、あるいは作者が表現しようと考えたことを言い当てるのが重要なのか。絵画において重要なのは、理解することや解読することではないと考えてもよい。
詩においても、入沢康夫が『詩の構造についての覚え書』で昔に言ったように、詩は伝達ではない。
抽象絵画
そうではなく、絵画は絵具による形と色の配置なのだから、形と色の配置そのものによるものが、絵画の独自的効果であると考えるのは、定義から導ける論理的な考えである。この場合は、どんな形と色をもつ要素を選び、その要素自身の(人への、あるいは人が受け取る)効果(ただしこの効果は要素だけでは決まらず、地と近隣環境となっている要素にも関係する)と要素の配置が問題になる。
ただし、要素といったものが認定できない、いわば連続的な作品もある。たとえば全面青色である。これは画面全体が一つの要素とみなせないこともない。あるいは、画面全体が、一つの要素の一部である。
やっかいなのは、濃淡があり、かつ連続的に変異する場合である(たとえば鈴木悠高のYellowの作品)。これは、格子を人為的に定めて分析することになるだろう。なお、鈴木悠高の最近の作品では、数秒見た場合全体がほんの少しの差異の連続的変異と見えるが、数分間見ていると当方の暗順反応のためか、あちこちの模様がはっきりしてくる。つまり、コントラスト(明度と色彩などの差異)が上がる(ように見えてくる)。
絵画の翻訳または解読
英語で書かれた詩や小説は、日本語に翻訳される。
外国で製作された絵画が、日本語に翻訳されるということはない。器楽音楽の楽譜も、翻訳されることはない。楽譜を経由せず、演奏を聞き取って、同様の音列を演奏できる人もいるだろう。
具象絵画では、或る絵具配置をなんらかの実在物と対応させて、あたかも、たとえば人がいすに座っている景色だとみなす。このとき、同定をするという認識作用が働いている。さらに、人は過去に経験した過去の或る感情を想起してしまうかもしれない。さらに、絵具の配置から識別できる筆跡から、動きを感じ取るかもしれない。など、など。鑑賞するということは、主体的に働きかける、あるいは読み取る、あるいは解釈するということになる。これは鑑賞者が行なう翻訳なのだと考えてもよい。そうすると、記号に置き換えているのだ。「この絵は、近くに小川が流れる谷の農村の爽やかな景色を描いている」として、わかった気になる。
しかし、伝達すること、あるいは作者が表現しようと考えたことを言い当てるのが重要なのか。絵画において重要なのは、理解することや解読することではないと考えてもよい。
詩においても、入沢康夫が『詩の構造についての覚え書』で昔に言ったように、詩は伝達ではない。
抽象絵画
そうではなく、絵画は絵具による形と色の配置なのだから、形と色の配置そのものによるものが、絵画の独自的効果であると考えるのは、定義から導ける論理的な考えである。この場合は、どんな形と色をもつ要素を選び、その要素自身の(人への、あるいは人が受け取る)効果(ただしこの効果は要素だけでは決まらず、地と近隣環境となっている要素にも関係する)と要素の配置が問題になる。
ただし、要素といったものが認定できない、いわば連続的な作品もある。たとえば全面青色である。これは画面全体が一つの要素とみなせないこともない。あるいは、画面全体が、一つの要素の一部である。
やっかいなのは、濃淡があり、かつ連続的に変異する場合である(たとえば鈴木悠高のYellowの作品)。これは、格子を人為的に定めて分析することになるだろう。なお、鈴木悠高の最近の作品では、数秒見た場合全体がほんの少しの差異の連続的変異と見えるが、数分間見ていると当方の暗順反応のためか、あちこちの模様がはっきりしてくる。つまり、コントラスト(明度と色彩などの差異)が上がる(ように見えてくる)。