生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

絵画の脳科学的分類

2010年03月24日 23時46分58秒 | 美術/絵画
2010年3月24日-4
絵画の脳科学的分類

 岩田(1997: 127-168)は「脳から見た絵画の進化と視覚的思考」と題した章で、絵画について、いわば脳科学的な分類をしている。(進化? →変化、または変遷)
 歴史的変遷を見ると、
  ・不可視的画題(神話、伝説、宗教)から可視的画題(人物、風景)へ。
  ・これら網膜絵画から脳の絵画へ。
と捉えられると提起した。
 この章を私流に概括し、興味深いところをいくつか引用すると次の通り。

*** 概括はじめ

 1. 心象絵画 mind painting
   不可視的画題(神話、伝説、宗教)。
   直接的に3次元モデルを描く。
   大きさや位置関係は、対象の存在意義とか心理的・社会的関係で定まる。
   日本画は心象絵画の技法。特に色彩を用いない墨絵。可視的画題を描く花鳥図や草木図も、心象にもとづいて描いたものが多い(例:若冲「松に鶴図」)。

 2. 網膜絵画(ルネサンス以降19世紀末まで)
   可視的画題 retinal painting)。
   2.5次元スケッチを描く。
   画家自身が座標系の中心(視点固定)。
   技法は、〔透視図法〕遠近法と陰影)。
    a. 視線非固定型:視線を変化させて、視覚対象すべてを注視する→画面中心部と近辺縁部、近景と遠景は細密度で描かれる。
    b. 視線固定型:画面中心部と周辺部の扱いは異なる。網膜の光感受特性に対応する(視野周辺部は暗くて朦朧として色彩が無い視覚世界)。
     例:レンブラント。ただし混合型の絵も得意とした。

 3. 脳の絵画(神経機構に分解された脳内処理画像)
  3.1. 色彩モジュール絵画
    色彩モジュールを強調して描く。
     例:ルノアールの描画法は、色彩認知の仕組みを再現。色彩モジュールだけを強調したのは、スーラの点描法。スーラの点描法での最小の点は、直径約1mm。網膜中心窩での最高視力2.0は、視角で0.008度なので、カンヴァス上で識別できる限界距離は、3.4m。これよりも遠くに離れると、並置した色彩は混合する。

  3.2. 運動視モジュール絵画
    運動視モジュールを強調して描く。
    ゼキは、「レヴィアントの描く「謎」という絵画を見ているときの大脳皮質活動をPETスキャンを用いて解析し、運動視モジュールを担っているV5に相当する大脳皮質のみが得意的に働いていることを証明した。」(岩田 1997: 159-160頁)。
     例:イタリアの未来派。デュシャン「階段を降りる裸体No.2」。

  3.3. 形態視モジュール絵画
    形態視モジュールを強調して描く。
     例:キュビスムの描画法。空間的位置関係を失って描かれた例は、フランシス。ベーコン「イザベル・ロースソーンの肖像習作」。

  3.4. 空間視モジュール絵画
    空間視モジュールを強調して描く。空間視の機能を担う背側経路〔→背側皮質視覚路〕のみが作動する。
     例:モンドリアン「しょうが入れのある静物II」。「しょうが入れのある静物I」から、「3次元モデルの内の形態視情報が次第に失われ、個々の輪郭線の長さ、方向、位置関係の情報のみが取り出されていくようすがよくわかる。かくして、空間視モジュールのみの視覚情報が残された絵画が完成した。」(岩田 1997: 160頁)。

  4. 文脈的再構成絵画
    視覚的記憶に関わる。視覚世界の合理性をひっくりかえす。この描画法は、脳の絵画の一つの方向。
    例:シュルレアリスムの描画法。マグリット「個人的な価値」。視覚対象の相互関係を通常のものとは異なるものに置き換える。主として視覚的意味記憶にもとづく、空間的な文脈的再構成。
    例:シャガール「僕と村」。視覚的出来事の記憶にもとづく、時間的な文脈的再構成。
    例:スーパーレアリズムの描画法。木下晋「視線」。肉眼では見る事のできない細部を描く。

  5. 視覚体験を離れていく絵画
   第二次世界大戦を境として、視覚体験にもとづかない技法が生まれ、視覚対象を創造する絵画が出現した。心象にも存在しない視覚世界を実現する。見るという過程から描くという過程へ。次の二つの流れがある。
    a. あくまで視覚的認知のみによって、新しい視覚体験を創造する。
    b. 視覚以外の様式の感覚である、触覚や運動感覚といった体性感覚を動員する。

  5.1. 超可視的な画題の絵画
     例:カンディンスキーの抽象絵画。腹側回路による形態だが、照合されるべき視覚的形態の意味記憶が脳内に見出されない。つまり、新しい視覚体験を与える。

  5.2. 体性感覚絵画
   5.2.1. 主として触覚を取り入れる。
     例:フォートリエ「大きな悲劇的な頭部」。厚塗りや砂使用で、画面が諸近く刺激を与えるようにする。

   5.2.1. 運動覚を取り入れる。
     アクション・ペインティングの描法。視覚とともに運動覚を用いた方法。
     例:ポロック。
     例:墨絵にも運動覚を取り込んだ技法が見られる。

*** 概括おわり//

 なかなか面白い分類であり、説得性がある。ただし科学は知識を書き換えていくから、今ではどうなのか。とりわけ画像解析技術は格段と精度が上がっているし。また、心理学的知見との照合をせよ(課題)。
 脳科学的分類から見て、まだやられていないのは、何か? 聴覚を取り入れれば、たとえばクレー(の一部の作品)になるか? 違う? なんでもありで行くなら、光ダイオード、あるいはスピーカーを画面に埋め込む、など。モダンアート展ではそのような作品があった。
 音符を光の区画パターンに変換して表示する楽器(たとえば、なんだったっけ? →野口裕司展/時計台ギャラリーで聞いた)だとかもある。
 西洋絵画には違いない、石器時代の壁画はどうなるのか? 網膜絵画だとすると、時代的に心象絵画に先立つ。
 また、心象絵画のところは、もっと分類したほうがよいと思う。

文献欄は:
2010.3.19 美術論・抽象絵画論文献/20100319-随時改訂掲示板
を見よ。


歴史の哲学/唯名論

2010年03月24日 11時27分31秒 | 生命生物生活哲学
2010年3月24日-2
歴史の哲学/唯名論

 科学基礎論学会からの、人文死生学研究会・心の科学の基礎論研究会合同研究会の案内文のなかの、水本正晴「原爆投下は正しかったか~戦争・論理学から歴史・認識論へ~」の内容紹介文に、
  「最近の議論として野家啓一の「物語としての歴史」の哲学を批判した中山康雄の議論を考察したい」
とあった。
 Googleと、中山康雄の議論とは、
 中山康雄.2009.現代唯名論の構築:歴史の哲学への応用.春秋社.
に展開されているのを指すらしい。だから、鍵語の一つは唯名論。
 ところで、野家(2007)は、narrativeを「物語り」としていた。(語感的意味合いがずれるのだろうが)叙述としてほしい。心理学関係ではナラティヴとしていて、近いのは物語なのだろうが。
 ついでに言えば、野家(2007: 141頁)で、theoretical entityを理論的存在としているのは、理論的存在者に。そしてtheoretical constructを理論的構成体としているのは、理論的構築体に。
 またついでに。
  「赤道は地理学的理論によって措定された理論的存在〔者〕であり、原理的に知覚できません。それでも赤道の実在を疑う人はいないでしょうし、その実在を信じなければ航海は甚だおぼつかないものとなるでしょう。」(野家(2007: 141-142頁)。
 赤道が実在すると思う人はいるのだろうか? 実在論的に狭義の理論的存在者でもなく、単に規約上のもので、緯度x経度yは実在するといっているのと同じ。それは記述的構築体である。むろん、地球上の緯度x経度yの場所に、石ころは実在するかもしれないが。実在するのは、物体である。また、赤道という概念を使わない航海法は他にもあるだろう。

[N]
野家啓一. 2007.9.歴史を哲学する.170pp.岩波書店.[ISBN 9784000281522 / 1,300円+税].〔20080628頃読了〕

誰が(あるいは何が)脳の活動を見ているのか?

2010年03月24日 02時15分25秒 | 美術/絵画
2010年3月24日-1
誰が(あるいは何が)脳の活動を見ているのか?

  ランドのレティネックス理論では、「色彩の認知は、反射光の波長に依存しているのではなく、赤、緑、青の光の反射率の違いを計算することによってなされている」(岩田 1997: 35頁)。
 このことは、様々な色の絵具をうまく使えば、深い味わいが出るのと関連しているのかも。

 視覚情報の処理は、モジュール構造にもとづく分業によって、
  (1) 左右の位置関係を分析する、
  (2) 色彩を識別する、
  (3) 形を識別する
という部分情報ができる。問題は、それらが組み合わされて視覚が成立するが、
  「脳のいったいどこがそのような組み合わせを実行し、その組み合わせが正しいかどうかを判断しているのであろうか」(岩田 1997: 75頁)。
  「脳が「見る」ことは確かなことだが、脳のどこで本当に「見て」いるのかは、まだわかっているとはいえない」(岩田 1997: 76頁)。
 しかし、脳が見ているとは限らない。意識は、脳のなかの幽霊である。