生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術論・絵画論文献追加

2010年03月21日 18時27分43秒 | 美術/絵画
2010年3月21日-2
美術論・絵画論文献追加

 デザインする力(作用)。
 (すぐれたデザインといった)デザインされた物の評価。

 ポスターやチラシなどを(伝達または表現の)媒体とした、商業デザイン。
 「絵とデザインは異なる」という意味は?
 訴えたいこととかの目的の内容が異なる伝達的、絵は伝達的でない?

 或る絵画と、その絵画をカメラで撮影して印刷した紙は、別物。
 指示されるもの、
 しかし写真という芸術、と独創性。

===
[A]
*荒俣宏.2010.2.アラマタ美術誌.294pp.新書館.[ISBN 9784403120220 / 2,800円+税].

[K]
*クリッペンドルフ,クラウス.2006.(小林昭世・西澤弘行・川間哲夫・氏家良樹・國澤好衛・小口裕史・蓮池公威訳 2009.4)意味論的転回:デザインの新しい基礎理論.394pp.[ISBN 9784434130335 / 3,800円+税].〔Krippendorff, Klaus.〕

[M]
*向井周太郎.2009.9.デザイン学:思索のコンステレーション.464pp.武蔵野美術大学出版局.[ISBN 9784901631907 / 3,000円+税].

[T]
*東北芸術工科大学デザイン哲学研究所(編)・降旗英史(監修).2007.2.デザインの知〈vol.1(2007)〉.287pp.角川学芸出版.[ISBN 9784046216212 / 1,600円+税].


すべて忘却の彼方へ

2010年03月21日 18時23分07秒 | 美術/絵画
2010年3月21日-3
過去のことはすぐ忘れてしまう

 2009年12月12日に大阪市立美術館で見た小野竹喬展は、小規模なもので(特に感心する作品はなかった)、(おそらく大規模な、と勝手に思っていた)東京国立近代美術館の展示とは異なると思っていた。大阪市立美術館だよりの「美をつくし」を見ると、「生誕120年」と付いているから、東京国立近代美術館で見ようとしていたのと同じだろう。
 千鳥ヶ淵の桜は見たい。どうしょう? 昨年は昼だったので、夜桜にしようかな。
 「2010  千鳥ケ淵 千代田のさくら祭り混雑予想」によると、ライトアップは4月4日まで。時間は18:30頃~22:00だろうか。
 大阪の天保山までの水旅で両岸の桜。吉野山の桜も。

 2009年12月12日に大阪市立美術館で見たのは、小野竹喬展の他に、
  自由美術展。
  関西新世紀展。
  アジア水墨画展。

絵画のシステム的捉え方1

2010年03月21日 13時38分39秒 | 美術/絵画
2010年3月21日-1
絵画のシステム的捉え方1

絵画をシステムとして捉える
 1. 個体的同一性(個物同一性)
   質料的同定とイデア的同定
 2. 展示環境
   照明、壁の色(→背景も作品の一部として用意する)、額縁、近隣の作品、
   鑑賞者密度、ソファや椅子の設置、喫茶やレストラン、
 3. 鑑賞者の想像と創造
   きっかけとしての作品

 個物として同一の絵画であっても、その環境状況によってその見えは異なってくる。特に、主として視覚的な対象とみなされる絵画(平面的であれ立体的であれ)においては、照明によって大きく異なる。
 たとえば、福田平八郎の「雨」という日本画は、京都近代美術館では、まさに屋根瓦に雨滴が落ちて滲みこみつつあるのやら、ちょうど落ちたばかりのものとか、雨ふりはじめの風情のある感じに受け取れた。東京で見たときは、照明が画面全面に明るく、あっけらかんとした感じであった(むろん、あっけらかんという感じも人によっては悪くはないだろう。そもそもわたしと同じように感じるとは限らない。先に京都で見ていなかったらまた違ったことだろう。→履歴(または記憶参照)効果)。東京でのたしか若冲の屏風の展示のときには、意図的に照明を時間的に変化させていた。
 画面の中央少し上あたりにスポットライトを当てるのと、全面に一様に蛍光灯で照らすのとでは、異なる作品になる場合がある。同一物体であっても、鑑賞者における見えは異なる。そうすると、われわれは同じ絵画を見ているとは言えない。或る同一の絵画をどのような環境条件のもとで見たかが問題である。
 川村記念美術館でのロスコのシーグラム絵画では、わたしが訪れたときは曇りだったか、暗かった。しかし、おそらく異なる日に見た人は、
  「正直、私は戸惑った。会場が広々とした空間で、高さ5~6メートルもあるかと思える天井からは自然光がかなりの光量をもって射し込んでいたからだ。つまり、ギャラリーが明るく開放的であるため、違和感を覚えたのだ。」(藤田令伊.http://www.geocities.jp/artray777/art-report2009/rothko-seagram.html)
と述べている(〔2009年〕3月2日の日付)。わたしは、天井に窓があったとは気づかなかった。
  「シーグラム絵画はもっと明るい光で見たかった...# 暗かったのは雨降りの土曜日だったからかなぁ」(lysander.http://blog.goo.ne.jp/lysander/e/23ad49f170d0a2081ee6ac7d28aadc56)
と言う人もいる(2009-03-05の日付)。
 ロスコ作品は意図的に高い位置に配置されていた。もっともなのだが、わたしは近くで見て絵肌を分析したかった。どんな肌理かも勘案し、その味わいも加味して自分の脳内に像を合成して、それをわたしは鑑賞しているのだろうか? →想像力の働き。