2011年5月10日-4
福島原発事故125:地球温暖化脅威論と原発推進
寺西俊一(1992)『地球環境問題の政治経済学』について、地球温暖化と原発関連を探してみた。
地球大気中の二酸化炭素濃度の変化と気候変動との関係を調べる自然科学者たちによる研究は、「一九四〇年代から七〇年頃までは、世界の平均気温が全般的に低下の傾向を示していたため、彼らの研究はあまり注目されることはなかった」(寺西 1992: 179頁)が、
「一九七〇年代以降になると、次第に世界の平均気温が上昇に転じ始めたため、再び「温暖化」が注目を浴びるようになってきた。そして、今日の「温暖化問題」に関する一連の議論の基礎となった自然科学的知見の整理・確認が初めて本格的に行〔な〕われたのは、一九八五年の国際合議(オーストリアのフィラハ)においてであった。
右の国際会議は、「フィラハ会議」と呼ばれているが、正式には、「二酸化炭素およびその他の温室効果ガスが気候変化に及ぼす役割とそれに伴う影響の評価に関する国際会議」のことである。これは、「世界気象機関(WMO)」、「国連環境計画(UNEP)」、「国際学術連合(ICSU)」の共催による国際会議であった。しかし、当時の段階では、この重要な会議も、残念ながらそれほど大きな世界的注目を集めたとはいえない。
その後、右に紹介したような「温暖化」に関する自然科学的な知見の集積が、突如、「温暖化問題」へと急展開し、まさに国際政治の中心舞台に急浮上してくることになった。それは実際には一九八八年以降のことに属している。
この「急展開」への重要な契機をなしたのは、カナダ政府の主催によって行われた同年六月の「大気変動に関する国際会議」であった。この会議には、三〇〇名以上の科学者とともに、世界の四八カ国から政府関係者・政策担当者らが参加している。〔略〕
この国際会議では、二〇〇五年をメドにして、世界の二酸化炭素排出量を一九八八年レベルよりも二〇%程度削減していくべきことが、「最初の全地球的目標」として宣言されることになった。」(寺西 1992: 179-180頁)。
その1988年6月、例のジェームズ・ハンセン James E. HansenというNASAのゴダード宇宙研究所の所長が、冷房を止めたアメリカ議会で証言し、「前世紀からの地球気温の記録を詳細に検討した結果を発表した」わけである。
続いて「温暖化問題」に絡む各国の利害と思惑」という節で、寺西(1992)は、原発推進と「温暖化問題」について、フランス、旧西ドイツ、そしてイギリスの各国についての状況を記している。
「フランスは、周知のように、一九七〇年代中葉のオイル・ショック以降、原発の積極的推進を国家政策の支柱に据えてきた。その結果、現在では、全発電量の実に六五%以上を原発によってまかなうまでになっている。しかし近年、この政策への批判が国内的に高まってきた。とくに一九八六年四月末に勃発した旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や過剰発電能力の出現問題、さらには核燃料の再処理問題や放射性廃棄物の処理問題などが契機となって、八〇年代には反原発への国内世論の高揚が無視できない状況となってきた。この国内状況のなかでいえば、「温暖化問題」は、フランス政府にとっては、まさに「助け船」ともいえる〝追い風〟として政治的に位置づけられたとしても何ら不思議なことではない。
もう一つ、別の背景として指摘しておく必要があるのは、九二年末のEC統合という大きな政治課題との密接な絡まりである。少なくとも、この政治課題を目前に控えていることが、この間のフランス政府の対外姿勢に大きな影響を与えてきたことは疑いない。
周知のように、九二年末のEC統合をめぐっては、フランス政府は、イギリス政府、旧西ドイツ政府と対抗しつつ、さまざまな点でEC内での政治的な主導権を争う状況におかれてきた。この構図のなかで、フランス政府が、「温暖化問題」を機にして、独自な政治的イニシアチブの発揮を目指したとしても、これまた何らの不思議もないといえる。」(寺西 1992: 179-180頁)。
「〔旧西ドイツの連邦政府は、1980年代末に環境保全重視の旗印を明確にすることが必要となったが、その〕第三の事情としては、旧西ドイツの場合にも、フランスと同様、原発推進政策と絡まった問題がある。一九八七年現在でみると、旧西ドイツは日本に次ぐ世界第五位の原発設備の容量をもち、発電量町三〇%以上(OECD内ではフランスに次いで第二位)を原発でまかなっている。
これまで〝石炭から原子力への移行〟を基本的なエネルギー政策として推進してきたコール政権にとっても、八〇年代を通じて高まってきた反原発の根強い国内世論の存在は頭の痛い問題だ。コール政権下での「温暖化問題」への対応も、明らかに、この構図のなかで位置づけられている。実際、エネルギー関係の予算でみれば、〝石炭から原子力へ〟という基本路線が「温暖化問題」を背景にして、ますます重視されているといえる。」(寺西 1992: 189頁)。
「イギリスでは、周知のように、八〇年代のサッチャー政権下で、さまざまな公共部門の「民営化」(プライバタイゼイション(Privatization)と呼ばれてきた)が強力に進められてきた。その一環として電力事業の「民営化」も推進されてきたが、この過程で、原発施設は莫大な補助金をつけても、民間企業での引受け手がみつからないという状況があった。このためイギリス政府は、「民営化」の対象から原発施設を外し、やむなく政府保護下の企業として維持するという方針をとらざるを得なくなった。しかしこれは、多額の財政支出の継続を必要とする。
そして、実は、右の事態に対処するために考えられたのが「原発推進税」の導入であった。つまり、サッチャー政権は、この導入の根拠として「温暖化対策」という大義名分を利用しようとしたのである。」(寺西 1992: 194頁)。
これら三つの国で、「地球温暖化問題」は政治的に利用され、原発推進に寄与したのである。
さて、日本については、
「〔1989年11月の〕「ノルトベイク会議」までは、日本独自の立場を公式的に示し得ていない。とくに、この「ノルトベイク会議」では、日本政府内部での「対立」も表面化している。たとえば、「ノルトベイク会議」の準備過程から、議長国として積極的なリーダーシップをとったオランダからの提案が検討されていったが、この提案の最終案に対する態度表明では、日本の環境庁サイドと通産省サイドの主張は明らかに「対立」した。」(寺西 1992: 195頁)。
「その後、日本では、「地球温暖化防止行動計画」(九〇年一〇月)が公式の政府見解を表明したものとして閣議了承されているが、そこでは通産省サイドの主張がほぼそのまま反映されている。」(寺西 1992: 196頁)。
次いで、地球温暖化防止行動計画の日本の目標が引用されている。そこには、二酸化炭素の吸収源として「国内の森林・都市等の緑の保全整備を図る」ことが書かれている。しかし、原発のことは書かれていない。
[T]
寺西俊一.1992.3.地球環境問題の政治経済学.v+244pp.東洋経済新報社.[y1,800税込] [B920722]
福島原発事故125:地球温暖化脅威論と原発推進
寺西俊一(1992)『地球環境問題の政治経済学』について、地球温暖化と原発関連を探してみた。
地球大気中の二酸化炭素濃度の変化と気候変動との関係を調べる自然科学者たちによる研究は、「一九四〇年代から七〇年頃までは、世界の平均気温が全般的に低下の傾向を示していたため、彼らの研究はあまり注目されることはなかった」(寺西 1992: 179頁)が、
「一九七〇年代以降になると、次第に世界の平均気温が上昇に転じ始めたため、再び「温暖化」が注目を浴びるようになってきた。そして、今日の「温暖化問題」に関する一連の議論の基礎となった自然科学的知見の整理・確認が初めて本格的に行〔な〕われたのは、一九八五年の国際合議(オーストリアのフィラハ)においてであった。
右の国際会議は、「フィラハ会議」と呼ばれているが、正式には、「二酸化炭素およびその他の温室効果ガスが気候変化に及ぼす役割とそれに伴う影響の評価に関する国際会議」のことである。これは、「世界気象機関(WMO)」、「国連環境計画(UNEP)」、「国際学術連合(ICSU)」の共催による国際会議であった。しかし、当時の段階では、この重要な会議も、残念ながらそれほど大きな世界的注目を集めたとはいえない。
その後、右に紹介したような「温暖化」に関する自然科学的な知見の集積が、突如、「温暖化問題」へと急展開し、まさに国際政治の中心舞台に急浮上してくることになった。それは実際には一九八八年以降のことに属している。
この「急展開」への重要な契機をなしたのは、カナダ政府の主催によって行われた同年六月の「大気変動に関する国際会議」であった。この会議には、三〇〇名以上の科学者とともに、世界の四八カ国から政府関係者・政策担当者らが参加している。〔略〕
この国際会議では、二〇〇五年をメドにして、世界の二酸化炭素排出量を一九八八年レベルよりも二〇%程度削減していくべきことが、「最初の全地球的目標」として宣言されることになった。」(寺西 1992: 179-180頁)。
その1988年6月、例のジェームズ・ハンセン James E. HansenというNASAのゴダード宇宙研究所の所長が、冷房を止めたアメリカ議会で証言し、「前世紀からの地球気温の記録を詳細に検討した結果を発表した」わけである。
続いて「温暖化問題」に絡む各国の利害と思惑」という節で、寺西(1992)は、原発推進と「温暖化問題」について、フランス、旧西ドイツ、そしてイギリスの各国についての状況を記している。
「フランスは、周知のように、一九七〇年代中葉のオイル・ショック以降、原発の積極的推進を国家政策の支柱に据えてきた。その結果、現在では、全発電量の実に六五%以上を原発によってまかなうまでになっている。しかし近年、この政策への批判が国内的に高まってきた。とくに一九八六年四月末に勃発した旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や過剰発電能力の出現問題、さらには核燃料の再処理問題や放射性廃棄物の処理問題などが契機となって、八〇年代には反原発への国内世論の高揚が無視できない状況となってきた。この国内状況のなかでいえば、「温暖化問題」は、フランス政府にとっては、まさに「助け船」ともいえる〝追い風〟として政治的に位置づけられたとしても何ら不思議なことではない。
もう一つ、別の背景として指摘しておく必要があるのは、九二年末のEC統合という大きな政治課題との密接な絡まりである。少なくとも、この政治課題を目前に控えていることが、この間のフランス政府の対外姿勢に大きな影響を与えてきたことは疑いない。
周知のように、九二年末のEC統合をめぐっては、フランス政府は、イギリス政府、旧西ドイツ政府と対抗しつつ、さまざまな点でEC内での政治的な主導権を争う状況におかれてきた。この構図のなかで、フランス政府が、「温暖化問題」を機にして、独自な政治的イニシアチブの発揮を目指したとしても、これまた何らの不思議もないといえる。」(寺西 1992: 179-180頁)。
「〔旧西ドイツの連邦政府は、1980年代末に環境保全重視の旗印を明確にすることが必要となったが、その〕第三の事情としては、旧西ドイツの場合にも、フランスと同様、原発推進政策と絡まった問題がある。一九八七年現在でみると、旧西ドイツは日本に次ぐ世界第五位の原発設備の容量をもち、発電量町三〇%以上(OECD内ではフランスに次いで第二位)を原発でまかなっている。
これまで〝石炭から原子力への移行〟を基本的なエネルギー政策として推進してきたコール政権にとっても、八〇年代を通じて高まってきた反原発の根強い国内世論の存在は頭の痛い問題だ。コール政権下での「温暖化問題」への対応も、明らかに、この構図のなかで位置づけられている。実際、エネルギー関係の予算でみれば、〝石炭から原子力へ〟という基本路線が「温暖化問題」を背景にして、ますます重視されているといえる。」(寺西 1992: 189頁)。
「イギリスでは、周知のように、八〇年代のサッチャー政権下で、さまざまな公共部門の「民営化」(プライバタイゼイション(Privatization)と呼ばれてきた)が強力に進められてきた。その一環として電力事業の「民営化」も推進されてきたが、この過程で、原発施設は莫大な補助金をつけても、民間企業での引受け手がみつからないという状況があった。このためイギリス政府は、「民営化」の対象から原発施設を外し、やむなく政府保護下の企業として維持するという方針をとらざるを得なくなった。しかしこれは、多額の財政支出の継続を必要とする。
そして、実は、右の事態に対処するために考えられたのが「原発推進税」の導入であった。つまり、サッチャー政権は、この導入の根拠として「温暖化対策」という大義名分を利用しようとしたのである。」(寺西 1992: 194頁)。
これら三つの国で、「地球温暖化問題」は政治的に利用され、原発推進に寄与したのである。
さて、日本については、
「〔1989年11月の〕「ノルトベイク会議」までは、日本独自の立場を公式的に示し得ていない。とくに、この「ノルトベイク会議」では、日本政府内部での「対立」も表面化している。たとえば、「ノルトベイク会議」の準備過程から、議長国として積極的なリーダーシップをとったオランダからの提案が検討されていったが、この提案の最終案に対する態度表明では、日本の環境庁サイドと通産省サイドの主張は明らかに「対立」した。」(寺西 1992: 195頁)。
「その後、日本では、「地球温暖化防止行動計画」(九〇年一〇月)が公式の政府見解を表明したものとして閣議了承されているが、そこでは通産省サイドの主張がほぼそのまま反映されている。」(寺西 1992: 196頁)。
次いで、地球温暖化防止行動計画の日本の目標が引用されている。そこには、二酸化炭素の吸収源として「国内の森林・都市等の緑の保全整備を図る」ことが書かれている。しかし、原発のことは書かれていない。
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寺西俊一.1992.3.地球環境問題の政治経済学.v+244pp.東洋経済新報社.[y1,800税込] [B920722]