生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2011年5月24日

2011年05月24日 21時29分13秒 | 美術/絵画
2011年5月24日-1
美術修行2011年5月24日


 第61回モダンアート展京都展/京都市美術館/700円。
http://modernart-kyokai.com/tenshokai01.html
 スペースアート部門のいくつかの作品は参考になった。一つは、薄い透き通るような網に描いて、下の模様とずらしたような模様で、錯視的効果をもたらすもの。その下は三層構造。
 物体に付随した、ひげ(線)の効果。

 課題:インスタレーションとは何か。場を作ること。
 人は或る限定範囲内の場所(一地点)で観る。そこへ絵画(色と形が認識できる表面体)作用があるとしよう。観る者がたとえばゆっくりと観ながら動く場合。理想的設計像としての絵画空間と現実に展示または仮設する表面体および「物体」の作用空間。
 色面と線。絵画を展示することと、最初から「場」を作ることを意図しての作品づくりしての仮設とを、どうつなげるか。

 連歌形式の絵画群による場。
 言語と絵画。

 淺沼(2004)『ゼロからの美学』では、

  「絵画〔略〕を見るひとが視覚によってとらえるのは、あるいはそのひとの意識に現前しているのは、〔略〕一つの物体〔略〕の視覚的な性質にほかならない。ところがこの視覚的性質が、〔略〕レースを編むひとりの少女のすがた(視覚的性質)にきわめて類似しているため??サルトルにならえば「感覚的アナロゴン」としてあるために??見るひとは「いま、ここ」には存在しない「レースを編む少女」のすがたを、ほぼ直接的に意識すると考えられる。〔略〕「言語」の場合のようなコード的な関係ではなく、感覚(視覚)上の類似という関係が成立しているため、見るひとは、だれでも、いつでも、しかも予備的な学習なしに、少女のすがた(イメージ)を思いうかべるのだと考えられる。」(淺沼 2004: 171-172頁)。

 そうとは考えられない。類似という関係を見て取るのは、すでに人が経験的に様々なカテゴリーを学習してきて、(直接的にではなく)ごく短時間に、絵画に描かれた(輪郭を認識して)物体像を「少女」というカテゴリーに同定し、その人の記憶から脳内に像を形成するのだと思う。議論が転倒している。

 京都国立近代美術館に行くと、火曜日なのに休館だった。前売券を見ると、青木繁展はまだ開催していないのだった。

 小田英之+「明日見る夢」展/ギャラリー モーニング。
http://gallerymorningkyoto.com/2011Exhibition/odahideyuki.html
 水彩画仕様(つまり周囲に幅のあるマットがある)の額にいれたiPadによる、いわば動画絵画。50インチのテレビによるものは二つ。すべての画面が動くのではなくて、一部が動くので、見やすい。そして動くところに注目が行くだろう。
 「ヘッドA+B」(脳のあたりで様々な物体が漂い動く)と「回転する男」がとりわけ面白かった。
 写真を取り込んだりするのではなく、まったくの零からレンダリング(画像を作成)していくとのこと。

 
[A]
淺沼圭司.2004.9.ゼロからの美学.xi+250+vi pp.勁草書房.[y2,520]