生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

種システムと生物体システムにおける情報1

2011年05月16日 14時29分07秒 | 生命生物生活哲学
2011年5月16日-4
種システムと生物体システムにおける情報1

 1990年頃だろうと思うがそのだいぶ前に、岩波書店発行の『情報科学辞典』で「情報」という言葉はどう定義されているだろうかと、「情報」という項目を探したが、無かった。ただし、「情報量」はあった。

 さて、白上謙一『生物学と方法』の「Ⅲ 方法論から発見学へ」の「情報の定義」のところで、

  「情報は計りうるものであるという考え方 the concept that information is measurable のうえに情報理論はその基礎をおいている」という言葉がケストラー Quastler〔→Koestlerではなく、『Henry Quastler: Essays on the Use of Information Theory in Biology, University of Illinois Press, Urbana 1953』のQuastlerらしい。〕(1958)〔これは、Edited by Hubert P. Yockey with the assistance of Robert L. Platzman [and] Henry Quastlerの「Symposium on information theory in biology, Gatlinburg, Tennessee, October 29-31, 1956」を本にしたものなのかもしれない〕のよくできた啓蒙的論文のはじめにでて来る。この言葉をあまり買いかぶってはならない。情報の概念が今や完全に定量化されるに到ったというのではない。情報において計りうる面のみが情報理論の対象になるというだけのことである。
 計りうる面とは内容ではない。ある定義による情報量のみが定量的にあつかえる面である。」(白上 1972: 36頁)。

と述べて、注意を喚起している。
 そして、

  「種々の実験的操作、観察、読書、談話等によってわれわれは生物に関する知識を得る。そのような知識の内で自からも学問的なデータとして確認し、他人にもメッセージとして伝え得る形にまでなったものが情報である。われわれは生物からこの形になった情報を刻々にうけとっていると考えるのは正しくない。この点は私の方法論の核心をなすところだが、もう少しあとに延ばしておこう。
 情報において計りうる面、情報量、とはどのようなものか。」(白上 1972: 37頁)。

と書いている。
 で、

  「情報理論が問題にするのは情報量であり、これはあらかじめ数えあげられたもの、あらかじめ確率が定義された事項のうちのどれかということが問題になっている場合にのみ意味をもつ。ところでわれわれが求めているものは、われわれが思いもかけぬ新しい事実についての情報ではないのか?」(白上 1972: 39頁)。

と、新奇性 novelty, newnessを問題にしている。発生過程では、『情報』が次々と出現していって(もっと精確に言えば、システムが(いかなる?)諸情報にしたがって)成体の形態へとなっていくように見えるからであろう。なお、ここでの情報とは、DNAを担体としている水準の情報ではない。むろん、機構解明主義的には、『情報』という概念無しで考えている。だから、ここでもあくまで、『情報』は発見法的に使っている。そのためにも、『情報』概念のおかしいところをきちんと総括しておかなければならない。このことは、白上謙一氏が主張するように、機械論は機械の存在出現や機構成立を説明しない、あるいは人間を前提としているので、無生物的な(!)機械論は結局何も説明していないということと、同型の論理である。

 或るシステムについて、それを構成する下位システム(の構成、構造、機構 mechanism、作動条件(→システム環境条件として縮約する))を前提として、では上位からの制御はいかにして行なわれるのか、そしてその制御を可能にしているのは何か、を問うことにしよう。問題は、創発性である。
 或るシステムがいかにして創発(新しく出現)したのかは、難しそうなのでさておき、とりあえずは、制御機構を問題にしよう。そのときの、<情報>を、つまりシステム的(な一部の性質についての)情報量を考えよう。
 ここで、複雑性などといったものを測ることはしないことにする。これもまた、厄介だからである。もし考えるなら、<種類と程度を考えよ>、である。

 
[N]
*長尾真ほか(編).1990.5.岩波情報科学辞典.1172pp.岩波書店.

[S]
白上謙一.1972.2.生物学と方法:発生細胞学とはなにか.220pp.河出書房.[y580] [B19820924, 400*]


福島原発事故126:地球環境破壊大賞/原発廃炉への意思表示

2011年05月16日 13時25分52秒 | 生命生物生活哲学
2011年5月16日-3
福島原発事故126:地球環境破壊大賞/原発廃炉への意思表示


 田中龍作氏は、

  「国際社会の批判を浴びた東京電力の事故隠し(2002年発覚)で引責辞任した南直哉(みなみ・のぶや)社長が、その後フジテレビの監査役に“天下り”している。〔略〕
   細野事務局長(首相補佐官)は「南社長がフジテレビの監査役になっていたとは知らなかった」と答えた。

   フジテレビが主催する「地球環境大賞」を東京電力は度々受賞してきた。多額の広告費を出してもらった見返りだ。南監査役の意向も反映されているのだろう。

   このカラクリを知らず「東京電力はエコでクリーン」と頭に刷り込まれてきた国民こそいい迷惑である。」
http://tanakaryusaku.jp/2011/05/0002291

と書いている。

 東京電力への地球環境大賞は、お手盛りだったのね。
 で、今年の受賞決定後に福島第一原発事故によって、広い範囲で放射能汚染が起きた。受賞取り消しになったのだろうか?
 「地球環境大賞 東京電力 受賞取り消し」で検索すると、中央日報日本語版が報じている。

  「地球環境大賞は1992年からフジサンケイグループが東京大学教授などを審査委員に委嘱して選定している賞。〔略〕
   審査委員らは「東京電力が従来のシステムを変えて省エネを実践した」とし「自社だけでなく周辺地域の環境まで考える東京電力の精神は高い点数を受けるに値する」と評価した。」
http://japanese.joins.com/article/194/139194.html?sectcode=&servcode=

  「4月15日の朝日新聞朝刊によると東芝の佐々木則夫社長は「15年までの原発の受注は国内外で39基であり、売上高を1兆円に倍増する計画は難しいが、39基でやらないと断ってきたところはない」「原子力が有力な選択肢であることに変わりはない」と発言しています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/53623661.html

らしいから、フジサンケイグループの本音は、東芝にもまた授賞しているのだから、経営利益のためには環境破壊もかまいません、ということなのだろうか。


 さて、読売新聞2011年5月11日によれば、

  「2011年5月10日、日本からオランダのロッテルダム港に到着した貨物船のコンテナ19個から放射性物質が検出され、このうち5個は許容基準を超えた〔略〕。コンテナ5個から検出された放射性物質の平均値は1平方センチ・メートルあたり6ベクレルと、許容基準(同4ベクレル)の1・5倍に上る〔略〕。ロッテルダム港では今月5日にも日本発のコンテナから最大33ベクレルの放射能が検出された。ベルギー西部ゼーブルージュ港でも3日、日本発のコンテナから基準を超える放射性物質が検出された。」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110511-OYT1T00392.htm?from=navr

らしい。
 このように、日本国としては、東京電力が福島原発稼働によって生産した放射性物質を、国外に移出している。

 反原発デモや脱原発デモは大手新聞や大手放送ではあまり報道されないようだが、たとえば、こどもの日の5月5日に世田谷で、「子供のためにも原発は要らない」というデモ行進があったようである。
 田中龍作氏の取材によれば、

  「放射能汚染による最大の犠牲者となるのが子供たちだ。筆者はこれまで数々の「反原発デモ」を取材してきたが、今回は特に子供連れが多かった。

   台東区在住の父母は2歳の子供を抱いて参加した(写真下段)。東電福島第一原発が爆発事故を起こした直後は子供を連れて三重県に避難した、という。
 父親(30代)は憤る?「自分で状況を判断して自分の子供を守るしかない。政府発表は当てにならないから。マスコミ、特にテレビはウソというか、当たり障りのないことしか言わない」。」
http://tanakaryusaku.jp/2011/05/0002212

 そして、科学者もまた当てにならないとか、大学教員は嘘を平気で言うと、多くの国民は思っているようである。そのことは、原発事故などの<実験>によって明白になったからである。われわれはなによりも経験から学ぶ。

 子供のためだけではなく、今生きているわれわれのために、原発は廃炉にしていく他ない。