生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

面塗り、線描き、イデア論

2010年03月25日 12時16分15秒 | 美術/絵画
2010年3月25日-3
面塗り、線描き、イデア論

 中ザワヒデキ(2008: 167頁)は、デジタル画像について下記のような表を提示している。
  ______________________________________________
         ビットマップ    ベクター
  ______________________________________________
   二次元   (色彩絵画)    (形態絵画)

   三次元   (塑像)      (彫刻)
  ______________________________________________

 たとえば、二次元でビットマップであるところに()内に示されているのは、それのアナログ世界での対応物を示しているらしい。二次元ビットマップはペインティングで、二次元ベクターはドローイングに対応する(168頁)というのはなんとかわかるが、「二次元ビットマップは色彩絵画(ペインティング)、二次元ベクターは形態絵画(ドローイング)」というのは、わからない。ビットマップ方式は面を格子に切ってそれを単位として形態と色彩を表示するし(中ザワが言うように、原子論的)、ベクター方式は線を方程式で表現して描き閉面単位で色を埋めるのではないか? どちらにも形態と色彩は表示する(はず)。後者がイデア論的だと言うが、どういうことだろう? 
 「形態絵画と彫刻が線描または表面の屹立で、イデア論的であることと対応する」(中ザワ 2008: 169頁)とあるが、どういう意味でイデア論的だと言っているのか?
 (毛筆であれ、刷毛であれ、)塗る一筆は、線描的ではないのか? →輪郭線の有無または明瞭性の程度の問題。
 面塗りと線描きは、一つの軸の両極である。
 彫刻と塑像も。確かに、すでに形を持って存在している素材を削ったりするのと、無から素材を組み立てて物を存在させるのと、作り方の発想は違うだろうが、絵画においても、付加したり削除したりするわけで。
 イデアと表示のための実装方式。作り方の差異と、現われの差異。

色は色々、縮尺色々、うやむやも色々

2010年03月25日 10時30分29秒 | 美術/絵画
2010年3月25日-2
色は色々、縮尺色々、うやむやも色々

 『自然から抽象へ=モンドリアン論集』口絵での「しょうが壷のある静物II」と、ダイヒャー『ピート・モンドリアン』の37頁での「ショウガの壷のある静物II」の図版は、前者が少し明るいが、色合いはほぼ同様である。岩田(1997: 149頁)での「しょうが入れのある静物II」の図版は紫色が強く、同じ頁の「しょうが入れのある静物I」は見覚えがあったが、静物IIは「え?こんなにきれいなの、あったっけ?」と思った。
 宮城県立美術館でのクレー展では、実物の色合いと図録の色合いを現地でくらべて、両者は少し異なっているのがけっこうあることがわかった。そしてその少しの色合いの違いの効果は大きいと思った。写真印刷での色の再現は、どのような素材に印刷するのか(石の割合が多いアート紙かどうかとか)などでも異なるから、難しいのだろうが、見えの効果としてこんなに違うことは念頭にいれておかなければならない。
 われわれの生活上では、作品を知るのは、図版での『鑑賞』が多い。そのことは、佐々木『美学への招待』で取り上げている通りである。

 もう一つ。公募展では作品をカメラに取るのを認めている場合は多い。それでたくさん取ったことがあった。後でデジカメ映像を見て、「あれ、こんなのあったっけ?」と記憶に無いことが少なくなかった。だいたい、現物よりも綺麗に見える。液晶表示という光RGBで見ると発色がよいというのがあるだろう。もう一つは、たとえばF100を数cm四方の画面へと縮小して見ることでの効果がある。これは画集や図録に縮小印刷される場合も同じである。たいていは、引き締まって見える。逆に、小さなデッサンをそのまま大きくしただけでは、大画面の絵画では良くないということがあるらしい。

 (ここのブログ内の検索をしようとしたら、右側下でなく、上方に移動していた。さきほどまでの工事中に代わったらしい。)

多様の統一

2010年03月25日 00時14分42秒 | 美術/絵画
2010年3月25日-1
多様の統一

 近代とは肉体の肯定である、と42年ほど前に教育学の授業で聞いたことがある。
 山崎(2007: 75頁)は、近代哲学は人間の感性を肯定し、他方でイデア論を継承していると言う。

  「「芸術」の……発生とともに広く時代を支配した理想は「多様の統一」であった。……古典ギリシャを賛美したヴィンケルマンも、美しい形とは「直観することのできる全体」であり、それを支えるものは「多様の統一」だと主張した。」(山崎 2007: 75頁)。

 装飾否定論は、プラトンの考えから導出されるか?

[Y]
山崎正和.2007.6.装飾とデザイン.299pp.中央公論新社.[ISBN 9784120038372 / 2,200円+税].


他の文献については、下記を見よ。
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=2802959
美術論・抽象絵画論文献/20100319-随時改訂掲示板

絵画の脳科学的分類

2010年03月24日 23時46分58秒 | 美術/絵画
2010年3月24日-4
絵画の脳科学的分類

 岩田(1997: 127-168)は「脳から見た絵画の進化と視覚的思考」と題した章で、絵画について、いわば脳科学的な分類をしている。(進化? →変化、または変遷)
 歴史的変遷を見ると、
  ・不可視的画題(神話、伝説、宗教)から可視的画題(人物、風景)へ。
  ・これら網膜絵画から脳の絵画へ。
と捉えられると提起した。
 この章を私流に概括し、興味深いところをいくつか引用すると次の通り。

*** 概括はじめ

 1. 心象絵画 mind painting
   不可視的画題(神話、伝説、宗教)。
   直接的に3次元モデルを描く。
   大きさや位置関係は、対象の存在意義とか心理的・社会的関係で定まる。
   日本画は心象絵画の技法。特に色彩を用いない墨絵。可視的画題を描く花鳥図や草木図も、心象にもとづいて描いたものが多い(例:若冲「松に鶴図」)。

 2. 網膜絵画(ルネサンス以降19世紀末まで)
   可視的画題 retinal painting)。
   2.5次元スケッチを描く。
   画家自身が座標系の中心(視点固定)。
   技法は、〔透視図法〕遠近法と陰影)。
    a. 視線非固定型:視線を変化させて、視覚対象すべてを注視する→画面中心部と近辺縁部、近景と遠景は細密度で描かれる。
    b. 視線固定型:画面中心部と周辺部の扱いは異なる。網膜の光感受特性に対応する(視野周辺部は暗くて朦朧として色彩が無い視覚世界)。
     例:レンブラント。ただし混合型の絵も得意とした。

 3. 脳の絵画(神経機構に分解された脳内処理画像)
  3.1. 色彩モジュール絵画
    色彩モジュールを強調して描く。
     例:ルノアールの描画法は、色彩認知の仕組みを再現。色彩モジュールだけを強調したのは、スーラの点描法。スーラの点描法での最小の点は、直径約1mm。網膜中心窩での最高視力2.0は、視角で0.008度なので、カンヴァス上で識別できる限界距離は、3.4m。これよりも遠くに離れると、並置した色彩は混合する。

  3.2. 運動視モジュール絵画
    運動視モジュールを強調して描く。
    ゼキは、「レヴィアントの描く「謎」という絵画を見ているときの大脳皮質活動をPETスキャンを用いて解析し、運動視モジュールを担っているV5に相当する大脳皮質のみが得意的に働いていることを証明した。」(岩田 1997: 159-160頁)。
     例:イタリアの未来派。デュシャン「階段を降りる裸体No.2」。

  3.3. 形態視モジュール絵画
    形態視モジュールを強調して描く。
     例:キュビスムの描画法。空間的位置関係を失って描かれた例は、フランシス。ベーコン「イザベル・ロースソーンの肖像習作」。

  3.4. 空間視モジュール絵画
    空間視モジュールを強調して描く。空間視の機能を担う背側経路〔→背側皮質視覚路〕のみが作動する。
     例:モンドリアン「しょうが入れのある静物II」。「しょうが入れのある静物I」から、「3次元モデルの内の形態視情報が次第に失われ、個々の輪郭線の長さ、方向、位置関係の情報のみが取り出されていくようすがよくわかる。かくして、空間視モジュールのみの視覚情報が残された絵画が完成した。」(岩田 1997: 160頁)。

  4. 文脈的再構成絵画
    視覚的記憶に関わる。視覚世界の合理性をひっくりかえす。この描画法は、脳の絵画の一つの方向。
    例:シュルレアリスムの描画法。マグリット「個人的な価値」。視覚対象の相互関係を通常のものとは異なるものに置き換える。主として視覚的意味記憶にもとづく、空間的な文脈的再構成。
    例:シャガール「僕と村」。視覚的出来事の記憶にもとづく、時間的な文脈的再構成。
    例:スーパーレアリズムの描画法。木下晋「視線」。肉眼では見る事のできない細部を描く。

  5. 視覚体験を離れていく絵画
   第二次世界大戦を境として、視覚体験にもとづかない技法が生まれ、視覚対象を創造する絵画が出現した。心象にも存在しない視覚世界を実現する。見るという過程から描くという過程へ。次の二つの流れがある。
    a. あくまで視覚的認知のみによって、新しい視覚体験を創造する。
    b. 視覚以外の様式の感覚である、触覚や運動感覚といった体性感覚を動員する。

  5.1. 超可視的な画題の絵画
     例:カンディンスキーの抽象絵画。腹側回路による形態だが、照合されるべき視覚的形態の意味記憶が脳内に見出されない。つまり、新しい視覚体験を与える。

  5.2. 体性感覚絵画
   5.2.1. 主として触覚を取り入れる。
     例:フォートリエ「大きな悲劇的な頭部」。厚塗りや砂使用で、画面が諸近く刺激を与えるようにする。

   5.2.1. 運動覚を取り入れる。
     アクション・ペインティングの描法。視覚とともに運動覚を用いた方法。
     例:ポロック。
     例:墨絵にも運動覚を取り込んだ技法が見られる。

*** 概括おわり//

 なかなか面白い分類であり、説得性がある。ただし科学は知識を書き換えていくから、今ではどうなのか。とりわけ画像解析技術は格段と精度が上がっているし。また、心理学的知見との照合をせよ(課題)。
 脳科学的分類から見て、まだやられていないのは、何か? 聴覚を取り入れれば、たとえばクレー(の一部の作品)になるか? 違う? なんでもありで行くなら、光ダイオード、あるいはスピーカーを画面に埋め込む、など。モダンアート展ではそのような作品があった。
 音符を光の区画パターンに変換して表示する楽器(たとえば、なんだったっけ? →野口裕司展/時計台ギャラリーで聞いた)だとかもある。
 西洋絵画には違いない、石器時代の壁画はどうなるのか? 網膜絵画だとすると、時代的に心象絵画に先立つ。
 また、心象絵画のところは、もっと分類したほうがよいと思う。

文献欄は:
2010.3.19 美術論・抽象絵画論文献/20100319-随時改訂掲示板
を見よ。


歴史の哲学/唯名論

2010年03月24日 11時27分31秒 | 生命生物生活哲学
2010年3月24日-2
歴史の哲学/唯名論

 科学基礎論学会からの、人文死生学研究会・心の科学の基礎論研究会合同研究会の案内文のなかの、水本正晴「原爆投下は正しかったか~戦争・論理学から歴史・認識論へ~」の内容紹介文に、
  「最近の議論として野家啓一の「物語としての歴史」の哲学を批判した中山康雄の議論を考察したい」
とあった。
 Googleと、中山康雄の議論とは、
 中山康雄.2009.現代唯名論の構築:歴史の哲学への応用.春秋社.
に展開されているのを指すらしい。だから、鍵語の一つは唯名論。
 ところで、野家(2007)は、narrativeを「物語り」としていた。(語感的意味合いがずれるのだろうが)叙述としてほしい。心理学関係ではナラティヴとしていて、近いのは物語なのだろうが。
 ついでに言えば、野家(2007: 141頁)で、theoretical entityを理論的存在としているのは、理論的存在者に。そしてtheoretical constructを理論的構成体としているのは、理論的構築体に。
 またついでに。
  「赤道は地理学的理論によって措定された理論的存在〔者〕であり、原理的に知覚できません。それでも赤道の実在を疑う人はいないでしょうし、その実在を信じなければ航海は甚だおぼつかないものとなるでしょう。」(野家(2007: 141-142頁)。
 赤道が実在すると思う人はいるのだろうか? 実在論的に狭義の理論的存在者でもなく、単に規約上のもので、緯度x経度yは実在するといっているのと同じ。それは記述的構築体である。むろん、地球上の緯度x経度yの場所に、石ころは実在するかもしれないが。実在するのは、物体である。また、赤道という概念を使わない航海法は他にもあるだろう。

[N]
野家啓一. 2007.9.歴史を哲学する.170pp.岩波書店.[ISBN 9784000281522 / 1,300円+税].〔20080628頃読了〕

誰が(あるいは何が)脳の活動を見ているのか?

2010年03月24日 02時15分25秒 | 美術/絵画
2010年3月24日-1
誰が(あるいは何が)脳の活動を見ているのか?

  ランドのレティネックス理論では、「色彩の認知は、反射光の波長に依存しているのではなく、赤、緑、青の光の反射率の違いを計算することによってなされている」(岩田 1997: 35頁)。
 このことは、様々な色の絵具をうまく使えば、深い味わいが出るのと関連しているのかも。

 視覚情報の処理は、モジュール構造にもとづく分業によって、
  (1) 左右の位置関係を分析する、
  (2) 色彩を識別する、
  (3) 形を識別する
という部分情報ができる。問題は、それらが組み合わされて視覚が成立するが、
  「脳のいったいどこがそのような組み合わせを実行し、その組み合わせが正しいかどうかを判断しているのであろうか」(岩田 1997: 75頁)。
  「脳が「見る」ことは確かなことだが、脳のどこで本当に「見て」いるのかは、まだわかっているとはいえない」(岩田 1997: 76頁)。
 しかし、脳が見ているとは限らない。意識は、脳のなかの幽霊である。

平面における像、立体物、遠近感、奥行き

2010年03月23日 13時23分51秒 | 美術/絵画
2010年3月23日-2
平面における像、立体物、遠近感、奥行き

 この世界における物体の形は、(なぜだか)3次元的に記述される。形が変化する場合を記述するには、時間軸が仮構される。


遠近感(=距離感か?)を表現する
 われわれは、諸物を比較する場合、(実在的に想定された、あるいはとりあえず仮構された)なんらかの同一性または(実在的に想定された、あるいは世界は流転するので、とりあえず仮構された)なんらかの恒常性にもとづいて判断する。
 人が遠近のある世界を見た場合、遠くの物は小さく見える(大小法?)。さらに、視点を固定すれば、透視図法のようになる(透視図法にはいくつかの変異がある)。もう一つは、遠くの物はかすんで見え(空間解像度)、暗く見える(明度)。→空気遠近法 atmospheric perspective。
 近くにある物体を立体的に見せる方法として、方向性のある光によってできる物体上の陰影を表現するというのがある(陰影法)。
 また、たとえば正方形を一部重ねるようにすると、前後関係をわれわれは見て取る。これを応用する手もあるだろう。モンドリアンの長方形が重ならない浮遊的な絵で(浮遊的に感じるのは地と図の関係に見立てるからだろう)、彩度または明度の異なる色彩の同じ面積で同一の形の長方形を配置すると、はたして前後関係は出てくるのだろうか?

立体感と色彩の美しさとの二律背反?
 「立体感や細かい表現を犠牲にして大胆な単純化を進めれば、絵としてより強い印象を与えることができることを日本の美術が教えてくれた」(ゴンブリッチ 553頁)。ゴッホとゴーガンは、「色調を強くし、奥行きを無視することによって」単純化の方向に進んだ(ゴンブリッチ 553頁)。
 →色彩豊かな図柄。例:ボナール作品。
 さらに単純化を進めると、ポスターのような明快さ。例:ホードラーの「トゥーン湖」(ゴンブリッチ 553頁)。浮世絵はポスター『芸術』か?

 『装飾的』という語は、アール・ヌーヴォーの時代にはほめ言葉だったようだが、現代では逆のような使い方をする人が多いのではないか? →統計的調査資料はあるか? 
 一つの意味は、必須ではないということ。また、山崎正和(2007.6.装飾とデザイン)を参照せよ。ガウディの建築物は、無駄だらけの装飾か?

 視覚に訴えるのだから、画家が目を楽しませるという目標を設定するのは妥当だろう。そのためには、写実的であることを捨ててよい。しかし、平面的な図柄だけでは、絵画の独自性は不要とも考えられる。
 セザンヌが、装飾的なものの追求過程で失われたと感じたものとは、秩序と平衡の感覚だと、ゴンブリッチ (555頁)は記す。ゴンブリッチの主張を図式的にまとめると(ゴーガンの場合は省略した)、
  セザンヌの場合:自然の堅固で持続的な形態
   その解決法は、立体主義へ行きついた
  ゴッホの場合:緊張感と情熱
   その解決法は、ドイツを中心とする表現主義へ行きついた
となるだろう。


絵画への記号学的アプローチ

2010年03月23日 01時01分32秒 | 美術/絵画
2010年3月23日-1
絵画への記号学的アプローチ

 マランMarinは、『絵画の記号学の原理』で、
  「タブローは……意味作用の分節においてすでに何がしかの意味をもっている要素によって構成されるという考えに基づき、こうした基礎的意味論の最も強力な試みのひとつを、パウル・クレーの『教育的素描集』のうちに求めようとしている。クレーはこの書物において、線、色価、色といった造形的諸要素を孤立的にではなく、他の要素との関係におけるエネルギー的な生成の場面で捉えようとしている……」(谷川渥 1983: 127頁)。
と言っているらしい。
 しかし、マランの方法は、抽象絵画について適用できるのか? 適用例のプッサン作品は、具象絵画である。

 美学者で画家のパスロンPasseronは、マランMarinの論文を批判した(谷川渥 1983: 128-頁)。
  ・「『絵画的能記に』われわれが接近したいのならば、図像学的な約束事などの『不純な語彙』を脇に置いて、線、色価、筆触、色彩の表現性のみに限定しなければならない」(谷川渥 1983: 128頁)。
  ・意味するものと意味されるものではなく、表現するものと表現されるものという対に替えるべき(谷川渥 1983: 129頁)。
  ・マランの試みは、絵画的なものの記号学ではない(谷川渥 1983: 129頁)。

 谷川渥(1983: 129頁)は、絵画的なものとは絵画的品質qualiaと言い換えられるとして、それは、スーリオの言葉での、線や色などの感覚的品質を含む現象的存在と、神秘的光輪つまり超越的存在とを同時に包摂する概念だとし、それはベンヤミンのアウラに相当すると言う。絵画のアウラや輝きを前にしては言述はむなしく、沈黙するのみとなるとパスロンを批判する。しかし、制作学poesisとして述べることはできるのではないか?


 graphyは、ギリシア語の「「書く」を意味する「グラフェイン」」(谷川渥 1983: 139頁)に由来する。
  記述し分類する iconography。解釈し説明し理解する iconology。
  geography - geology。
  ethnography - ethnology。

[K]
*加藤茂・谷川渥・持田公子・中川邦彦.1983.6.芸術の記号論.291+xpp.勁草書房.〔2,200円〕

[T]
谷川渥.1983.6.絵画の解釈と記号論.加藤茂・谷川渥・持田公子・中川邦彦『芸術の記号論』: 105-170. 勁草書房.

絵画の翻訳または解読

2010年03月22日 23時00分02秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-9
絵画の翻訳または解読

 英語で書かれた詩や小説は、日本語に翻訳される。
 外国で製作された絵画が、日本語に翻訳されるということはない。器楽音楽の楽譜も、翻訳されることはない。楽譜を経由せず、演奏を聞き取って、同様の音列を演奏できる人もいるだろう。

 具象絵画では、或る絵具配置をなんらかの実在物と対応させて、あたかも、たとえば人がいすに座っている景色だとみなす。このとき、同定をするという認識作用が働いている。さらに、人は過去に経験した過去の或る感情を想起してしまうかもしれない。さらに、絵具の配置から識別できる筆跡から、動きを感じ取るかもしれない。など、など。鑑賞するということは、主体的に働きかける、あるいは読み取る、あるいは解釈するということになる。これは鑑賞者が行なう翻訳なのだと考えてもよい。そうすると、記号に置き換えているのだ。「この絵は、近くに小川が流れる谷の農村の爽やかな景色を描いている」として、わかった気になる。
 しかし、伝達すること、あるいは作者が表現しようと考えたことを言い当てるのが重要なのか。絵画において重要なのは、理解することや解読することではないと考えてもよい。
 詩においても、入沢康夫が『詩の構造についての覚え書』で昔に言ったように、詩は伝達ではない。


抽象絵画
 そうではなく、絵画は絵具による形と色の配置なのだから、形と色の配置そのものによるものが、絵画の独自的効果であると考えるのは、定義から導ける論理的な考えである。この場合は、どんな形と色をもつ要素を選び、その要素自身の(人への、あるいは人が受け取る)効果(ただしこの効果は要素だけでは決まらず、地と近隣環境となっている要素にも関係する)と要素の配置が問題になる。
 ただし、要素といったものが認定できない、いわば連続的な作品もある。たとえば全面青色である。これは画面全体が一つの要素とみなせないこともない。あるいは、画面全体が、一つの要素の一部である。
 やっかいなのは、濃淡があり、かつ連続的に変異する場合である(たとえば鈴木悠高のYellowの作品)。これは、格子を人為的に定めて分析することになるだろう。なお、鈴木悠高の最近の作品では、数秒見た場合全体がほんの少しの差異の連続的変異と見えるが、数分間見ていると当方の暗順反応のためか、あちこちの模様がはっきりしてくる。つまり、コントラスト(明度と色彩などの差異)が上がる(ように見えてくる)。


絵画的とは?

2010年03月22日 18時48分35秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-8
絵画的とは?

 『巨匠に教わる絵画の見かた』は、画家たちの他の画家への感想や批評が引用されていて、面白い。
 その本に、絵画的という語がある。
  「抽象表現主義への反動として<ポスト・ペインタリー・アブストラクション>が現れた。絵画的な抽象とは違う抽象。つまり、絵具を均一に塗ったり、たらしたりして「描く」という要素を排除した抽象画だ。その第一線のステラは、絵画的な要素を切り捨てたミニマル・アートの典型でもある。」(視覚デザイン研究所 1996: 151頁)。

 他所で定義されているようでもなく、絵画的とはなんなのか?

[S]
*視覚デザイン研究所(編).1996.10.巨匠に教わる絵画の見かた.190pp.視覚デザイン研究所.[ISBN 9784881081242 / 1,850円+税].

もの派関連文献

2010年03月22日 17時33分11秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-7
もの派関連文献

  「石や木、紙や綿、鉄板やパラフィンといった<もの>を素材そのままに、 単体であるいは組み合わせることによって作品としていた一群の作家たち」(国立国際美術館 2005『もの派--再考』)
  「彼らは日常的な<もの>そのものを、非日常的な状態で提示することによって、<もの>にまつわる既成概念をはぎとり、 そこに新しい世界の開示を見いだしたのです。」(国立国際美術館 2005『もの派--再考』)
  「李禹煥は、この作品〔関根伸夫の「位相-大地」〕に対して「新しい世界」との「出会い」を可能にする普遍的な様相として論じることで、 「もの派」の一つの理論的な基盤を提示しました。」(国立国際美術館 2005『もの派--再考』)

[G]
*岐阜県美術館ほか(編).1995.1970年--物質と知覚 : もの派と根源を問う作家たち.23+xii+493pp.読売新聞社.〔1995年2月17日-3月26日に岐阜県美術館など開催の図録〕

[K]
*国立国際美術館(編).2005.もの派--再考 = Reconsidering Mono-ha.264pp.国立国際美術館.〔2005年10月25日-12月18日に国立国際美術館開催の図録〕〔大阪の国立国際美術館で閲覧可能〕

[T]
*多摩美術大学・西武美術館(編).1987.もの派とポストもの派の展開:1969年以降の日本の美術.196pp.多摩美術大学.〔Art in Japan since 1969/mono-ha and post mono-ha. 1987年6月26日(金)-7月19日(日) /主催: 多摩美術大学, 西武美術館の図録〕

一原有徳の実験/モノタイプ

2010年03月22日 17時24分07秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-6
一原有徳の実験/モノタイプ

[I]
*一原有徳(正木基 編).1989.11.ICHIHARA 一原有徳作品集.345pp.現代企画室.[ISBN10 4874700578 / 18,000円+税].

を北海道立近代美術館で見た。
 たくさんの面白いパターンが試みられている。パターンのエッセンスを取り出すこと。一回きりのモノタイプでも、版があれば版画。
 徳島県立近代美術館の美術用語集(http://www.weblio.jp/content/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97?dictCode=BIJUS)では、「モノタイプ」を、「版画と絵画の中間に位置する手法。絵柄は油彩でガラス板の上に描かれ、その上に紙を置いて刷りとる。」としている。中間に位置するとは、どういう意味だろうか。油絵具でなく、版画用インクを使ったら? うすく摺って、10枚くらい印刷したら?

 モノタイプ(定義は何と言われているのだろうか)の本質は、元の型または版となる物がインクそのものだから、印刷すれば、版そのもの(のパターン)がなくなるということだろう。他の場合には、版とインクは別物で、一度インクを平面に転写する場合でも、その転写の版は別に存在する。木版や金属版(孔版であっても)ではなく、インク物体そのものを版とみなせば、版画であり、その型は主にその人の脳内心象で、絵具筆を持つ腕は版を『彫っている』のだ。
 すると逆に絵画は、人自身が版で、加筆や削除のたびに摺り重ねているのだ(多回刷り)。
 現行の版画と絵画は、作品という外延extensionを観測すると、極めて平面的で複数的か、やや厚みがあって単数的という特徴がある。むろん、そのような分野カテゴリーで公募したりするからで、分野の分類は、使い勝手の良いように、随意に随時に変更すればよい。
 むろん、多数派的特徴であって、本質ではない。厚くて粗い肌理の部分があったり、かつ一回的な版画作品(孔版画)もある。例:中谷有逸作品。したがって、記述用述語を整えればよい。そして観測し、その上で気が向けば、たとえば類似度で分類すればよい。

  「なにかをでなく、画面自体を……実のところは、」(一原 1989: 108頁=北海道新聞 1979.2.14夕刊)。〔書き留める時間がなかった〕

  「何かに具体的に見えるというのは、体質的に拒否したいんです。版画で一番興味があるのは、質感がいろいろあるものを見つけ出したいということですね。」(一原 1989: 118頁=みずゑ No.869 1976年10月)。

立体絵画へ

2010年03月22日 16時06分55秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-5
立体絵画へ

 モンドリアン作品の「赤、黒、青、黄のコンポジション」といった題名での色名の順番は、面積の大きい順番なのだろうか。「黄、黒、赤、灰色の絵画2」は反例。構成要素にちなんだ題名であるには違いない。

 1921年や1922年のモンドリアン作品では、黒線(と見なしがちな色面)が端では切れているのがある。そのことが広がりをもたらしているかどうかは検討の余地があると思うが、それはさておき、たとえば垂直線のところで、左右の色のどちらを線が途絶えた部分(=左右につながる部分)に塗るか、難しい問題である。どちらを塗っても不自然るまんなかで割っても、やはり不自然だろう。いくつかの作品を見ると、どちらを塗るかの規則性は思いつかない。
 この処理には解決策はなかったのではないか。1930年の正方形の作品、そして菱形の1931年と1933年の作品ではでは、黒線が端まで塗られている。
 カンヴァスを立方体や球体にして、黒線をぐるりとするのはどうだろうか。端は無くなる。

 宇宙空間が曲がっていて(むろん本当は物体の作用だろうが。つまり物体が存在するから、空間があると錯覚する)、光は一周するならば、恒星の光もそうであろう。したがって、観測される恒星の光の1/2の数が、恒星の個数である。このことは、天文学ではどうなっているのだろう?

作用(の種類と程度)の同定/作品同一性

2010年03月22日 15時37分53秒 | 美術/絵画
2010年3月22日-4
作用(の種類と程度)の同定/作品同一性

 一つの正方形や長方形の色面が持つ(=人にとってそのように作用すると感じられる)力のベクトル(または場の種類と程度)。

 ダイヒャーの『ピート・モンドリアン』の図版で見た判断でだが、モンドリアン作品でなかなか良いと思うのは、
  「黄、黒、青、赤、灰色の絵画2」(63頁)。
 空白部とされる中心部分を、もっと明るく輝かしくすると、より良いかもしれない。

  「2本の線のある菱形のコンポジション」(70頁)。
 黒の垂直線は太くして、位置はもう少し左にし、水平線は細くして少し上に位置させるが、二つの線が交わった後でできる左下の白い面は二等辺三角形にならないように、かつ全体的な動的バランス(つまり微妙にずらす)を取るように配置する。こうするとより完璧な作品になるかもしれない(むろん、たんに個人的好みにすぎないかも)。

  「2本の線のある菱形のコンポジション」(73頁)。
 画期的には違いないし、かなり良いが、(わたしの基準で)傑作かどうかは現物を見なければなんとも言えない。

 さて、たとえば69頁の「赤、黒、青、黄のコンポジション」(63頁)の図版では、白い面にヒビがあちこち入っていると見て取れる。乾燥を急いで石油を使ったためかもしれないが、おそらくヒビは作者の意図しなかったことだろう。
 物は相互にあるいは近隣環境に存在する物体(気体や放射線なども含む)と様々に変化する。同一とされる作品でも、鑑賞者が同じで作品の環境が同一でも、日が違えば異なるだろう。鑑賞者の気分とかの状態が違うかもしれないし、作品の一部の絵具がはげ落ちたり劣化しているかもしれない。作者としては、それにも耐えるように耐光性や耐久性のある素材を使うといったことをするかもしれない。逆に、はかない世界を良しとして、はげ落ちるままにするかもしれない。たとえば、何年か後にちょうどよくなる、あるいは作者の意図する理想状態となることを願うかもしれない。そんなしかけをしたらしい例は、クレー。
 たとえば源氏物語絵巻を修復する、あるいはCGで『再現』して液晶画面で見る。それはいったい、どういうことか。→復元。複製。複数性/唯一性。(フルクサスの)マルチプル。曲と演奏。

 或る演奏会に出かけて、真ん中の席で或る曲を聴くとしよう。オーケストラが演奏することによる音響空間は、その会場としては唯一である。しかし、端っこの席で聴いている人の耳に届く振動内容と、真ん中の席での振動内容とは異なる。わたしの経験では、キタラでのピアノの位置からは真横よりは少し前で右端っこにやや近い席でのピアノ協奏曲では、ピアノの音はほとんど聞こえなかった。確か、A席以上は売り切れていて、B席だったが5,000円した。想像力を動員するのもねぇ、さすがにピアノ音なしのピアノ協奏曲には閉口した。(過去のストレス発散のため、ここで開口した。)