今回はギャロッピンググース・トレイルに残る木造トレッスル橋を見に行きますが、予備知識が必要なのでちょっと付き合ってもらいますよ。
図は1910年代のカナダ ブリティッシュコロンビア州はバンクーバー島のビクトリア周辺の鉄道の路線図です。現在は全て死んでしまっていますが100年位昔はそこそこ鉄道が通っていたんですよ。
右から順に簡単に説明していきましょう。
オレンジの線がビクトリア&シドニー鉄道 (Victoria & Sidney Railway; V&S) です。名前通り、ビクトリアとサーニッチ半島の町シドニーを結ぶ鉄道でした。
途中で線路が二股に別れていますが、右に伸びるのがシドニーの町への線路。左手に伸びるのはパトリシア湾の港へ続く線路です。ここから鉄道連絡船で本土と行き交いしていました。
1892年設立、1894年開通でしたが、経営が振るわず1919年までにカナディアンナショナル鉄道(CN)に買収されてしまった短命な鉄道でした。
V&Sに関してはビクトリア在住時はほとんど関知していなかったため、ろくすっぽ調査していませぬ・・・。ビクトリア側のCN引継ぎ区間は次の年に一度その痕跡を辿ってみましたが、また別の話です。
ただし廃線跡は、路線の大部分が遊歩道のロックサイド・トレイル Lochside Trail に転用されて残っているはずですので、訪れた際にそこを辿るのも良いと思います。
次に青色の線がエスクイモルト&ナナイモ鉄道 (Esquimalt & Nanaimo Railway; E&N)です。ビクトリア近郊のエスクイモルトには海軍の軍港があり、バンクーバー島第2の都市のナナイモには本土からの鉄道連絡船の基地がありました(本土のバンクーバーからバンクーバー島へ直線距離で一番近いのはビクトリアではなくナナイモなのだ)
3社の鉄道の内最後まで生き残った鉄道で、2011年までVIA鉄道の旅客列車マラハット号が走っていました。放置状態ですがまだ線路は残っていて、どこまで本気なのか知りませんがいずれこの鉄道を復活させる動きがあるらしいです。
開通は1883年で、1905年には保有者がカナディアンパシフィック鉄道に移っています。
その後所有者はコロコロ変わって、現在では地上設備はアイランドコリドー財団が所有し、サザンレイルウェイ・オブ・バンクーバーアイランド(SVI)が列車の運行をする形になっています。ただし、上記の旅客列車はもちろん、貨物列車も現在は1本たりとも運行されていません。唯一、本土から連絡船で航走されてきた貨車をナナイモのヤードで入れ換えする事業だけは続いているようです(これも関知していなかったので未調査)
上記の通り線路はまだ残っていますが、この線路に沿うように遊歩道E&Nレイル・トレイルがビクトリア~ランフォード間で整備されていて、気軽に廃線跡巡り・・・もとい休止線巡りができます。
もう一度貼ります。
そして今回の主役となるのが、緑色の線のカナディアンノーザンパシフィック鉄道 (Canadian Northern Pacific Railway; CNoP) です。
1910年に設立されまして、ビクトリアからスーク、ヨーボーを経由してポートアルバーニに至る鉄道として建設される予定でした。が、1928年にヨーボーの少し先のキッシンガーまで延伸したところで計画は凍結されてしまいました。結局鉄道が通ることはなく、道路も繋がってはいるものの好き好んで走りたくないなぁという道です(印象としては林道みたいなものだ
CNoPはカナディアンノーザン鉄道(CNo)の子会社なのですが、この親会社が財政難で1918年に国有化されてCNの一部になります。さらに1919年にCNはV&Sを買収します。
当初は貨物鉄道として建設されましたが1922~1931年の間は旅客輸送もしていました。
貨物輸送と森林鉄道運行は引き続き行われましたが、1957年にキッシンガー~ヨーボー間の廃線を皮切りに路線縮小していき、1990年までにCNはバンクーバー島から消え去ります。最後まで残存していた区間はビクトリアの港湾施設の短い引き込み線等の路線だったはずでして、本線が全廃になったのは1979年だと思われます。
さてそんな歴史を辿ったCNの線路ですが、廃線跡はやはり遊歩道に転用されて、1987年に供用開始されたギャロッピンググース・リージョナルトレイル Galloping Goose Regional Trail という遊歩道に生まれ変わりました。
地図の赤い線の部分、ビクトリアからスーク湖の手前のリーチタウンまでの全長55kmです。終点は何もなくただの行き止まりになっています。このまま線路沿いに行けばスーク湖を抜けてショウニガン湖に出てそこからハイウェイ1号線に合流できればビクトリアまで一筆書きができるのにもったいない・・・。
この遊歩道も廃線跡の線形を忠実になぞっていて、当時を偲びながらウォーキングやサイクリングができます。
中でも私が注目したのは、遊歩道の終盤に登場する2本の鉄道橋です。この橋は木造の橋脚を多数短間隔に配置したティンバートレッスル橋なのです。19世紀の北米の鉄道橋でよく用いられた方式で、丸太が何十本何百本と組み合わさって建てられた幾何学的な光景はとてもアメリカ的で雄大なのです。
たしかネットを徘徊していたら探し当てた記憶でしたが、近所にそれが残っているとあらば行かない訳にはいかないでしょう!人として!
そういうわけなので今日はこれを探し当てることを主目的とし、さらに遊歩道すなわち廃線跡を自転車で走り抜けることを副目的とします。
しかし全線55kmの走破はトーシロにはキツイものがあることから、行きは遊歩道を走らずスークまでバスに乗り、トレッスル橋を見聞後、帰りに遊歩道を走ることにします。
ただし自転車で走るのは途中のランフォードまで。そこからビクトリアまでは別の日に挑戦することにして、ランフォードからはバスに乗って帰ります。それでも約30kmの私にとっては大行軍です。まあその野望は砕け散るんですが後のお話
余談ですがギャロッピンググースというのは直訳すると「駆け回るガチョウ」という意味ですが、アメリカの鉄道に詳しい人ならこの単語の鉄道車両を知っているかと思います。
これはトラックや自動車を改造して線路上を走れるようにした車両のことで、リオグランデ・サザン鉄道が1930年代から使用したものが有名です。
CNでも1920年代に同様の車両で旅客輸送していました(リオグランデ・サザンよりも先!)
ただし細かいことを言うと、当時のCNではギャロッピンググースという呼び名ではなかったそうです。それでもギャロッピンググースはこの手の車両の代名詞になっていることから命名されたのだと思います。
というわけでスーク Sooke まで行きます。
スークまではBCトランジットの#61系統(ビクトリア~ランフォード~スーク)のバスに乗ります。ダウンタウンからだいたい80~90分間くらい乗ります。
ビクトリアからスークまでは道路で40kmありますので路線バスに乗って行きます。しかし調査箇所はバス停から遠く離れているので、自転車も必要です。こういう場合はバスの正面にある自転車用のラックに自転車を載せてバスに乗ります。ちょうど今先客が載せていますね。
路線バスのBCトランジットでは全てのバスに自転車用ラックが付いていて、このような乗車が可能です。
ある所でサイクリングを楽しみたいけど自宅からそこまで自転車行くのは大変だ・・・という場合に、バスを自転車のトランスポーター代わりに使うのです。輪行袋とかそういう手間がないので本当気楽に乗れます。
余談ですが自転車ラックは2台分あるのですがこれが仮に2台とも埋まっていた場合どうなるのか。私も一度そういう場面の当事者になったことがありましたが、その時は次の便を待つように促されました。
この時乗ろうとしたバスは運行頻度の多い系統だったので待つのもアリでしたが、本数の少ないローカル系統だったらどうなるもんなんでしょうかね・・・?
ただ、そんな頻繁にラックが埋まっているのは見かけなかったです。殆どの場合はそもそも自転車が積まれていませんでした。あくまでレジャー用で、通勤にこのラックを使う人というのはあまりいないのかもしれないですね。
この自転車ラックは日本にも普及したらいいんですけど、日本だったら通勤手段として使われて本来想定していた目的が果たされずにあっという間に制度崩壊しそうでどうもね・・・。
移動経路はこんな感じです。
ハイウェイを飛ばしたり山間の幹線を走ったり、変化の多い車窓でした。
とりあえずスークのダウンタウンっぽいところで降りました。この時既にお昼時でしたので、道沿いにあるA&Wでハンバーガーを食べます。この頃になるとルートビアにも慣れたもんでして、半分これを飲みにこの店に入るようなもんです。
食べた後はスークの町の散歩はしないでそそくさとギャロッピンググーストレイルを目指します。
道路を走っていると観光案内所の看板を見つけるので寄ってみることに。
トレッスル橋が本当にあるのか確度を高めておきましょうか。
移動はこう。
スーク郷土資料館・観光案内所 Sooke Region Museum & Visitor Centre というところで、観光案内所と郷土資料館が一緒になった施設です。
せっかくなので軽く見ていきましょうか。
スークにはトゥソーク族 T’sou-ke という先住民がいて、これがスークの語源になったのだと思います。
1843年に毛皮交易社のハドソン・ベイ社がビクトリアに進出し、この時期に先住民とヨーロッパからの移民が接触したとか。
これはその時の人たちが使っていた道具類です。
鉄道関連の展示。
線路、鐘、汽笛、保線用具などなど。
貼られていた路線図によれば、本線以外にも森林鉄道の支線が何本か別れていたようです。
林鉄のレイアウト。
背の高いティンバートレッスル橋。かつてのベアー川橋梁(熊川である)を再現したものですが果たしてどこらへんにあるやら。
正直あまり真剣に見ていなかったので書くこともあまりないです・・・。
屋外展示もあります。
これはベイマツ(タグラスファー)の断面。年輪の数は1,227本あるので、その樹齢は推して知るべし。
ブリティッシュコロンビア州の沿岸やバンクーバー島に自生する樹木でして、建材によく使われます。
年輪図。生え始めは745年とされています。あとは、人間の歴史の節目の時にこの松がどのくらいの太さだったのかが書かれています。
843年に後のフランスとドイツとなるウェルダン条約が発効されたとか、1000年にバイキングがニューファンドランドに上陸したとか、1707年にイングランドとスコットランドが合併して大英帝国が爆誕とか。
灯台もあります。
スークの灯台かと思いきや、バンクーバー島の北端のさらに外れにある小島、トライアングル島に建てられていた灯台でした。
19世紀後半、バンクーバー島西海岸は険しい海岸とサンゴ礁により「太平洋の墓場 Graveyard of the Pacific」と呼ばれるほどで、一説には500隻もの難破船が相次ぐ海域でした。
この対策としてカナダ政府は島沿岸に西海岸救命道 West coast lifesaving trail を整備します。これは難破した船の人間が避難する時に通行するよう整備された道です。5mile(8km)ごとに避難所を建て、そこにはサバイバルグッズや難破を通報するための無線通信装置も置かれていました。
今でも全長75kmの長大な遊歩道として現存していて、夏にはハイカーが多く訪れるといいます。
で、この避難道と並行して建設されたのが灯台でした。この灯台は先の通りトライアングル島に1910年に建てられたものです。この島は小高い山形になっていて、その頂上海抜210m地点に建てられました(まん丸の地球では高い位置にあるほど遠くから見えるので
ただ、標高が高いので雲隠れしやすく、おかげで灯台の光が見えないという本末転倒な時もあったらしく・・・。
絶海の孤島の灯台守はあまりに負担が大きかったらしく、10年後にはこの灯台は廃止されてしまいました。
といったところで今日はここまで。後編ではトレッスル橋を探索します。
後編へ→
図は1910年代のカナダ ブリティッシュコロンビア州はバンクーバー島のビクトリア周辺の鉄道の路線図です。現在は全て死んでしまっていますが100年位昔はそこそこ鉄道が通っていたんですよ。
右から順に簡単に説明していきましょう。
オレンジの線がビクトリア&シドニー鉄道 (Victoria & Sidney Railway; V&S) です。名前通り、ビクトリアとサーニッチ半島の町シドニーを結ぶ鉄道でした。
途中で線路が二股に別れていますが、右に伸びるのがシドニーの町への線路。左手に伸びるのはパトリシア湾の港へ続く線路です。ここから鉄道連絡船で本土と行き交いしていました。
1892年設立、1894年開通でしたが、経営が振るわず1919年までにカナディアンナショナル鉄道(CN)に買収されてしまった短命な鉄道でした。
V&Sに関してはビクトリア在住時はほとんど関知していなかったため、ろくすっぽ調査していませぬ・・・。ビクトリア側のCN引継ぎ区間は次の年に一度その痕跡を辿ってみましたが、また別の話です。
ただし廃線跡は、路線の大部分が遊歩道のロックサイド・トレイル Lochside Trail に転用されて残っているはずですので、訪れた際にそこを辿るのも良いと思います。
次に青色の線がエスクイモルト&ナナイモ鉄道 (Esquimalt & Nanaimo Railway; E&N)です。ビクトリア近郊のエスクイモルトには海軍の軍港があり、バンクーバー島第2の都市のナナイモには本土からの鉄道連絡船の基地がありました(本土のバンクーバーからバンクーバー島へ直線距離で一番近いのはビクトリアではなくナナイモなのだ)
3社の鉄道の内最後まで生き残った鉄道で、2011年までVIA鉄道の旅客列車マラハット号が走っていました。放置状態ですがまだ線路は残っていて、どこまで本気なのか知りませんがいずれこの鉄道を復活させる動きがあるらしいです。
開通は1883年で、1905年には保有者がカナディアンパシフィック鉄道に移っています。
その後所有者はコロコロ変わって、現在では地上設備はアイランドコリドー財団が所有し、サザンレイルウェイ・オブ・バンクーバーアイランド(SVI)が列車の運行をする形になっています。ただし、上記の旅客列車はもちろん、貨物列車も現在は1本たりとも運行されていません。唯一、本土から連絡船で航走されてきた貨車をナナイモのヤードで入れ換えする事業だけは続いているようです(これも関知していなかったので未調査)
上記の通り線路はまだ残っていますが、この線路に沿うように遊歩道E&Nレイル・トレイルがビクトリア~ランフォード間で整備されていて、気軽に廃線跡巡り・・・もとい休止線巡りができます。
もう一度貼ります。
そして今回の主役となるのが、緑色の線のカナディアンノーザンパシフィック鉄道 (Canadian Northern Pacific Railway; CNoP) です。
1910年に設立されまして、ビクトリアからスーク、ヨーボーを経由してポートアルバーニに至る鉄道として建設される予定でした。が、1928年にヨーボーの少し先のキッシンガーまで延伸したところで計画は凍結されてしまいました。結局鉄道が通ることはなく、道路も繋がってはいるものの好き好んで走りたくないなぁという道です(印象としては林道みたいなものだ
CNoPはカナディアンノーザン鉄道(CNo)の子会社なのですが、この親会社が財政難で1918年に国有化されてCNの一部になります。さらに1919年にCNはV&Sを買収します。
当初は貨物鉄道として建設されましたが1922~1931年の間は旅客輸送もしていました。
貨物輸送と森林鉄道運行は引き続き行われましたが、1957年にキッシンガー~ヨーボー間の廃線を皮切りに路線縮小していき、1990年までにCNはバンクーバー島から消え去ります。最後まで残存していた区間はビクトリアの港湾施設の短い引き込み線等の路線だったはずでして、本線が全廃になったのは1979年だと思われます。
さてそんな歴史を辿ったCNの線路ですが、廃線跡はやはり遊歩道に転用されて、1987年に供用開始されたギャロッピンググース・リージョナルトレイル Galloping Goose Regional Trail という遊歩道に生まれ変わりました。
地図の赤い線の部分、ビクトリアからスーク湖の手前のリーチタウンまでの全長55kmです。終点は何もなくただの行き止まりになっています。このまま線路沿いに行けばスーク湖を抜けてショウニガン湖に出てそこからハイウェイ1号線に合流できればビクトリアまで一筆書きができるのにもったいない・・・。
この遊歩道も廃線跡の線形を忠実になぞっていて、当時を偲びながらウォーキングやサイクリングができます。
中でも私が注目したのは、遊歩道の終盤に登場する2本の鉄道橋です。この橋は木造の橋脚を多数短間隔に配置したティンバートレッスル橋なのです。19世紀の北米の鉄道橋でよく用いられた方式で、丸太が何十本何百本と組み合わさって建てられた幾何学的な光景はとてもアメリカ的で雄大なのです。
たしかネットを徘徊していたら探し当てた記憶でしたが、近所にそれが残っているとあらば行かない訳にはいかないでしょう!人として!
そういうわけなので今日はこれを探し当てることを主目的とし、さらに遊歩道すなわち廃線跡を自転車で走り抜けることを副目的とします。
しかし全線55kmの走破はトーシロにはキツイものがあることから、行きは遊歩道を走らずスークまでバスに乗り、トレッスル橋を見聞後、帰りに遊歩道を走ることにします。
ただし自転車で走るのは途中のランフォードまで。そこからビクトリアまでは別の日に挑戦することにして、ランフォードからはバスに乗って帰ります。それでも約30kmの私にとっては大行軍です。
余談ですがギャロッピンググースというのは直訳すると「駆け回るガチョウ」という意味ですが、アメリカの鉄道に詳しい人ならこの単語の鉄道車両を知っているかと思います。
これはトラックや自動車を改造して線路上を走れるようにした車両のことで、リオグランデ・サザン鉄道が1930年代から使用したものが有名です。
CNでも1920年代に同様の車両で旅客輸送していました(リオグランデ・サザンよりも先!)
ただし細かいことを言うと、当時のCNではギャロッピンググースという呼び名ではなかったそうです。それでもギャロッピンググースはこの手の車両の代名詞になっていることから命名されたのだと思います。
というわけでスーク Sooke まで行きます。
スークまではBCトランジットの#61系統(ビクトリア~ランフォード~スーク)のバスに乗ります。ダウンタウンからだいたい80~90分間くらい乗ります。
ビクトリアからスークまでは道路で40kmありますので路線バスに乗って行きます。しかし調査箇所はバス停から遠く離れているので、自転車も必要です。こういう場合はバスの正面にある自転車用のラックに自転車を載せてバスに乗ります。ちょうど今先客が載せていますね。
路線バスのBCトランジットでは全てのバスに自転車用ラックが付いていて、このような乗車が可能です。
ある所でサイクリングを楽しみたいけど自宅からそこまで自転車行くのは大変だ・・・という場合に、バスを自転車のトランスポーター代わりに使うのです。輪行袋とかそういう手間がないので本当気楽に乗れます。
余談ですが自転車ラックは2台分あるのですがこれが仮に2台とも埋まっていた場合どうなるのか。私も一度そういう場面の当事者になったことがありましたが、その時は次の便を待つように促されました。
この時乗ろうとしたバスは運行頻度の多い系統だったので待つのもアリでしたが、本数の少ないローカル系統だったらどうなるもんなんでしょうかね・・・?
ただ、そんな頻繁にラックが埋まっているのは見かけなかったです。殆どの場合はそもそも自転車が積まれていませんでした。あくまでレジャー用で、通勤にこのラックを使う人というのはあまりいないのかもしれないですね。
この自転車ラックは日本にも普及したらいいんですけど、日本だったら通勤手段として使われて本来想定していた目的が果たされずにあっという間に制度崩壊しそうでどうもね・・・。
移動経路はこんな感じです。
ハイウェイを飛ばしたり山間の幹線を走ったり、変化の多い車窓でした。
とりあえずスークのダウンタウンっぽいところで降りました。この時既にお昼時でしたので、道沿いにあるA&Wでハンバーガーを食べます。この頃になるとルートビアにも慣れたもんでして、半分これを飲みにこの店に入るようなもんです。
食べた後はスークの町の散歩はしないでそそくさとギャロッピンググーストレイルを目指します。
道路を走っていると観光案内所の看板を見つけるので寄ってみることに。
トレッスル橋が本当にあるのか確度を高めておきましょうか。
移動はこう。
スーク郷土資料館・観光案内所 Sooke Region Museum & Visitor Centre というところで、観光案内所と郷土資料館が一緒になった施設です。
せっかくなので軽く見ていきましょうか。
スークにはトゥソーク族 T’sou-ke という先住民がいて、これがスークの語源になったのだと思います。
1843年に毛皮交易社のハドソン・ベイ社がビクトリアに進出し、この時期に先住民とヨーロッパからの移民が接触したとか。
これはその時の人たちが使っていた道具類です。
鉄道関連の展示。
線路、鐘、汽笛、保線用具などなど。
貼られていた路線図によれば、本線以外にも森林鉄道の支線が何本か別れていたようです。
林鉄のレイアウト。
背の高いティンバートレッスル橋。かつてのベアー川橋梁(熊川である)を再現したものですが果たしてどこらへんにあるやら。
正直あまり真剣に見ていなかったので書くこともあまりないです・・・。
屋外展示もあります。
これはベイマツ(タグラスファー)の断面。年輪の数は1,227本あるので、その樹齢は推して知るべし。
ブリティッシュコロンビア州の沿岸やバンクーバー島に自生する樹木でして、建材によく使われます。
年輪図。生え始めは745年とされています。あとは、人間の歴史の節目の時にこの松がどのくらいの太さだったのかが書かれています。
843年に後のフランスとドイツとなるウェルダン条約が発効されたとか、1000年にバイキングがニューファンドランドに上陸したとか、1707年にイングランドとスコットランドが合併して大英帝国が爆誕とか。
灯台もあります。
スークの灯台かと思いきや、バンクーバー島の北端のさらに外れにある小島、トライアングル島に建てられていた灯台でした。
19世紀後半、バンクーバー島西海岸は険しい海岸とサンゴ礁により「太平洋の墓場 Graveyard of the Pacific」と呼ばれるほどで、一説には500隻もの難破船が相次ぐ海域でした。
この対策としてカナダ政府は島沿岸に西海岸救命道 West coast lifesaving trail を整備します。これは難破した船の人間が避難する時に通行するよう整備された道です。5mile(8km)ごとに避難所を建て、そこにはサバイバルグッズや難破を通報するための無線通信装置も置かれていました。
今でも全長75kmの長大な遊歩道として現存していて、夏にはハイカーが多く訪れるといいます。
で、この避難道と並行して建設されたのが灯台でした。この灯台は先の通りトライアングル島に1910年に建てられたものです。この島は小高い山形になっていて、その頂上海抜210m地点に建てられました(まん丸の地球では高い位置にあるほど遠くから見えるので
ただ、標高が高いので雲隠れしやすく、おかげで灯台の光が見えないという本末転倒な時もあったらしく・・・。
絶海の孤島の灯台守はあまりに負担が大きかったらしく、10年後にはこの灯台は廃止されてしまいました。
といったところで今日はここまで。後編ではトレッスル橋を探索します。
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