心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

余白の意味

2007-10-21 | 書の話


書は、黒白(こくびゃく)の芸術、余白の芸術などといわれる。
書はたいていは白い紙に墨で書かれていて、観る人は墨(黒)に目が
行きがちだけど、その黒は、実は余白の白によって生かされている。

写実性を重視する西洋画では、見えるもの全てをキャンバスに描き込んで
あるいは背景を塗り込めて、余白をなくしてしまうが、
それに対して東洋画は白の空き(余白)を敢えて残すことで、その余白に
書かれたもの+α(アルファ-)の意味を暗示させている。

この余白は、「無」の思想を重視する東洋芸術ではとても重要であり、
そこには暗示性そして余韻といったものを求めている。

余白とは、ただむやみに空ければいいというものではない。
無駄なものは削って、本当に必要なもの(本質)だけを表現し、あとは
空白にしておく。
そこで、黒と白が響きあって調和が生れた時、余白が生かされたことになる。

書の表現においては字間、行間、点画間、紙の天地左右、書体、書風、
文字数によっても余白のあり方はさまざま。
そして「白を制する」か「白を生かす」かによって、全く違う印象の作品になる。

書の魅力は、書法とこの余白の美でもあり、そこには精神性と思想がある。
また、生け花、俳句、石庭などの文化もこの余白の美が隠されている。

書の余白は、古典を何度も何度も眺めて臨書していると、だんだん見えてくる。
先生のお手本は、あくまでもヒント。
大事なのは、まずは自分の五感で古典とじっくり向き合うことだと思う。

今回は3枚書きました~なんてのは、自慢になりませんよ~

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感じるままに

2007-10-20 | 前衛・抽象


それまで自分が、抽象的なものを表現するなんて思いもしなかった。

初めは何がなんだかわからないまま、見よう見まねで書いていた。
文字を基本に、解体あるいは合体、へんとつくりの大小、それらを空間に
どう配置するか、それには瞬発力とバランス感覚を必要とした。
筆に限らずダンボールを使って書いたり、時には雑巾やスポンジに墨を含ませ
真っ黒になりながら、夢中で作品を作っていた時期がある。

理論はわからないまま、でもなんだか楽しかった。
書の臨書と違って、自分をさらけ出していく作業は苦しくもあったけど、
こうした抽象表現を体験できたことで、表現することの楽しさを
教えてもらったんだなあって思う。

前衛はわからないから、絵は描けないから、字は下手だから・・と、
なんでも体験する前から遠慮するのは、もったいない。
表現には、こうでなきゃいけないっていうきまりはないんだから
下手くそって思われたらいやだなぁなんて気にしないで、'まずは’
感じるままを表現すればいいのだ~。(・・ってそれが難しいんだけどね)

技法や構図にばかりこだわって、うまくまとめようとした作品(日常)は
結果的に不毛。
どんな小さなものでもいい、自分の奥にしまい込んで忘れてしまっている
心のまま、感じるままを引き寄せるには、固定概念をとっぱらって、
本当の自分が喜ぶことを良しとする勇気も必要。

まずは、表現するって楽しい!って思えたら、どんどん知りたいことが
増えてくる。勉強したいって思えてくるはず。

写真は甲骨文字の「今昔」を、遊んでみました~。
なんて読むの?どうしてこれが「今昔」?なんて考えないで、
それぞれに何でもいいから感じて頂ければ幸いです。
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日本の文化って

2007-10-19 | つれづれ


今週の絵手紙教室は、なんだか充実していた。
はがきや半紙に描かれた宿題を、みんなで鑑賞しながら、
空間の活かし方の話になった。

書は、空間と時間が大事。
日本の文化は、空間と時間を表現しようとする文化であると思う。

たとえば日本画や俳画、浮世絵といった絵の世界も、芸能の世界の能や狂言、
歌舞伎、長唄や落語、浪花節にしたって日本人ならではの独特の「間」がある。

お茶室、枯山水、和菓子、会席料理や、武道、華道、そして日本語を介しての
人との付き合い方にもこの「間」は存在し、普段は忘れているようでも、
私たちは自然と、なんだか居心地のいい「間」を持っているんだと思う。

伝統文化はちょっと窮屈だけど、やっぱり私たちは知らず知らずのうちに
どこかで日本人をしているものなんですよね~。

だから理屈をあれこれ聞くよりも、本来持っているその感覚をたぐり寄せれば、
あるいは日々求めていれば「日本人として」しっくりくる空間を
見つけられるんだと思う。

な~んて言うと、昨日も書の教室で
「なんだかわかるようなわかないような・・」と困った顔をされちゃうんだけど。

もっと日本文化を楽しみたい~

そうそう、従姉妹からの情報。
あした20日(土)15時~(開場14時)藤沢の遊行寺本堂で「説経節」による
宮沢賢治の世界というのがあるとのこと。チケットは1500円。
鎌倉時代に発祥した「語り芸」で現在は消滅しかけている古典芸能だそう。

未知の世界だけど、ちょっと興味をそそります。。

遊行寺:http://www.jishu.or.jp/ 
小田急江ノ島線 藤沢駅北口より徒歩15分
神奈中バス「大船駅西口行」(渡内・関谷インタ-経由)前沢橋下車徒歩2分
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無為

2007-10-18 | 禅語・般若心経


無為は「ぶい」と読む時と「むい」と読む時がある。
どちらも自然に任せて作為のない事とあるけれど、「無為に過ごす」と使うと
あまり良い印象ではなくなる・・かな。
また、老子のことばに「無為自然」ということばがある。
同じく余計な欲は持たず、作為なく自然に生きることを説いている。

昨日、自宅で様々な野菜を作っていらっしゃる某研究所のY先生から、
ご自慢の野菜をあれこれ頂いた。
大根、枝豆、生で食べられるほうれん草、イタリアンパセリ、玉葱、人参。

ほうれん草は虫食い葉だけど、無農薬の証。大根はもちろん葉付き。
人参や枝豆、大根、玉葱は小さめだけど、充実感のある力強いからだつき。

どれも土付きで、その土の匂いと一緒に、Y先生の畑を耕し、種を蒔き、
大きくなれや~と丹精込めるお姿が浮かんできて、誠にありがたや~。

改めて、しみじみとニマニマしながら眺めてしまった。
君たちは土の匂いを嗅ぎながら種から芽を出し、太陽や雲を眺め、
風や雨に当たりながら、それぞれに成長してきたんだね~って。

そしてまさに無為で素朴な野菜たちの風貌に加え、作った人の顔が見える
というのは、更に味を美味しくするもの。
早速、昨日は頂いた野菜たちで食卓は大賑わいだった。
Y先生!ご馳走さまでした~。 またお待ちしてます

私もなるべくなら、無為自然でいたいなぁ。
無理無理って思わないで、そうなりたいって思い続けたら、ちょっとづつでも
近づけるかなぁ・・・。


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一念通天

2007-10-17 | つれづれ


ただひたすらに、祈る心を持っている人が羨ましいと思うことがある。
人の目を気にせず手を合わせ、何かのために、誰かのために、
真摯に信じて祈る姿は美しいなぁ・・。

以前、縁あってだるま市のお手伝いをさせて頂いたことがあった。
縁起物のだるまを買うと、魂を入れる儀式として火打ち石でお清めしながら
威勢良く「よよよいっ よよよいっ よよよいよいっ」と声をかけてくれる。

師走のある日、その日もだるまを求める人でにぎわっていた。
一人の年配の男性が小さなだるまを買って、代金を渡してすぐに
おつりをお財布に入れる間もなく、その儀式が始まった。

すると男性は大慌てで被っていた帽子を脱ぎ、おつりを持ったまま
大事そうにだるまを抱え、頭を下げてじっと何かを祈っていた。

人々の喧騒の中、ふと目にしたその光景に、思わず涙が出ちゃった。
人間がいとおしいと思った瞬間だった。

それまで私は、真摯に手を合わせる姿を見られるのが、どこか照れくさかった。
それはたぶん、心がざわついていて自分から離れていたからだと思った。

一念通天。
なんて美しいことば。
そしてなんて清々しい心なんだろう。

十月も中旬、今頃だるま屋さんは年末年始に向けて大忙しの季節に突入だ。
誰かの祈りや願いを見守るだるまさんにも感謝をしつつ、
それぞれに一念通天を信じませう。

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ただ居てくれるだけで

2007-10-16 | 


自然界は弱肉強食が常だ。
そして合わないもの同士はよくわかっていて、敢えて近づかないように
しているらしい。

うちはその自然界に逆らって、猫とインコが同居しているから、
あまり偉そうに言えないけれど・・・。

人はなるべく皆と仲良くとか、嫌われないようにとか、中途半端な良識から
相性の悪い人とも表面的にうまく付き合おうとする。
もちろん仕事上は、それも仕方がないこともある。

でも合わない=嫌いと思わないで、合わない=合わないでいいんだと思う。
表面的に帳じりを合わせて付き合う方が、私はオソロシイ。

無理に合わせることはないって思う。
そして嫌いになる必要もない。キライはエネルギーがいるから。

かく言う以前の私は、合わない人にもどこか接点を求めては、
勝手に傷ついていた。
でも、うちの猫とインコを見ていて、ふと思った。

お互いの距離感を持って尊重しあっていれば、食うか食われるかの
争いもなくなる。
さわらぬ神にたたりなし~いいんでない?って思うようになった。

動物は賢いなあってつくづく。
そして私は、そんな彼女らがただ居てくれるだけで心和むのです。

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Thinking ?

2007-10-15 | 前衛・抽象

今は家に居ながらにして、テレビやネットがあればあらゆる情報が得られる。
けれど、一方的な情報やコメンテーターの意見を、聞き流しているつもりが
改めて思考することなく、自分の意見としてインプットされてしまうこともある。

思考に頼りすぎていると、自分の魂が動く(感激・興奮)ことを忘れてしまう。
「好きなこと」は、とても単純で本能的なところにあるものだから、
計算できない感情的な閃きだったり、直観力だったりする。

頭でっかちは、本来持っているたくさんの感情を失いかねない。
正しいこと(規範や常識)が全てではないって思う。
人間は曖昧で矛盾していていいのだ~。

そう思うと、もっと自由に生きられる。
もっと本質的に豊かになりたい。

音楽で言うならばJAZZのように生きたい。
人と人のつながりには指揮者なんていらない。
クラリネットが鳴り出せば、自然にピアノが加わりドラムがリズムを刻み、
誰かが歌い始める・・・そんな自然でおおらかで自由な人間関係に憧れる。

Thinking? (考え中?)
それより外へ出て、たくさんの人とキャッチボールをしよう!
まずは「好きなこと」の仲間から。

自分を知るために、相手を知るために、体温を感じる距離で。
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絵になるような個性を持って

2007-10-14 | つれづれ

人間の考えることは、たかがしれている。
人間は皆同じなんだと思う。

教育現場をはじめ、世間では「個性尊重」ということばが、落としてはいけない
キャッチボールのように、無責任に飛び交っている。
そもそも「個性」ってなんだろう。

奇抜なかっこうをしたり、とっぴょうしもない色使いをすることが個性ではない。
奇をてらったことは、実はやっている本人もだんだんわけがわからなくなる。
そのわけがわからなくなった状態が、今の個性教育なのではないかな。

芸術は上手い下手ではなくて、個性がなければならない。
その「芸術」に必要なものは、やはり奇をてらったものではなく、大切なのは
普通の人が普通に感じる普遍性だと思う。

つまり、個性=奇抜ではないのだ。
奇抜なものは、長続きしないにせもの。

「個性」とは、普通の中にある当たり前だけど気がつかなかったものを、
見つけることのできる素直で新鮮な目、心、力。

私の個性ってなんだろうって不安になったら、まずは自分に素直になること。
日々の生活の中での感動や、衝撃、驚き、あるいは自分の感性に響くもの
ひとつひとつに素直に心を向けることで、自分の「個性」が見えてくるはず。

たとえば嫌いなものも食べてみる、見てみる、聞いてみる、体験してみることで、
逆に好きなもの、探しているものが明確になってくる。

絵になるような個性とは、ハッとするようなものばかりではない。
誰も気づかない所で咲いている名も知らぬ雑草に、胸を打つことだってある。
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好きなことさえあれば

2007-10-13 | つれづれ


生きていれば、嫌いな人にも出会うし、楽しいことばかりじゃない。
どうにもならない現実や、抱えきれない問題に絶望的になる時もあるかもしれない。

でも、ひとつでも好きなことさえあれば、生きていける。
好きなことをやっている時だけは、苦しさも居たたまれない思いも忘れられる。
時々あれこれ言い訳作ってサボっちゃうけど、それは情熱が足りないだけ。

好きなことをやっていると、同じような仲間に出会える。
それまでの小さな世界から、もっと自由で明るい未来を描くこともできる。

会うと、「何か面白いことない?」が口癖の人がいる。
面白いことは、その辺に転がってはいないのに。
面白いことは、自分が作っていくことなのに。

たったひとつでいい、好きなことさえあれば、自分の未来は自分で掴める。
その未来は、何も有名になったりお金持ちになることばかりじゃない。

未来とは、自分が自分になること。
自分で自分を楽しめること、自分を愛せること、自分を活かせること、
そして、その悦びを分かち合えること。

好きなことさえあれば、いつかこんな私でも誰かの役に立てることが
あるかもしれない。



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自画自賛

2007-10-12 | つれづれ


母と書道教室を始めて来年で20年になる。
きっかけは、母が郵便局主催のカルチャー教室の講師を頼まれ、
あまりの応募者の多さに、助っ人として私も参加したことから。

私はまだ書を始めて間もない頃で、それでも書くことが好きで楽しくて
仕方がなかったから、臆することもなく、70人位を前に書いて見せたりしていた。
その頃の作品を今見ると、技術的には恥ずかしくてとても見られないものも
あるけれど、どこか生き生きとしていて、楽しそう。(これも自画自賛)

カルチャー修了後も続けたいという方々と始めた教室だったけれど、母と二人、
迷い、時には傷つきながらも、やっとここまできたという感慨もひとしお。

いわゆる伝統的な書風の母と比べて、私のは荒削りで一般的に書を学びたい人の
イメージからはかけ離れていたから、面と向かって「あなたのはどこがいいのか
わからないわ」と、よく言われたものだ。

そんな風に「叱咤激励」されても、不思議と悔しさや焦りはちっとも感じなかった。
「いいの、いいのよん」って、心はニコニコしていた。
それはきっと、自分が好きな世界がはっきりとあって、それを信じていたからかな。

謙虚が美徳の日本人からしたら、半紙のお手本を書きながら「いい感じ!」って
自画自賛する私の姿は、なんとも滑稽に見えていたかもしれない。

でも、夢中になれる、ということは最大の才能であり、たとえ他人から見たら
理解できないことであっても、本人にしたら何よりもの喜びなのだ。

「我ながら、なかなかいいんでない?」と、自分を褒めて自分に惚れる、
そして好きなことを信じて、やり通して生きていけたら、しあわせっ。

20年かかったけれど、今は私と一緒に自分らしい表現を探している人が
ちょっとだけ増えて、うれしい。
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