木簡節臨(半紙1/3×3)
うひひひ。
いと いとし
なんともとぼけた表情が好き。
「谷」とか「綌」の、ひょえ~っ 困りました~って顔がいいでないですかぇ~
おっとりとした線、全体にころんと丸みを帯びた体型。
誠実で、あんまり器用ではなくて、でもあったかくて、いつもやさしい笑顔で。
特に目立たないんだけど、居なくなるとなんだか寂しいなって感じて。
無防備で、無条件なあったかい愛情を感じる。
まっすぐ過ぎて傷つかないか心配になる。
こんな人に出会ったら、きっとちっぽけな自分が恥かしくなって、正座したくなる
臨書とは、感受すること。
技術は、感受なくして得られるものじゃないって思う。
臨書とは、生きるということ。
ただひたすらに、何かに役立てようなどと考えもせず、毎日を自分らしく生きること。
文字の形とか線の勢いとか、そんなものを理屈で議論するよりも、
みっともない姿でもいい、心の底からの感動が震えているような臨書がしたい
木簡節臨 (半紙)
「之」の終筆の何とも堂々とした姿!
ど~んとこい!受け止めてあげるぞよっていう、頼もしさに惚れ惚れ。
←原本
書いた人は曲がったことが嫌いで、背筋をピンと伸ばして、歩幅なんかもすごく
大きくて、ずんずんと胸を張って前へ進むタイプかな・・とかあれこれ想像してみる
この右払いは、書いていても気持ちがよくて、書き終わると鼻息が荒くなる。
お行儀よく半紙の中に収めようとして書くと、どこか萎縮してしまう。
紙に向かい、背筋を伸ばして、両腕を大きく2・3度回転させて、「おっっし!」って
気合を入れて、紙の中ではなくて、紙の外の空気を全部抱え込むような
大きな気持ちで書くべし・・とな
隣の字とぶつかることなど心配せず、ガチンコしたらしたでよいのであ~る。
大事なことは結果ではなく、いかにこのスケールを表現できるか・・なのだから。
そう・・評価が大事なのではない。
評価されることを待つのではなく、自分が好きでたまらない、書きたくてたまらない、
まずはそれを実感できるかどうか、それが大事
人生もまた然り。
何の得にもならないことでも、なんでそんな無駄なことをと言われようとも、
泥臭かったり、不器用だったり、かっこ悪くても、自分はこんな風に
納得してやっているんだという、まっすぐで熱いものを持っていたいです。
たったひとつでもいいから・・
般若心経の一節 「能除一切苦」
能く(十分に)一切の苦を除き・・・
一切の苦を除くなんてことはできっこないけれど
ついあれこれ愚痴がこぼれるとき、一切は「空」なんだから・・なんて説いてみても
そんなの理屈ではわかってるけどね・・と言いつつ、なかなか受け入れられなかったり
でもね、私にとってはそれは理屈じゃないんだな・・って思う。
ひとつの哲学っていうか、救いというか。。
いやだなって思うことや、心が痛かったり不安だったり、そういう苦しみとかから
解放されたいから、自分で選んで納得して、そうしようって思えたら、
それは宗教とかいうよりも、私の価値観のひとつになるわけで。
ものごと、理屈で考えるから、苦しくなるような気がする。
こうあるべきなのに、こうして欲しいのに、なぜ私だけが・・・と、理屈で追い回すと
苦しくなるのは自分なのに、それに気づかずにグルグルグル・・・。
「能除一切苦」
そんなのできっこない・・って思ったら、それまで。
そうなりたいなって思えたら、めっけもん。
ものごと、否定からではなく、肯定からはじめよう
10/22のブログ でもご紹介した金文は、鋳物に鋳られた文字。
甲骨文よりも画数も多くなり、曲線があったり、絵文字的だったりして
どれもどこか愛嬌がある。
←原本
木簡とは反対に、勢いよりもじっくり粘ってバランスを確かめながら書く。
線はなるべく一定のリズムで、でも時々メリハリをつけて。
回りは、ティッシュを丸めて軽く墨をつけたものでトントンと叩いて
鋳物の感じを出してみたかったのだけど。
真っ白の中に文字があるのと、こうして囲った中にあるのとでは、
また印象が違ってくる。
囲った割りに、宇宙空間にたゆたっているように見えません ?
金文は、「溜め」が大事。
木簡のように勢いをつけて書くのではなくて、線の中に力を溜めて
墨が筆の先に下りてくるのを感じながら書く。
その感触は、心が落ち着いている時の呼吸と似ていて、何とも心地よく。
でもつい焦って「待てない」呼吸で書くと、バランスは崩れる。
半紙にたった四文字を書くにも集中力が持続しなかったり・・なんてことも。
結果をすぐに確かめたくて、最後の文字がぞんざいになったり。
「待つこと」
それがなかなかできないわけで。
書でも、日々の中でも。
金文は何も語らないけれど、「待つこと」の大切さを教えてくれる気がする
木簡節臨 (半紙)
人はなぜ迷うのか
それは自分を飾ろうとするから。
人を羨んだり、自分を卑下したり、つい比べてしまうから
たとえば上手に書こうとか、「恥かしくない」ようにとか、意識的に表面的なことに
かかずらわっていると、書というものは、自分から遠ざかるような気がする。
自分から離れた書には迷いがあり、見る側にしたら居心地の悪いものになってしまう。
木簡の線を眺めていると、嘘がつけなくなってくる。
飾ったって駄目だ。無心に自分の力量を出しきればいいんだと思えてくる。
素直な心になれたら、それだけで書は楽しくなる。
たぶん人生もまた然り。。
突き抜ける素直な心を無意識裡に持てたなら、迷うことなく自分を発揮できるのにね。
でも、たったそれだけのことがなかなかできないわけで
そんなことを感じながら、今日も木簡に感謝
別枠で(↓)昨日に続いて、展覧会を2つご紹介しますので、ご覧下さいませ~。
まずは、和紙の会社にいた頃、お客様としていらしていた中村孝子さんの個展。
和紙に蝋を用いた独自のドローイング法で、一期一会の表現は書と通じる世界でもあり。
20年以上のおつきあいを頂いているご縁に感謝です。
10/22~11/5まで六本木のストライプハウスギャラリーにて。
詳細はこちらから→ストライプハウス
そして、昨日の巨匠展にも出品されている稲村雲洞先生の社中展、第38回玄同社展
10/29~11/3まで銀座の アートスペースGINZA5 で開催。
10/8のブログ でご紹介した塩川素子(素渓)さんも出品されているので、
是非お立ち寄り下さいませ~。
11/3~11/9 第34回創玄現代書展
銀座 東京セントラル美術館
展覧会もあれこれ、忙しい季節です
芸術の秋。
展覧会シーズンも到来ですね~。 今日は書展を3つご紹介。
①まずは昨日、蘭秀会展 でも利用している会場での第8回暮らしの書展にお邪魔しました。
↑主催者の方の作品 板に絵と書を書かれて
↑石橋犀水千字文臨書 ↑小・中学生の作品 発泡スチロールに
主催者は読売、謙慎書道会の先生のようです。
今日26日は10:00~6:00まで、27日は10:00~4:00まで開催中のようですので
蘭秀会の皆さま~近いのでお時間ありましたら是非。勉強になります!
②そして記事トップの写真は、10/31~11/5まで横浜市民ギャラリーで開催予定の
第21回神奈川書家三十人展。入場無料。
6/11のブログ でもご紹介した、尊敬する 石川芳雲先生 をはじめ 齋藤香坡 仙場右羊
田村空谷、中原茅秋、船本芳雲・・(敬称略)と、そうそうたる方々が出品。
会期中毎日14:00~15:00「出品書家とめぐる書の楽しみ」というイベントがあるようです
③それから10/28~11/2まで銀座鳩居堂画廊では、第32回書壇巨匠展。
毎日書道会最高顧問・奎星会名誉会長 稲村雲洞先生 はじめ、
こちらも書壇を代表する方々のミニ作品展。
書は手習い、そして目習いということばもあり。
是非、本物を体感しにお出かけくださいませ~
木簡一節「候長」 (半紙1/3)
なんでそんなに火を噴くか・・
「長」という字の終筆の、なんとも気持ちのいいこと!
敢えて紙を横に使い、終筆の大胆さをアピールしてみたかった。
そのために「候」は小さめにして、視線は左側にと思って書いてみた。
でも今日のは半紙1/3と小さい紙だったので、欲求不満は否めず。
次回はもっと大きな紙で、書き終わったあとに、は~っとため息が出るような
スカッとしたものを書きたいなぁ
潔さ、それが木簡の最大の魅力。
開き直りと潔さは、ちょっと違う。
開き直りの裏側には、どこかに反発、反論が潜んでいるような気がする。
でも潔さには、汚れも未練もなくさっぱりしているというか・・。
失敗や間違いを犯したとき、まずは逃げ道を探してしまいがちだけど、
この木簡のように潔い精神は、見失いたくないものですね~
木簡節臨 (半紙1/3×2枚)
今日も木簡
迷いのない力強く潔い線。
けれどまっすぐで、正直過ぎるゆえの脆さも感じる姿。
そんなに頑張り過ぎるなよ~って、背中を叩きたくなっちゃう
でも別な日に眺めていると、また違う顔が見えてくる。
意地っ張りで自己主張が強くて、融通がきかない頑固者・・とか
はたまた、几帳面で礼儀正しい律義者だったり、よく喋る人だったり。
人は、そう・・多面体なのだ~。
目の前の相手によって、心は変化する。
心の持ちようで、相手への思いも変化する。
臨書することは、奥行きを学ぶことかなって、ふと思う。
書は人なり。
臨書することは、人の奥行きを学ぶことなり~
書を学ぶ人が求めているものは、書技の上達ばかりではなく、
そんな精神性でもあると思う・・思いたい。
書だけではなくあらゆる「学ぶ」ということの本質は、
「心」を学ぶことなのではないかしらん・・と思うのでありました
(ネパール紙)
木簡には、あらゆる生身の人生が散りばめられている。
木簡は当時の文化を知る貴重な文化財でもあり、
書を学ぶ人にとっては、書法を学ぶ手本でもある。
でも私にとってはそれだけではなく、太古の昔も同じように生きた人々との
出会いの場でもあり、人生の学びの場でもあり
そこには会ったこともない人々の悦び、ひたむきさ、明るさ、生き生きとした生命力、儚さ、
たくましさ、切なさや、激しさ、愛嬌、洒落っ気、生真面目さ・・が見えてくる
書き手の人柄や、文字の発する個性を感じることにワクワクして、ロマンを感じる
←この中の「漢遂」
木簡の本を捲っていて、むむっ~ と目がハートになった文字「漢遂」。
「漢」の字の、ツクリに背を向けて冷めた表情のサンズイに対して、ツクリの点点・・の
すっとぼけて小走りしているような表情が、なんとも言えず好き。
「遂」の字は、原本は正直者で曲がったことが嫌いって感じだけど、私のはちょっと
背中を丸めて逃げ腰。
だって、「漢」が小走りでうっしっし~って言いながら、追いかけてくるから
・・・なんて、勝手にドラマを作って臨書してるわけです。
原本の個性に、自分が感じたものをプラスして、形として表現していく中で
何となく思ったようにできたとき、それはもう、一人ニマニマの世界です。