Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●砂上にペラペラの壁を造ってまでも再稼働したくなる浜岡原発という「金のなる巨大木」

2016年05月12日 00時00分47秒 | Weblog


東京新聞の3つの記事、森本智之記者による【「中部電、浜岡地元に30億円」 住民組織にも原発マネー】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000132.html)、
小沢慧一:森本智之・勝間田秀樹記者による【浜岡地元に30億円 住民側リーダーの故鴨川源吉さん 原発受け入れ晩年まで自問】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000135.html)、
夏目貴史記者によるインタビュー【浜岡原発停止5年 御前崎前市長・石原茂雄さん「金なる木 甘えあった」】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000146.html)。

   『●浜岡原発と大飯原発: 「当面」「いったん」が
                       ポイント、「一切」「永久に」ではない
   『●浜岡原発〝一時〟停止のみでいいのか?

   『●浜岡原発: 元原発技術者の叫び
   『●まずは第一歩目かな・・・??
   『●浜岡原発: 安全対策工事という
         砂上の楼閣に期待する人たち
    「安全対策工事後って、物理的にも砂上の楼閣が
     出来たからと言って、何なんでしょうか?? 
     何の役に立つというのでしょう?? 東京電力人災の
     教訓が全く活かされていません」

   『●浜岡原発という凶器:  
      砂上にペラペラの壁を造って、な~にが「安全」なのか?

 《中部電力浜岡原発静岡県御前崎市)1~4号機を建設するのに伴い、地元の住民組織に総額三十億七千九百万円余りが渡っていたとする文書が見つかった…電力会社が原発の立地自治体に行う寄付は、なれ合いを生むなどとして批判されてきたが、浜岡原発の場合は一住民組織にまで継続的に行われていたことになる》。
 《地域の振興と引き換えに原発を受け入れてきた。それが正しかったのか、晩年まで自身に問い続けた》。
 《原発はお金がなる木だった》。

 地元の住民組織にまで「麻薬」が配られていたそうです。中部電力と「なれ合って」いた訳です。おカネは何に使われて、どこに消えたのでしょうね。唖然とします。
 核発電所立地の地元民までが、砂上にペラペラの壁を造ってまでも再稼働したくなる訳です。核発電「麻薬」中毒患者が実り、3.11人災のような、そして、地域の分断のような「悲劇」が実る「金のなる巨大木」だったようです。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000132.html

「中部電、浜岡地元に30億円」 住民組織にも原発マネー
2016年5月11日 07時02分

 中部電力が浜岡原発(静岡県御前崎市)1~4号機を建設するのに伴い、地元の住民組織に総額三十億七千九百万円余りが渡っていたとする文書が見つかった。組織の代表者を務めた男性(故人)の自筆メモで、関係者から提供を受けた一連の資料とともに、立教大共生社会研究センターが十日、公開を始めた。

 電力会社が原発の立地自治体に行う寄付は、なれ合いを生むなどとして批判されてきたが、浜岡原発の場合は一住民組織にまで継続的に行われていたことになる。こうした資料が明らかになるのは異例だ。

 男性は旧浜岡町議の鴨川源吉氏。原発の建設用地の地権者の一人でもあり、中部電が1号機の受け入れを町に打診した翌年の一九六八年、地権者らの代表組織として「佐倉地区対策協議会(佐対協)」が発足すると、理事に就任した。

 その後、原子炉増設の際には佐対協の同意が不可欠となるなど原発運営に強い影響力を持つようになった。鴨川氏は3~4号機を受け入れた七八~九〇年には会長を務め、九九年に八十四歳で亡くなった。

 資料は「中電協力金集計表」と題され、日付は「(平成)元年8月31日現在調査」とある。

 資料によると、協力金は原子炉増設のたび支払われた浜岡原発の真下を想定震源域とする東海地震説が発表(七六年)されたり、米スリーマイル島原発事故(七九年)が起きたりし、受け入れ交渉が難航した3号機増設の際には、総額の六割強に当たる十九億円余りに達したとみられる。

 旧浜岡町は従来、中部電からの寄付金を人口などに応じて町内六地区に平等に分配していた。だが3号機増設の際には、中部電との直接取引を指すとみられる「中電直入」の金が計十三億四千万円生じている。「中電直入」は4号機分でも五億円ある。

 鴨川氏が会長を務めた当時幹部の男性は、資料について「知らない。知っていてもお金のことは言えないし、墓場まで持って行く話」と答えた。同時期に町長だった鴨川義郎氏(88)は「佐対協は中電と直接、補償交渉をしていた。金額までは分からないが、三十億円くらいはもらっているかもしれない」と話した。

 鴨川源吉氏はこの資料のほか佐対協の議事録や自筆メモなど大量の資料を残しており、立教大で公開されるのは計約五百六十点に上る。資料は、立教大共生社会研究センター(東京都豊島区西池袋三)へ申請し、許可が得られれば閲覧が可能。


◆「振興の手伝い」中部電コメント

 中部電力広報部は取材に「地元の振興を手伝いたいとの考えから、協力金を支払うことがある。個別の協力内容は相手方もあることから差し控える」とコメントした。


「地区の同意」に巨費

<解説> 今回明らかになった文書からうかがえるのは、地震大国・日本で原発を建設することの難しさだ

 原発の立地、建設を円滑に進めるために電力会社は多額の寄付金を地元自治体に落としてきた。旧浜岡町も一九七〇~八〇年代、中部電から少なくとも百十四億円を受け取っていたことが本紙の過去の報道で明らかになっている。今回のケースではこれに加え、人口三千~四千人規模だった一地区にまで、巨費が投じられていたことになる。

 浜岡原発は東海地震や南海トラフ地震で大きな被害が想定されるエリアにあり、「世界一危険な原発」と呼ばれる。手厚い地元対策の背景には、地震や過酷事故への住民の懸念があったはずだ。ところが、「立地交渉は、ブラックボックス。社内でも担当部署以外は事情を知らされない」(中部電の元役員)というようにその実態はほとんどベールに包まれてきた。

 東日本大震災を経験し、地震や津波対策は日本中の原発に突きつけられた共通の課題になった。日本で原発を建設し、運営するにはどれだけの費用がかかるのか。そして、これまでどんな交渉が行われてきたのか。電力を消費し、電気料金を払い続ける国民にとって、今回公開された大量の資料は、現在の原発政策を考える上でも大きな示唆に富むはずだ。(森本智之


 <佐倉地区対策協議会(佐対協)> 中部電の浜岡原発建設予定地に土地を持つ佐倉の地主たちを中心に1968年に発足した。当時の地主は約300人。現在の佐倉地区は1927世帯、4746人(3月末現在)。中部電の寄付金で建てられた旧公民館内に事務所がある。他の原発立地自治体視察などの事業をしている。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000135.html

浜岡地元に30億円 住民側リーダーの故鴨川源吉さん 原発受け入れ晩年まで自問
2016年5月11日 朝刊

     (1960年代後半、浜岡原発建設の申し入れが
       あったころの鴨川源吉さん(右))

 「喜び、悲しみ、苦しみ」。中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の建設をめぐり、地元佐倉地区の故鴨川源吉さんが残した資料には、手書きでそんな対義語が記されている。原発増設の際、住民組織「佐倉地区対策協議会(佐対協)」の中心人物として中部電と交渉し、地域の振興と引き換えに原発を受け入れてきた。それが正しかったのか、晩年まで自身に問い続けた。 (小沢慧一、森本智之、勝間田秀樹)

 浜岡原発1号機が建つとき「泥田に鶴が舞い降りた」と言われるほど産業に乏しかった佐倉地区。鴨川さんはここで育った。公開された自筆のメモのほとんどは、ノートなどを使わず、新聞チラシの裏に細かい字でびっしりと書き込まれている。立教大によると、資料を収めたファイルは紙製で、日焼けやシミができていたが、中身はきちんと整頓されていた。

 一九一五年生まれ。四〇年に農業技術者として旧満州の会社に就職し、四五年の終戦三カ月前、中国の黒竜江省牡丹江市に出征した。戦後はシベリアに二年間抑留された。四七年に帰郷を果たすと農業に従事し、後に原発用地となる土地でミカンやウメ、茶を栽培した。親分気質で住民の信頼も厚く、六七年から旧浜岡町議を四期務めた。佐対協の会長だったのは七八年から十二年間。九九年に八十四歳で世を去った。

 普段は温厚だが、中部電との交渉には「地元のため」と、厳しい姿勢で臨み、自宅応接間で中部電の担当者と大声でやり合うこともあった。

 メモ魔の一面もあり、中部電との交渉や佐対協の議事録などを細かく記録。書斎の壁一面に作った本棚を、テーマ別に並ぶファイルが埋めた。その資料を頼って、中部電の幹部も過去の経緯を調べにたびたび来たという。

 暮らしぶりは質素で、あるとき、袖口が破れ、尻の部分がすり減った背広を見て、妻が新調を勧めた。だが、源吉さんは「そんなもので人は決まらない」と聞かず、家族が無理やりスーツ量販店に連れて行ったこともあった。

 資料には、七九年の米スリーマイル島原発事故を受け「地域へのメリットがあるならと推進してきた。しかし起きないと言った事が起きたと困惑を吐露したり、八六年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故では「4号機増設了解を撤回し(東海地震説で想定されていた)マグニチュード8以上の地震を乗り切って、判断すべきではないか」と後悔をつづったり。

 当時町長だった鴨川義郎さん(88)は「原発受け入れ判断の重圧は、大きかっただろう」と述懐する。

 源吉さんは会長から退くと、「5号機はもういらんな」と話していたという。ある日のこと、長女が「原発同意したことをどう思っているの」と尋ねた。「そうだな…」としばらく考え「豊かになっただけ、よかったんだろう」と窓の外を見つめた。1号機から一キロの自宅から見る風景に、かつて手塩にかけたミカンの木はもう見えなかった。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051102000146.html

浜岡原発停止5年 御前崎前市長・石原茂雄さん「金なる木 甘えあった」
2016年5月11日 朝刊

     (市長時代を振り返る前市長の石原茂雄さん
                  =静岡県御前崎市役所で)

 「原発はお金がなる木だった」。中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の全炉の運転が、政府の要請で停止してから十四日で五年。全国の原発停止の発端となったものの、その後の国内の原発を巡る動きは迷走している。浜岡原発に携わってきた同市の石原茂雄前市長(69)に思いを聞いた。 


 -浜岡原発停止から五年間を振り返って。

 東日本大震災後の二〇一一年五月五日朝、中電から海江田万里経済産業相(当時)が原発を視察すると突然の連絡が入った。視察に立ち会ったが、安全対策に問題ないと判断した印象を受けた。ところが翌六日夜、総理官邸から、菅直人首相(当時)が浜岡の停止について発表する、との電話を受けた。あまりに唐突で、なぜ浜岡だけが危険なのかと思った。国策として応援してきたのに、浜岡だけを止めるのは納得できなかった。かなり興奮し、関係機関に暴言を吐いた。東京のために一番近くの浜岡を止めるのかと疑った。

 冷静に考えると震災以降、原発の安全神話は完全に崩れた。国は、国民の生命や財産を守ろうと判断し、浜岡を止めたと思う。そのおかげで浜岡の安全対策が進んだ。首相の判断は重要だったと感じている。


 -市長として、どう原発と向き合ってきたか。

 この五年間、原発問題の取り組みには進展がなかったと言わざるを得ない。中電は対策を進めたが、行政は常に受け身だった。将来を考えて新エネルギーや企業誘致などに努力したが、原発の安全神話が崩れて市のイメージが最悪になった。何をするにしても難しく、中電に対して本社を浜岡に移転しろと文句を言ったこともある。


 -原発施策でやり残したことは。

 安全性のチェック体制を整え、中電のミスなどをもっと指摘するべきだった。原発に頼らない徹底した行政改革も必要だった。原発交付金で造った公共施設の維持についても見直していく必要がある。中電の安全対策に対しては評価するが、百パーセントの安全はなく、評価しない人も多いと思う。


 -原発の存在とは。

 多くの先人が言うように、原発は「お金がなる木」だった。市長就任時、周りから財政豊かで市政運営が楽だとうらやましがられた。確かに原発のおかげで恵まれていた。今となっては、その甘え体質をなくさないといけない。予算の無駄遣いなどが目立ち、新たなアイデアを生み出すことも少ない。旧浜岡町時代からの悪癖として続いている。自分も甘えていたかもしれないと反省している。


 -再稼働の判断は。これからも原発は必要か。

 再稼働は、活断層の調査や安全対策を確認し、まず原子力規制委員会が判断する。その後は、県や国が納得できる説明責任を果たす義務がある。最終決定は市民に託されるが、住民投票で白黒付けることなく、じっくりと話し合うことが大切だと考えている。原発はずっと存在する。新市長は再稼働推進の立場だが、課題は山積しており、厳しい判断が迫られる。

  (聞き手・夏目貴史)


 <いしはら・しげお> 静岡県旧浜岡町議を経て、2004年の同町と旧御前崎町の合併で誕生した御前崎市の初代市長に就任。3期12年間の任期を務め、今年4月に退任した。
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