[※ 三上智恵監督『標的の島 風かたか』公式ページ(http://hyotekinoshima.com)より↑]
琉球新報のコラム【<金口木舌>27度線の分断』(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-606578.html)。
《写真家、嬉野京子さん…「自分は逃げられるが、沖縄の人たちは逃げられない」 ▼嬉野さんの写真と証言を基に沖縄戦後史をつづった記録映画「OKINAWA1965」が東京で公開された…今も続く沖縄と本土の“溝”に思いを重ねて》。
記録映画「OKINAWA1965」の公式サイトは以下の通り:
《OKINAWA1965》
(http://longrun.main.jp/okinawa1965/index.html)
作品情報によると…:
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【http://longrun.main.jp/okinawa1965/film.html】
作品情報
▶『OKINAWA1965』を紐解く3つのキーワード
祖国復帰行進
日本への本土復帰を掲げる広範な団体が、それぞれの主張の違いを脇に置き、「祖国復帰」という一点で共同した沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が、主催した初の統一した行進運動。復帰協には、沖縄人民党、社会党、社会大衆党などに加え、保守系の会派も参加。労働組合や県内各地の青年団や婦人連合会、宗教者の団体も参加していた。
1964年に初めて行われた祖国復帰行進が、復帰協としてのコンセンサスを取れずに、沖縄人民党だけが取り組んだ結果、米軍の弾圧を受けたため、「祖国復帰の思いは共通。取り組むなら、やはり統一してやるべき」という声が強まり、1965年に実現。嬉野さんはこの初めての祖国復帰行進に参加している最中、米軍トラックによる女児轢殺事件の写真を撮影した。
人間らしい生き方を求めて~阿波根昌鴻さんと非暴力平和運動~
嬉野さんが沖縄の中でも大切にしている場所がある。
伊江島の一般財団法人「わびあいの里」だ。
ここには反戦平和資料館「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」があり、戦争と基地被害の証拠が所狭しと並べられている。
「ヌチドゥタカラの家」は農民の立場から非暴力平和運動を提唱し、基地反対闘争の先頭に立ってきた故・阿波根昌鴻さんが1992年に建立した平和をつくる実践活動の拠点である。
非暴力平和運動はその名の通り、暴力に頼らず、話し合いによって問題を解決していくというもの。
沖縄戦やその後の様々な運動による経験で「暴力は何も生まない」と実感した阿波根さんの精神が産んだ運動方針である。
「ヌチドゥタカラの家」には、福祉施設「やすらぎの家」が併設されている。
障がいを持った人間にも老いた人間にも優しくなれる福祉の精神を持った社会づくりこそ、平和への第一歩であるという理念で造られた場所である。
阿波根さんは「福祉と平和の村」を目指していたのだ。
平和運動と福祉というと全く別なもののように思ってしまうが、よく考えて見ると両方とも、思考する能力と理性を持った「人間」でなければ出来ないもっとも「人間らしい」思考と言っても過言ではない。
まさに憲法9条(反戦平和)や憲法25条(社会保障)の精神を具現化しようとする精神がここにはある。
アレン・ネルソン~『沖縄に基地はいらない』を提唱した元・米軍海兵隊員~
元海兵隊員のアレン・ネルソンさんは、1966年に沖縄のキャンプハンセンで訓練を受けて、ベトナム戦争に投入された。1995年に起きた12歳の少女レイプ事件について、自分で調べ、沖縄の基地が以前にもまして強化されていることを知り、翌年、沖縄で平和運動をしているグループに呼ばれる形で30年ぶりに沖縄を訪れた。アレンさんはアメリカで「沖縄駐留米軍をアメリカに連れ戻すネットワーク」を立ち上げ、年に一度はかならず沖縄に行った。
嬉野さんはアレンさんがこうした活動を日本でするのであれば、自分にできる手伝いをしたいと申し出た。アレンさんが日本で講演活動をするとき、ニューヨークから嬉野さんの家にやってきて、講演に出かけていく。移動の合間には嬉野さんの家で休息する。嬉野さんは、東北、甲信越、関東近辺は講演主催者との連絡も引き受け、会場まで案内していた。
嬉野京子(報道写真家/ディレクター)
◉ Profile
1940年東京都出身。著書に『沖縄100万の叫び-嬉野京子写真集』、『戦場が見える島 沖縄 50年間の取材から』(ともに新日本出版)等。2016年JCJ特別賞を受賞。
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『●日本国憲法第九条「国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」』
「《NNNドキュメント’15》の番組案内『9条を抱きしめて
~元米海兵隊員が語る戦争と平和~』」
《戦後70年、日本は国家として他国民を誰一人殺さず、
また殺されもしなかった。非戦を貫けたのは、戦争の放棄を定めた
憲法9条があったからにほかならない。戦争は、国家間の争いだが、
実際に戦闘に携わるのは紛れもなく人間。人殺し、殺し合いに
他ならない。アレン・ネルソンさん。ベトナム戦争に従軍した
元米海兵隊員だ。戦場で数えきれないくらいの人を殺害し、
帰還後PTSDに苦しめられるが、自らの過ちを認めることを
きっかけに立ち直った。96年から日本で講演活動を開始した彼が
最も大切にしたのが憲法9条。暴力的な方法に頼らない唯一の道は
9条の理念にあると訴え続けた。ネルソンさんの半生、証言を通し、
‘9条’が日本で、そして国際社会で果たしてきた役割、意味を問い直す》
沖縄の心は踏みにじられっぱなし。ストロンチウムは頭上をかすめ飛び、《生物多様性の生きた教科書》な沖縄の「森」や「海」を何の躊躇もなく殺しっぱなし。さらには、沖縄に番犬様を押し付け、基地の恒久化を「謀る」。「統合エアシーバトル構想」のために戦争の「防波堤」を押し付ける…。(島袋文子さん)《それをやっているのが今の安倍である/戦争のできる国を作りだそうとしている》。司法の正義は機能せず、「本土」は無関心…。
《沖縄の人たちは逃げられない》《今も続く沖縄と本土の“溝”》…何も変わりなし。
『●消された放射能汚染: 米軍ヘリ墜落ストロンチウム消失事件』
『●普天間「番犬様」基地: 「毎日頭上を飛ぶヘリの機体に
ストロンチウム」…墜落により放射性物質が飛散』
『●「沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件」でも
「沖縄は放ったらかし」……アベ様らは、今も、沖縄差別継続中』
『●「日米安保の根幹を成す地位協定の不平等性を
そのままにしておいて、もう一方の9条だけをいじり…」』
『●高江ヘリ「墜落」、何時もの如く「見え透いた
“茶番劇”が再び繰り返されるようなら、事故はまた起きる」』
『●「在日米軍特権」…《事故の検証すらできない日本は
むしろ、法的従属を“放置”した国家》<金口木舌>』
『●ストロンチウム内部被曝…翁長雄志知事「悲しい、悔しい。
沖縄にとって“国難”とはこういった状況だ」』
『●本土ではアベ様が「さらなる強硬手段に出る権力基盤を手に」し、
《強烈な異義申立》が続く沖縄は無視…』
『●沖縄の心は踏みにじられっぱなし…
「在日米軍特権」「日米共犯」の下、《牧草地から土をどっさり》と盗難』
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【https://ryukyushimpo.jp/column/entry-606578.html】
<金口木舌>27度線の分断
2017年11月2日 06:00
黒い車輪のブレーキ痕の上に幼い女の子があおむけに倒れ、うなだれている。それを軍服の米兵たちが取り囲む。少女れき殺現場を映した1枚の写真は全国に衝撃を与えた
▼1965年4月。撮影した東京都の写真家、嬉野京子さんは「祖国復帰行進団」の中にいて、事件に遭遇した。撮影するため現場に近づくと、行進団メンバーに制止された
▼行進団は米軍の弾圧を恐れたのだ。メンバーは嬉野さんに二つの条件を付けた。米兵に隠れて撮ることとフィルムを団に預けることだ。その結果、写真は白日の下にさらされた
▼2年後、嬉野さんは伊江島土地闘争の団結道場を取材し、米軍に拘束された。尋問した憲兵は「嬉野さんですね」と断定し、殺害をほのめかす脅迫をしたという。伊江島の住民は米兵の監視の目をくぐり、彼女を逃がした
▼東京へ向かう飛行機の中で嬉野さんは27度線を越えるまで強い恐怖に駆られたという。同時に自身のふがいなさと悔しさが胸に湧いた。「自分は逃げられるが、沖縄の人たちは逃げられない」
▼嬉野さんの写真と証言を基に沖縄戦後史をつづった記録映画「OKINAWA1965」が東京で公開された。試写会で「映画を広めてほしい」と語った嬉野さん。胸中には27度線上で、ひき裂かれた自分に気付いた時の悔しさが残る。今も続く沖縄と本土の“溝”に思いを重ねて。
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