エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#大人の肯定する力 と #父なる神

2013-04-25 04:06:33 | エリクソンの発達臨床心理

 前回は、青年期の儀式化と儀式主義がテーマでしたね。青年期の儀式主義は、全体主義でした。そこでは、熱狂と村八分とギラギラした感じ(見せびらかし)があります。河合隼雄がどこかで、「ギラギラしたものは偽物」と言ったこととも通じます。それに対して、青年期の儀式化は、自分を確かにする儀式化ですから、落ち着きと、人と人を結びつける親しみ、それから物事を豊かに生み出す力があります。
 さて、今回はとうとう、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの最終章、成人期を迎えます。それでは、タイトルも含め、第1段落の翻訳です。第1段落は長いので、今日はその前半を翻訳します。

 4年前の翻訳で,不十分さが目立ちますので,修正します。






 成人期と礼拝による価値づけ

 若者が学習する時期を「卒業する儀式をいつくか」経た後で、「結婚式」によって、若い仲間入りの「免許証」を手に入れます。この新たな仲間が、≪人生の習慣≫を次世代に伝えます。宗教のいろんな儀式はこの点で分かりやすく、遠慮がありません。しかし、大人になる儀式が求めるものが、あの世のご先祖さんなのか、文化的英雄なのか、魂や神々なのか、王様や創設者や国家体制なのかに関らず、大人になる儀式はまず最初に、子どもの頃や青年期の非公式の儀式化を繰り返し、再び確認するはずです。なぜならば、このような大人になる儀式は、文化を結び合わせるものだからです。大人になる儀式は、また、文化を統合することで、その儀式に参加する大人を価値あるものと認めるのです。なぜなら、大人になるためには、儀式化を行う役割において、元気をもらわなければならないからです。儀式化を行う役割は、次世代の眼から見た時に、ヌミノースの見本に喜んでなることに他なりませんし、また、悪を裁く裁判官として、あるいは、理想の価値を伝えるものとして、喜んで振る舞うことに他なりません。儀式化における大人の要素を、したがって、私は「次世代を生み出す力」と呼ぼうと思います。「次世代を生み出す力」には、親として、教師として、生産者として、あるいは治療者などとして、人を手助けする儀式も含まれます。大人は威厳のある装いをする以上、「私は自分のしていることに自覚的です」という確信において、元気をもらわなければなりません。自信を取り戻すことは、父方に立てば、この世のあらゆる王様を超えて、「父なる神」に出会うことによって元気づけられることが多いのです。「父なる神」とは、一人の親のイメージ(同じ仮の人類の親のイメージで、もちろん男性です)として、神が神のイメージに私どもを創造した時に、神はご自分がしていることをハッキリと自覚していました。あるいは、「父なる神」とは、一人の創設者、一人の預言者、一人の偉人であり、新世界のイメージに対する根本原理を確信をもって言葉にしました。






 これで成人期の部分の前半は翻訳完了です。
 エリクソンの言う大人は、次の世代の人々、赤ちゃんから青年までの人々の価値を認め、彼らを元気にする存在のようですね。しかし、それは一人でできることではなくて、「父なる神」のように、新世界のイメージの原理を確信し、言葉にもできる存在から励ましてもらわなくてはなりません。「父なる神」どころか、人間を超える価値を信じない、多くの日本人にとって、この課題は非常に大きなものだ、と言えそうです。
 本日これまで。

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群れた自己愛とアイデンティティの間:村八分・見せびらかしvs親しみ・生み出す力

2013-04-24 04:58:08 | エリクソンの発達臨床心理

 前回は、儀式化された戦争についてでした。短いながらも、示唆に富んだところだったと思います。
 さて、今回はToys and Reasons 「おもちゃと覚めた精神」のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第6段落、最後の段落です。それでは翻訳です。





 青年期に用意した儀式主義の要素を、私は全体主義と呼んできました。つまり、全体主義とは、融通の利かない考え方の中で、何の疑いもなく理想と思い込んだものに、熱狂的に、排他的に、夢中になることです。この全体主義が釣り合う自己愛は、若者特有のものであり、似非宗教が偶像を作り出す傾向にも特有なのです。そして、もしこれが偶像崇拝に部分的に後退しているように思われるのでしたら、それは、まさに人の心の筋道に適うことです。さらには、この自分を確かにされる(アイデンティティの)発達段階は、「たとえ違いがあっても、親しみを感じて仲良く交わる」の発達段階、すなわち、仕事、友情、愛という親しみのある関係の中でやり取りを維持する段階と融合します。自分を確かにされる(アイデンティティの)発達段階は、礼拝のリストに親しみの要素を付け加えます。この儀式主義的な側面が、排他的集団のエリートという顔を持った、一種の群れた自己愛なのです。明々白々なことに違いありませんが、共通の好みや見通しを誇示する態度、愛やら仕事やら友情やら似非宗教やらに囚われた若い大人たちの会話や行動に実に多く見られる、熱狂的な意見や人を断罪する判断を誇示する態度が、あの動物界の本能的な絆の人間的あり方ということになります。この動物界の本能的な絆とは、挨拶の儀式の中にその存在が認められます。たとえば、その挨拶の儀式によって、鳥たちは、私たちはお似合いの夫婦ですよ、私たちの子どもを授かりましょう、と示します。人間の一生において人間が示すことは、自分が確かにされる個々の働き(個々のアイデンティティ)は、それによって、二人の人が、コンビにもなり、コンビでなくなりもするのにふさわしい(あるいは、その自分が確かにされる個々の働きは互いに補い合う)、ということです。そして、自分が確かにされる個々の働き(個々のアイデンティティ)によって、絆を感じた二人は、物事を豊かに生み出し、子どもを授かる人生を約束されるのです。






 これで青年期の部分すべての翻訳は完了です。
 いかがでしたでしょうか?青年期の礼拝儀式主義が対照的に記されていますね。青年期の儀式主義は全体主義とエリクソンは呼びます。これは、ナチスをよく知っている(そのために、アメリカに亡命した)エリクソンが、その熱狂と村八分と破滅を目撃した者として名付けたものと考えられます。青年期の全体主義も、ナチスや軍国主義日本と同様、熱狂と村八分(ホロコーストと「非国民」)にうつつを抜かす動物的な本能の働きにしかすぎません。それに対して、人間が行う、人間らしい青年期の礼拝は、礼拝の一覧表に“親しみ”という、人と人を結びつける要素を付け加えて、物事を豊かに生み出す力を、親しみのある二人(あるいは、その二人を核とした人々)に約束してくれる、温もりと確かさのある見通しをもたらしてくれるのです。
 本日ここまで。
 次回はいよいよ、最終章、成人期に入ります。

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エリクソンが見た、戦争のもう一つの危険

2013-04-23 05:03:27 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、日常生活の儀式化がいかにダイナミックか、というお話でした。そして、儀式化は<私>と、他の人の<私>が出会い、連帯するものであることも分かりました。
 さて、今回はToys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第5段落です。それでは翻訳です。





 儀式が保証するすべての観点から見て明らかなのは、「儀式化された戦争」が歴史を通して果たしてきた役割とは何だったのか、ということです。それは、まぎれもなく、繰り返し行われてきた戦争(戦争が繰り返し起こることを予期し、また、準備すること)によって、儀式化を大いに必要とする思いが、軍事的な儀式化に向かってしまった、ということです。この軍事的儀式化は、市民としての生活の仕方に決定的な影響を与えます。儀式化された戦争には、将来の敵であっても、ある程度までは、共同の歴史において、お互いに英雄の役割を認め合う、という主張を含んでいました。






 これで青年期の部分の第5段落の翻訳は完了です。
 いかがでしたでしょうか?ここはさらっとエリクソンは書いているところです。「儀式化された戦争(ritualized warfare)」を取り上げたエリクソンの意図は何だったのでしょうか?
 それを少し考えてみたいと思います。前回「<私>が新鮮にされるとき:<私>と、遊び相手の<私>との出会い 」の中で翻訳したところを見返してみたいです。儀式には、1)<私>と他の人の<私>が出合い、連帯する中で、<私>を新鮮にする、2)悪者(敵)を排除し、自己犠牲することで、幼い(幼稚な)良心が物事に上手に対処する、3)心の中で大事にしている理想に一緒に賭ける、4)習った正式なやり方をよいものと認める、を保証する働きがあります。すると、「儀式化された戦争」にも、この同じ働きがあることになります。ですから、エリクソンは、「まぎれもなく、繰り返し行われてきた戦争(中略)によって、儀式化を大いに必要とする思いが、軍事的な儀式化に向かってしまった」と言うのです。つまり、他のやり方で青年期の儀式化は行われうるのに、「儀式化された戦争」によって、若者の儀式化を求める強い思いが利用されてきた、と言うわけです。
 しかも、それだけではありません。「将来の敵であっても、(中略)お互いに英雄の役割を認め合う」のですから、味方同士はなおさら「英雄として認め合う」ことになります。靖国神社に合祀されなくても、自分も英雄になれる、というストーリーに、幼稚な良心は大きな魅力を感じないはずがないでしょう。阿部さんもこのストーリーを今利用しようとしているのでしょう。この点にエリクソンは、私どもの注意を喚起している、と言えるのではないでしょうか?
 本日これまで。

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<私>が新鮮にされるとき:<私>と、遊び相手の<私>との出会い 

2013-04-22 05:13:43 | エリクソンの発達臨床心理

 前回は「アイデンティティの混乱」のお話でした。アイデンティティを形成するって、やりがいがありますね。支払い猶予(モラトリアム)でいろいろ実験していると、悪いレッテルを張られるかもしれませんし。また、国家が、若者をそそのかして、国家の信奉する価値に献身させようとするかもしれませんしね。第一、若者がその社会に適応するためには、世の中がよくなる約束を大人がする必要があります。しかし、今の日本に、そんな約束をできる大人が果たしているのでしょうか? さらには、アイデンティティの危機を打開できるほどの、人生哲学の刷新を提示する大人がどこにいるのでしょうか?
 さて、今回はToys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第4段落です。それでは翻訳します。





 結局、日常生活を礼拝にすることがいかにダイナミックな働きをするかを証明するのに、組織に入った若者が、前もって準備された就任式や堅信礼に自ら進んで同調するのと、日常生活を礼拝に出来ない若者が,偽物の礼拝を,間に合わせで作りがちであるのを比べて、際立った違いがあること以上に役立つものはありません。こういった,日々の礼拝は、比較的まとまりの良い、世間に対するビジョンだけが約束できる見通し、すなわち、「<私>が生きている実感」が、同等に、自分の「<私>が生きている実感」を新しくしたいと願っている、ほかの人の<私>と連帯するときに、新しくなる」という見通し、を保障しようとします。また、こういった毎日の礼拝 は、悪者とは関係がないと一緒に言うことによって、あるいは、実際に思慮深く自己犠牲をすることによって、幼い良心が物事に上手に対処することを保障しようとしますし、心の中で大事にしている理想に一緒に賭けて生きることや、習った正式なやり方をよいものと認めることも保障しようとします。






 これで青年期の部分の第4段落の翻訳は終了です。ここは、短いけれども、難しいところです。中身が分かりにくいからです。少なくとも、日頃から内省的な生活、すなわち、自分(<私>)との対話をしていない人には、ピンとこないところではないですか? 
 <私>が新鮮になるのは、<私>を新鮮にしたいと願っている、他の人の<私>と出会い、心が通じるときである、と言うところがとても大事ですね。そのような出会い、それこそが,日常生活を礼拝にすることに,他なりませんが、そのような出会いを日々したいものですね。
 今日はここまで。

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アイデンティティの混乱?  世の中がよくなることと人生哲学の革新

2013-04-21 04:44:47 | エリクソンの発達臨床心理
 前回はアイデンティティの中身でしたね。
 今回は、前回やり残した部分です。Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第3段落、その後半を翻訳します。段落途中からの翻訳ですから、文頭は一段下げにしていません。それでは翻訳です。





反対に、私はこの発達段階の仲間はずれの感じを「アイデンティティの混乱」と呼んできました。もちろんこれは、一つの“生き方”に含めうるのですが、それは、支払い猶予の形で、ある特別な遊びを許す生き方なのです。その遊びとは、バカ騒ぎに貢献したかと思えば、実験的で、しかも以前書いたように、「人とは異なる」あり方を延長した期間です。たほう、このような違いが他の人々に対して境界性人格障害、犯罪者、危険な非行歴、不健康な狂信であるという印象を与えるのかどうか、そのような印象を与えるとしたら、どこでそういう印象を与えるのかは、精神病理学的、政治的、法的定義の問題であることが多いのです。若者特有の「示威行為」の大部分は、このすべてを一つの演劇的表現(ある時はあざけりですし、ある時はどんちゃん騒ぎです)にしてしまうことに特色があります。その演劇的表現は、若者が適応するとは、世の中が明らかに良くなることを約束しない限り、当たり前と見なすべきではない、という警告として役立ちます。歴史的にアイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代なのです。これこそ、私が若きルターの個人的で、しかも、普遍的な危機に関する本で描こうとしたことです。その課題がたどれるのは、もっと最近の歴史の革命的な時期を通してです。そして、現代まで来ると、私どもは、全体主義が若い世代を公開の国家的儀式に価値誘導的に関わらせるやり方を目撃しています。その公開の国家的儀式たるや、ヌミノースの要素(指導者の顔)と分別の要素(声高に皆が異口同音に「犯罪者」を非難すること)、筋立てを作る要素(パレード、ダンス、○○集会)、そして、きちんとやる要素(軍隊の正確さ、マス・ゲーム)を大規模に組み合わせています。こういったことがやろうとしていることは、若者達の世代すべてを、価値へ献身させることです。若者たちがそんな価値へ献身をすると、息つく暇もないほどの変化が生じ、また現実に、あらゆる伝統的な価値が(革命前夜と言う意味で)、明らかに否定的なアイデンティティの一部になってしまいます。





 これで、青年期の部分の第3段落の翻訳は完了です。
 いかがでしたか?今の日本は、ナチスや軍国主義日本のような、露骨な全体主義は存在しません。ですから、エリクソンがここで指摘したうような国家的儀式によって儀式化の要素を組み合わせて、若者を国家に都合のいい価値に献身させようとすることもありません。
 むしろ、いまは、エリクソンがここで教えてくれているように、「アイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代」ではないでしょうか? アイデンティティの危機が、あらゆる世代で蔓延しているのが、残念ながら、日本の現状です。では、その現状を打開する「人生哲学の革新」とは一体何なのでしょうか?
 本日はここまで。
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