前回は、青年期の儀式化と儀式主義がテーマでしたね。青年期の儀式主義は、全体主義でした。そこでは、熱狂と村八分とギラギラした感じ(見せびらかし)があります。河合隼雄がどこかで、「ギラギラしたものは偽物」と言ったこととも通じます。それに対して、青年期の儀式化は、自分を確かにする儀式化ですから、落ち着きと、人と人を結びつける親しみ、それから物事を豊かに生み出す力があります。
さて、今回はとうとう、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの最終章、成人期を迎えます。それでは、タイトルも含め、第1段落の翻訳です。第1段落は長いので、今日はその前半を翻訳します。
4年前の翻訳で,不十分さが目立ちますので,修正します。
成人期と礼拝による価値づけ
若者が学習する時期を「卒業する儀式をいつくか」経た後で、「結婚式」によって、若い仲間入りの「免許証」を手に入れます。この新たな仲間が、≪人生の習慣≫を次世代に伝えます。宗教のいろんな儀式はこの点で分かりやすく、遠慮がありません。しかし、大人になる儀式が求めるものが、あの世のご先祖さんなのか、文化的英雄なのか、魂や神々なのか、王様や創設者や国家体制なのかに関らず、大人になる儀式はまず最初に、子どもの頃や青年期の非公式の儀式化を繰り返し、再び確認するはずです。なぜならば、このような大人になる儀式は、文化を結び合わせるものだからです。大人になる儀式は、また、文化を統合することで、その儀式に参加する大人を価値あるものと認めるのです。なぜなら、大人になるためには、儀式化を行う役割において、元気をもらわなければならないからです。儀式化を行う役割は、次世代の眼から見た時に、ヌミノースの見本に喜んでなることに他なりませんし、また、悪を裁く裁判官として、あるいは、理想の価値を伝えるものとして、喜んで振る舞うことに他なりません。儀式化における大人の要素を、したがって、私は「次世代を生み出す力」と呼ぼうと思います。「次世代を生み出す力」には、親として、教師として、生産者として、あるいは治療者などとして、人を手助けする儀式も含まれます。大人は威厳のある装いをする以上、「私は自分のしていることに自覚的です」という確信において、元気をもらわなければなりません。自信を取り戻すことは、父方に立てば、この世のあらゆる王様を超えて、「父なる神」に出会うことによって元気づけられることが多いのです。「父なる神」とは、一人の親のイメージ(同じ仮の人類の親のイメージで、もちろん男性です)として、神が神のイメージに私どもを創造した時に、神はご自分がしていることをハッキリと自覚していました。あるいは、「父なる神」とは、一人の創設者、一人の預言者、一人の偉人であり、新世界のイメージに対する根本原理を確信をもって言葉にしました。
これで成人期の部分の前半は翻訳完了です。
エリクソンの言う大人は、次の世代の人々、赤ちゃんから青年までの人々の価値を認め、彼らを元気にする存在のようですね。しかし、それは一人でできることではなくて、「父なる神」のように、新世界のイメージの原理を確信し、言葉にもできる存在から励ましてもらわなくてはなりません。「父なる神」どころか、人間を超える価値を信じない、多くの日本人にとって、この課題は非常に大きなものだ、と言えそうです。
本日これまで。