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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

仲間に固有の価値とイメージ 技術的な自信と儀式との関わりと適応がもたらす同調

2013-04-20 05:34:31 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、「大人」とは何かをエリクソンが論じている部分でしたね。
 今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第3段落です。この第3段落は長いので、今日はその前半の部分を翻訳します。





 動物が、個々に生まれながらに持っているパターンをキャッチボールするやり取りのある仕組みは、人間においては、子どもの時期と青年期を合わせた全体の時期にのみ、匹敵すると言えるでしょう。人間的な意味で十分に発達するとは、科学技術が支配する体制において、一定の席を占める準備をすることを意味するばかりではありません。それに加えて、自分の特定の仲間に固有の、取り消すことができない一定の価値とイメージを持つことも意味します。さらに今度は、敵意のあるアイデンティティを持つ人々や、時代遅れであったり、異質であったりする考え方をする人々を排除する(単に嫌いだから、道徳的に受け付けられないから、熱狂的な暴動、あるいは、戦争という理由から)用意があることも意味します。だからこそ、私は特定の危機を描くことに取り組んできたのです。その危機とは、青年期に心理社会的なアイデンティティのある感じが現れることに先んじており、しかも、その文化の儀式化に広くみられる考え方に対して備えができることにも先んじた危機です。この二つの過程が統合されて初めて、若者が青年期の新しい強さを今日の科学技術的・歴史的傾向と折り合わせる準備ができます。実際若者が(あるいは、とにかく、決断力のある若者が)、ここに記した生育歴上の要素を、技術的に自信のある日々の活動と統合することが出来る場合で、しかも、宗教的、民族的、ないしは、軍事的な性質の、定期的に行われる儀式と行事に関わることが出来る場合に、若者が世間に適応するための規則に対して心構えができて、その規則に程よく従うようになると、驚くほどに同調するイメージをもたらすことになります。そのイメージは多くの場合、既にある職場の雰囲気を受け容れることを基礎に完成するのだけれども、その職場の雰囲気は、第三者には嘘っぽく見えるかもしれません。






 これで、青年期の部分の第3段落の前半の翻訳が終了です。
 ここは翻訳が非常にしにくい部分でした。一つの文章が非常に長いからです。原則として、上から素直に訳しています。 
 さて、内容的にも、日本の社会と異なる欧米の文化がベースになっている社会の中での話なので、翻訳してもピンとこない方がいるかもしれませんね。技術的に自信のある仕事をしていても、宗教的・民族的・軍事的な性格のある儀式や行事に関わる人は、日本人にはほとんどいないのではないでしょうか? 逆に言えば、そういう儀式に関わることなく、日本人は適応のためのルールに従い、職場の雰囲気に従属して、集団に同調していることになるわけです。その際に、その集団に固有のイメージが大きな働きをすることが分かります。この点は非常に重要なのですが、後ほど論じます。
 この段落の後半は次回です。青年期の負の側面が、次回登場します。こうご期待!
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大人になるって?

2013-04-19 05:15:33 | エリクソンの発達臨床心理
 前回から、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期に入りました。今日はその部分の第2段落です。翻訳します。





 これ以降、人は2つの発達の筋道に留まる事が出来ます。すなわち、ひとつは、人は常に驚くべき、ときには衝撃的でもある「自然な儀式」について論じることができます。この儀式によって、青年たちはお互いの人間関係を儀式化し、自分たちの世代が、大人たち持つ者とも、子どもたち持たざる者とも(少し、あるいは、徹底して)異なることをはっきりさせます。もうひとつは、人はいまや「きちんとした儀式や行事」に戻ることもできます。なぜなら、正式な堅信礼、就任式、卒業式を約束することにおいてこそ、青年期になった人間たちは自分の社会の(あるいは、偽りの群れの)責任あるメンバーとなり、しかも、その社会の中でのエリートのなることを申しわたされるからです。その時に初めて、青年期の人間たちは大人になるコースに入ることができます。この場合大人とは、将来を見通すことができるという意味です。その将来において、青年は子どもの生活において、日々儀式化をプレゼントできる者となるでしょうし、たぶん、次世代の人々の人生において、儀式化を司る地位に就くことにもなるでしょう。確信が一致するときはじめて、生育歴上の一連の儀式化において発達した要素すべてを、一つの世界に対するイメージの中にしっかりと結びつけ、一貫性のある思想と理想を見通すことができます。実際に、差し迫って世界を一新したいという個人的な感じが広範に存在していたり、あるいは、強かったりする場合以外は、そうなのです。





 これで、青年期の部分の第2段落の翻訳は完了です。
 エリクソンの「大人」の定義は不思議です。エリクソンは「大人」とは、子どもに儀式化をプレゼントする存在と言います。すなわち、ヌミノースの要素と分別の要素、筋立てを作る要素やちゃんとやる要素という儀式化の要素を子どもにプレゼントすると同時に、それらを統合して一つの世界観にまとめ上げることができる人、一貫性のある思想と理想も見通せる人、それが大人です。
 今日はここまでです。
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心の中に遊んでいる子ども 時間稼ぎ 自信喪失の激しい投影がもたらす修羅場

2013-04-18 05:36:13 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、教育の目的を確認し、学校が形式主義に陥った時の、重大な危険な働きについて話題にしました。教員の人々には耳の痛い話しだったかもしれませんし、反発を感じた方もたくさんおられると思います。しかし、エリクソンから学ぶ発達臨床心理の立場からは、前回指摘した視点もある、とご理解いただけたら、幸いです。
 今日からは、とうとう青年期です、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、青年期の部分の第1段落です。それではタイトルを含めて、翻訳します。





 青年期と理想
 自分と真(まこと)

 子どもの時期の終わりに、自分自身で描き始めた仕事の役割は、条件に恵まれれば、あらゆる役割の中で最も心強い役割です。なぜなら、その仕事の役割は、技術的に私どもを価値ある存在であると認めてくれるからばかりではなく、目に見える働きにおいても、私どもが自分自身を価値ある存在であると認めることも許してくれるからなのです。しかし、思春期の動揺、子どもを卒業しなくてはならない必然性、それから、現代の混乱は、束になって、様々な葛藤を含んだ自分に対するイメージを作り出します。それはちょうど私どもが自分自身を働く者として思い描くのみならず、結婚の当事者、親、市民としても自分を思い描く年頃ですし、また、私どもは、技術を完成するためや役割を効率化するために、自己犠牲をしていると感じるかもしれない年頃なのです。私が何冊かの本で詳しく述べたことを手短に申し上げれば、アイデンティティ形成の過程は、若者たちが、子どもの時期が終わる年頃に、自分自身にとって大事になったことと、若者たちが、自分にとって大事になった人々にとって大事と思われることとのやり取り次第なのです。その若者が、自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行しがちなのも不思議ではありません。あるいは、その若者が、時間を稼ぐために、「落ちこぼれ」がちなのも不思議ではありません。さらに現に、全体に方向づけのあるビジョンを掴みがちなのも不思議ではありません。この全体に方向づけのあるビジョンとは、ひどく単純化されすぎれば強引で、多くの場合は容赦のない、生き方に対するいくつかの答えを組み合わせて、ヌミノース、分別、筋立て、それから、きちんとやる儀式化の要素を結びつける展望を示し、しかも、あらゆる自信喪失は「自分とは異なる人たち」に投影します。





 これで青年期の部分の第1段落は終了です。この部分も極めてリアルで実に重要です。
 ここでは、青年期の三つのあり方を考えたいと思います。
 第一に、退行している場合です。河合隼雄が「さなぎの時期」と言った時の、「さなぎ」の状態でしょう。エリクソンは、この時に若者は、「自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行し」ている、と言います。不思議な表現とは思いませんか? しかし、エリクソンが遊びについて何と言っていたかを思い出していただきたいと思います。そう幼児後期の部分で言っていましたね。「遊ぶ時期になると、その子どもは小さな現実を手に入れて、その中でおもちゃを使って、昔の経験を生きなおしたり、修正したり、作り直したりしますし、かつまた、未来の役割や出来事を自発的に繰り返し繰り返し先取りします」。つまり、遊びには、折り合いがつかないでいた過去の出来事に折り合いをつける意味付けをもたらし、未来を先取りしてみる働きがありましたね。心の中で遊んでいる子どもも、この遊びの時期の子どもと同じ働きをしてくれるのです。ですから、外からは「退行」に見えることにも、非常に大事な意味があります。
 第二に、時間稼ぎの場合です。これについては、ここではあまり語られません。いわゆる、モラトリアムのことですが、エリクソンが語る時に話を譲りましょう。
 第三に、自信喪失を激しく投影する場合です。これもここではあまり詳しく語られませんが、少し敷衍して述べておきたいと思います。この人は、たとえ早合点であっても、自分の生き方に対する一定の方向性のあるビジョンを掴みます。しかし、そのビジョンは、強引で容赦のない生き方を示し、他者に対して激しい投影を引き起こすので、「自分とは異なる人(々)」に対して、非常に他罰的になります。人生の修羅場を演出し、家族や職場でひどい罠をしかけるのは、この類の人と言って間違いありません。
 今日はここまで。
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学校の形式主義と教員の「仕事バカ」

2013-04-17 04:43:37 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、学校が、経済活動の負の側面を是認することや、現代社会の根源的問題である、全体を見る目を失いがちになることに伴う危機などが、話題になりました。
 今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、学童期の部分の第3段落と第4段落です。早くも最後の段落です。それでは翻訳します。





 とにかく、学童期には、人間の行為のきちんとやる面の儀式化が導入されます。この儀式化に感覚的に説得力があるのは、この儀式化が、理解することができるし、参加することもできるいっそう高度な秩序になっているからです。ヌミノースと分別と筋立てする要素に、この「きちんとやる」側面が加わると、どんな本物の儀式であっても、私どもがその重大さを理解したのも同然でしょう。
 学童期の仲間はずれにされた感じは、「自分は劣っているという感じ」です。それは、学校で教わる基礎技術に必要な身体活動や教科科目で、課題についていけない、という感じです。他方、私どもが危険も感じるのは、一般化のしすぎであり、完全主義であり、形ばかりの行事です。私どもはこの発達段階でも、儀式主義の傾向を名付けなくてはなりませんが、ここでは、「『仕事』が人を作り、技術が真理を生み出す」という振りをする儀式主義的傾向です。多分「形式主義」という言葉がこれに当てはまるでしょう。この名前はともかく、この言葉が示しているのは、人間が「きちんとやること」と「その理屈」を求める努力をしているうちに、人間はそのとりこになってしまう、という事実です。とりこになってしまうことによって、ひとりびとりの人は、マルクスが「仕事バカ」と呼んだ存在になってしまいます。「仕事バカ」とは、自分が技術を向上することに心奪われて、技術を向上することにどんな意味があるのか、もしかしたら危険な働きにつながらないか、という人間としての文脈を忘れたり、否定したりしてしまう人なのです。





 これで学童期の部分の翻訳は完了です。学童期もきわめて重要な示唆が多かったですね。
 私が重要と感じたのは、学校が、搾取や無視も是認する可能性があることと、「仕事バカ」についてです。そして、この二つが結びついたときのことを考えます。すなわち、学校が儀式主義である形式主義に陥っている場合です。この場合、子どもに教科を教えることそのものが自己目的化して、何のために教えているのか、子どもを教育することには、どんな意味があるのか、もしかしたら自分は子どもに対して、危険な働きをしているかもしれない、という人間としての文脈を忘れてしまうことです。こう言ってもはっきりしませんね。もっと率直に話すのが私の流儀でした。
 つまり、こういうことです。学校でも本当に大事なことは、子どもひとりびとりに対して「あなたにはこの上ない値打ちがありますね」、「人は結局、当てになりますよ」という、最初の危機、発達課題である「根源的信頼感」を改めて繰り返し態度で示すことです。これこそが教育の目的と言っていいです。しかし、学校が形式主義に陥る時、その目的を忘れて、単に教科教育の指導技術の向上を目指す、という教員の「仕事バカ」が生まれます。そして、教育が犯す危険な働きとは、その自己目的化した教科教育を通じて、子どもを一層否定し、「あなたにはそれほど値打ちはないんだよ」「人は結局、当てになんかなるものか、世間はそんなの甘くない」と身をもって伝えて、子どもの「根源的不信感」を改めていっそう深めて、結局は「私は劣っているという感じ」をも子ども達の身につけさせてしまうことです。しかも、その自覚が教員にない、ということです。
 私どもは、エリクソンから学ぶ以上、自分が日々行っていることの目的、その「祈り」、その「不思議な自信」に自覚的でありたいものです。
 本日はこれまで。
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壊しちゃっても、いいんです 無視や搾取も仕方がない?

2013-04-16 06:25:23 | エリクソンの発達臨床心理
 前回から学童期に入りました。
 今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、学童期の部分の第2段落です。それでは翻訳します。






 私どもがここでいったん立ち止まって考えなくてはならないのは、経済的な理想、様々な形の競争、それから、建設の仕事を伴うならどのような破壊(素材、獲物、競争相手など)でも、それらを是認するのが、学校の流儀であることです。私どもが短い事例で分かったことは、ユーロック族の人々がいかに考え、祈りを込めて、サケに語るかということです。実際ユーロック族の人々はサケに対して、「あなたの仲間が、我々に必要な分だけ捕られ、食べられさえすれば、あなたたちは種族としては不滅です」と約束します。現に、サケの遡上がピークになった時に、大がかりな儀式をしては、歓喜しながら、毎年クラマス川にダムを作って、ユーロック族の人々は、有り余る漁獲を得ています。他方、十分な大人のサケが上流の産卵場まで遡上することを許し、だからこそ、十分な子孫が川を下り、予定した回帰のために大洋に消えていくことをも許すのです。このような不思議な自信に裏打ちされた行為は、土を耕す耕作者にも必要です。なぜなら、自然が、毎年の実りをすっかり取られても、それを受け容れ、しかも、慈悲深いままで、いや、十分に慈悲深いままでいてもらわなければならないからです。重商主義の頃までは、重商主義は財を集めて、人間を素材に商品を作る時に、奴隷というわけではないけれども、市場の道具か操り人形として、人間を利用します。産業革命が進展するにつれて、太古の罪の意識に起きたことはなんだったのか、というきわめて複雑な問いに私どもは直面しています。というのも、人間は機械に奉仕するためには自分が機械にならなければならないからです。しかも、他者を機械にしなければならないし、大事な決定を機械に譲り渡さなければならないからです。しかしながら、至る所で、太古の罪の意識が弱くなるのは、世界が搾取されてバラバラになっているのに、そのバラバラになった世界に応じて技術が完成されているためなのです。予定されたいっそう高度な完成度に貢献した人は、成功と報酬と称賛を得る「資格がある」のです。しかも、その過程で、誰を、何を搾取し、無視してきたかについては、自分自身が無視した自分の潜在能力も含めて、(ある程度は)忘れても仕方がありません。





 ここは、小林秀夫並みに飛躍が多く、論旨についていくのが難しいと思います。
 ただ、学校が経済のために、様々な競争や破壊(搾取や無視も)を是認する点と、産業革命以降、人間の「原罪」さえ意識せずにはおれない社会情勢があるにもかかわらず、技術が断片化された世界にのみ対応して精緻化しているために、トータルに人間や世界を見る視点を失って、自分や社会の課題さえ忘れてしまう、という指摘が重要でしょう。ユーロック族の人々や農耕をする人たちが、祈りをもって考え、話をしているとしたら、産業革命以降の社会に生きている私どもは、何を祈っているのでしょうか?あるいは、どのような「不思議な自信」を持っているのでしょうか?
 そのことを考えされられる箇所でした。
 本日これまで。
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