優しく世話してくれる母親と
あらゆることから私を全力で守り、
私に代わって私を苦しめた加害者に対し怒り、
全力で闘ってくれる父親と、
そういう両親に守られて、
何も心配することなく、
心穏やかに、闘病生活を過ごすことのできる、
そんな、子供の患者になりたい。
働くことも、
家事も、
性も、
人間関係のお付き合いも
義理も
礼儀も
社会や地域に生きるための義務も、
大人として当たり前の、数々の事を、
何も求められない、
苦しい時には、
ただ、病人でいられる、
大人たちの保護と優しさに囲まれた
こどもの患者になりたい。
食事をつくるどころか、
自分が食べることも、
トイレも、やっとであるくらいつらく、
着替えも、歯磨きも、お風呂も
激しいだるさでできないとき、
「よし、よし」と大人に笑顔で手を貸してもらえる
すべてを自分でできなくても、
責められない、
こどもになりたい。
入院準備でさえ、
何が必要か、どんな書類がいるのかも混乱する思考力で、
たかが準備に何日も何日もかかるほどの頭と、
体もつらく、かばんにつめることもつらく、
日常生活に追われ、
自分でなかなか出来ないとき、
何の心配もなく、親にやってもらえる、
こどもの患者になりたい。
大人に働いてもらい、
ご飯を炊いてもらい、
料理をしてもらい、
片付けもしてもらい、
ゴミ出しをしてもらい、
回覧板をまわしてもらい、
宅配便の受け取りに出てもらい、
集金に応対してもらえ、
電話に出てもらえ、
あらゆる人との応対を
本人に代わってやってもらえ、
難しい交渉も、
思考力低下の頭では難しいさまざまな手続きも、
書類書きも、文章書きも、
患者が負担に感じるすべてのことを、
「まかせとけ!何も心配しなくていいよ」って言ってくれる、
頼れる大人がいつも側にいる、
恵まれた
こどもの患者になりたい。
洗濯をしてもらえ、
たたんでもらえ、
掃除をしてもらえ、
買い物にいってもらえ、
寒くなれば
いつのまにかコタツが出ていて、
衣類も冬物が出てきて、
春になれば、
冬物は洗濯されてしまわれ、
春ものが出てきて、
季節を快適に過ごすための
備えも
日常生活に必要なあらゆることを
大人たちに準備してもらい、支えてもらえる
こどもになりたい。
脳脊髄液減少症になって、
苦しく長い家での闘病生活で、
大人としての数々の雑用をこなさなければならない毎日で、
私がそう思ってしまうのは、
たぶん、幸せなこども時代の記憶があるから・・・。
大人に支えられて、
何の不安もなく、生きていられた幸せな記憶があるから・・・。
とても優しく面倒を見てくれた祖母がいた。
病気になると、とても優しく看病してもらった。
私は自分のことだけ気にしていればよかった。
あとは何も心配しないでよかった。
学校に休みの連絡を入れることも、
病院の手配も、
すべて大人たちがやってくれた。
病気になって体は苦しくても、
心はくつろぎに満ちて、安心しきっていた。
病人でありながらの
あの安心感とやすらぎは今も忘れない。
そんな子供時代を送れたことに
感謝している。
でも、大人になった今、
自分のことのほとんどは、
自分でこなさなければならない。
交通事故で脳脊髄液減少症にさせられて、
うまくまわらない頭と体を抱えても、
自分のことは自分でしなければならない。
それは「大人」だから・・・。
私は自分が大人になって、
脳脊髄液減少症という見えない後遺症を抱えて、
働くことは免除されて、生きることを許されても、
闘病中、大人としての、こなさなければならない、
数々の事に直面して、途方にくれた。
高次脳機能障害に翻弄される頭と
苦しくつらい体をかかえながらも、
できる範囲で家事や社会に生きるための
最低限の行為をやらざるをえない状態になってみるまで、
病人として子供が寝ていられる陰で、
大人たちがこんなにたくさんのことをこなして
支えていてくれたことに、私は気がつかなかった。
こどもの私を保護してくれていた、
おとなたちのありがたさに
気がつかなかった。
でも、
世の中には、
今日生きることさえ、ままならない
厳しい環境におかれているこどもたちがいる。
大人たちの虐待によって、
今日も、命が危険にさらされているこどもたちがいる。
そんなことはわかっているのに、
大人の私の、
今の恵まれた環境も、頭では充分理解し、感謝しているのに、
私を支えてくれている周囲の人たちがいたから、
ここまでこれたとわかっているのに、
苦しい時に、もう親や周囲にはあまり頼ってはならない
「大人である」自分に気づき、
途方にくれてしまう。
誰か助けて!
私の変わりに、やって!と心の中で叫んでしまう。
「できない自分」を
周囲はなかなか認めてくれない。
「手を貸してほしい」と頼んでも、
私の、その見た目のなんともなさから、
なかなか真剣に手を差し伸べてもらえない。
そんな時、ふと
こどもになりたいと思ってしまう。
誰だって大人はつらいのに、
自分だけではないのに、
甘えてはいけないと思ってみても、
もし、私がいたいけなこどもの患者だったら、
こどもの被害者だったら、
親も周囲の大人たちも、医師たちも、社会も、
私を優先して対応してくれたのだろうか?
もっと優しく接してくれるのだろうか、
とつい考えてしまう。
そして、
大人だからと、
ひたすら症状があっても、耐え続けなければならず、
優先もされず、ただただがまんして、
いつ終わるともしれない苦しみの日々から
解放されたいと思う。
症状に苦しんでいてもなお、
こなさなければならない、生きるためのすべての
大人としての義務から解放されたいと思う。
ただただ病人として存在することを許してもらえる、
大人の優しさに囲まれた
こどもの患者になりたい。
どんなに動けなくても、
ただ、
存在しているだけで、
愛され大切にされる
あかんぼうになってしまいたい。