脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

こどもになりたい。

2008年01月25日 | 心の葛藤
こどもになりたい。

優しく世話してくれる母親と

あらゆることから私を全力で守り、

私に代わって私を苦しめた加害者に対し怒り、
全力で闘ってくれる父親と、

そういう両親に守られて、
何も心配することなく、
心穏やかに、闘病生活を過ごすことのできる、

そんな、子供の患者になりたい。

働くことも、
家事も、
性も、

人間関係のお付き合いも
義理も
礼儀も
社会や地域に生きるための義務も、

大人として当たり前の、数々の事を、
何も求められない、

苦しい時には、
ただ、病人でいられる、

大人たちの保護と優しさに囲まれた

こどもの患者になりたい。

食事をつくるどころか、

自分が食べることも、
トイレも、やっとであるくらいつらく、

着替えも、歯磨きも、お風呂も
激しいだるさでできないとき、

「よし、よし」と大人に笑顔で手を貸してもらえる
すべてを自分でできなくても、
責められない、
こどもになりたい。

入院準備でさえ、
何が必要か、どんな書類がいるのかも混乱する思考力で、

たかが準備に何日も何日もかかるほどの頭と、
体もつらく、かばんにつめることもつらく、
日常生活に追われ、
自分でなかなか出来ないとき、

何の心配もなく、親にやってもらえる、
こどもの患者になりたい。

大人に働いてもらい、
ご飯を炊いてもらい、
料理をしてもらい、
片付けもしてもらい、

ゴミ出しをしてもらい、
回覧板をまわしてもらい、
宅配便の受け取りに出てもらい、

集金に応対してもらえ、
電話に出てもらえ、
あらゆる人との応対を
本人に代わってやってもらえ、

難しい交渉も、
思考力低下の頭では難しいさまざまな手続きも、
書類書きも、文章書きも、

患者が負担に感じるすべてのことを、
「まかせとけ!何も心配しなくていいよ」って言ってくれる、
頼れる大人がいつも側にいる、

恵まれた
こどもの患者になりたい。

洗濯をしてもらえ、
たたんでもらえ、
掃除をしてもらえ、
買い物にいってもらえ、

寒くなれば
いつのまにかコタツが出ていて、

衣類も冬物が出てきて、

春になれば、
冬物は洗濯されてしまわれ、
春ものが出てきて、

季節を快適に過ごすための
備えも

日常生活に必要なあらゆることを
大人たちに準備してもらい、支えてもらえる

こどもになりたい。

脳脊髄液減少症になって、
苦しく長い家での闘病生活で、
大人としての数々の雑用をこなさなければならない毎日で、

私がそう思ってしまうのは、
たぶん、幸せなこども時代の記憶があるから・・・。

大人に支えられて、
何の不安もなく、生きていられた幸せな記憶があるから・・・。

とても優しく面倒を見てくれた祖母がいた。

病気になると、とても優しく看病してもらった。

私は自分のことだけ気にしていればよかった。
あとは何も心配しないでよかった。

学校に休みの連絡を入れることも、
病院の手配も、
すべて大人たちがやってくれた。

病気になって体は苦しくても、
心はくつろぎに満ちて、安心しきっていた。
病人でありながらの
あの安心感とやすらぎは今も忘れない。

そんな子供時代を送れたことに
感謝している。

でも、大人になった今、
自分のことのほとんどは、
自分でこなさなければならない。

交通事故で脳脊髄液減少症にさせられて、
うまくまわらない頭と体を抱えても、
自分のことは自分でしなければならない。

それは「大人」だから・・・。

私は自分が大人になって、
脳脊髄液減少症という見えない後遺症を抱えて、
働くことは免除されて、生きることを許されても、

闘病中、大人としての、こなさなければならない、
数々の事に直面して、途方にくれた。

高次脳機能障害に翻弄される頭と
苦しくつらい体をかかえながらも、
できる範囲で家事や社会に生きるための
最低限の行為をやらざるをえない状態になってみるまで、

病人として子供が寝ていられる陰で、
大人たちがこんなにたくさんのことをこなして
支えていてくれたことに、私は気がつかなかった。

こどもの私を保護してくれていた、
おとなたちのありがたさに
気がつかなかった。

でも、
世の中には、
今日生きることさえ、ままならない
厳しい環境におかれているこどもたちがいる。

大人たちの虐待によって、
今日も、命が危険にさらされているこどもたちがいる。

そんなことはわかっているのに、
大人の私の、
今の恵まれた環境も、頭では充分理解し、感謝しているのに、

私を支えてくれている周囲の人たちがいたから、
ここまでこれたとわかっているのに、

苦しい時に、もう親や周囲にはあまり頼ってはならない
「大人である」自分に気づき、
途方にくれてしまう。

誰か助けて!
私の変わりに、やって!と心の中で叫んでしまう。

「できない自分」を
周囲はなかなか認めてくれない。

「手を貸してほしい」と頼んでも、
私の、その見た目のなんともなさから、
なかなか真剣に手を差し伸べてもらえない。

そんな時、ふと
こどもになりたいと思ってしまう。

誰だって大人はつらいのに、
自分だけではないのに、
甘えてはいけないと思ってみても、

もし、私がいたいけなこどもの患者だったら、
こどもの被害者だったら、

親も周囲の大人たちも、医師たちも、社会も、
私を優先して対応してくれたのだろうか?
もっと優しく接してくれるのだろうか、
とつい考えてしまう。

そして、
大人だからと、
ひたすら症状があっても、耐え続けなければならず、
優先もされず、ただただがまんして、
いつ終わるともしれない苦しみの日々から
解放されたいと思う。

症状に苦しんでいてもなお、
こなさなければならない、生きるためのすべての
大人としての義務から解放されたいと思う。

ただただ病人として存在することを許してもらえる、
大人の優しさに囲まれた
こどもの患者になりたい。

どんなに動けなくても、
ただ、
存在しているだけで、
愛され大切にされる

あかんぼうになってしまいたい。




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大晦日のできごと 2

2008年01月18日 | 症状の説明
ここのところ寒いです。
でも、地球温暖化の中、これが寒中の寒さだと貴重に感じています。
幼いころの冬を思い出し、懐かしい感じもします。

1月もはや、半ばを過ぎてしまいました。
もう年末の話などしている場合ではないのですが、
途中なので続きを書きます。

少し長くなり、以下、キレイなお話ではないので、
不快が予想される方はここで閉じてください。
よろしくお願いします。




大晦日の確か9時前だったと思います。
いよいよ、NHKテレビの大晦日の第九コンサートも
歌手が登場し、舞台に並びました。
オーケストラをバックに、歌手の独唱や輪唱が始まりました。

私は今か今かと、あのバックの第九の大合唱を待っていました。

と、指揮者を真似て寝ながら気持ちよく手を動かしていた自分の体に
小さな違和感を感じました。

それは急に、晴れわたった青空にぽつんと湧いた、
雨雲のようでした。

気のせいよね。と自分に言い聞かせていましたが、

その得たいのしれない具合悪さは、
たちまち青空を埋め尽くす雷雲のように
全身に広がっていきました。

えっ?何?何この不調感は?と
自分の身に起こった変化が納得できないまま、
指揮する手をやめ、じっとしました。

具合いの悪さはやがて腹部の違和感に代わり、
次第にムカムカと気持が悪くなってきました。

せっかく第九もいいところなのに、もはやテレビどころではなくなりました。

だんだんと吐気がひどくなり、
ついにトイレに駆け込みましたが
オエオエとするだけで吐けません。

しばらく便器を抱え込み、一人でもがき苦しんでいました。

私のそんな状況に、家族は何の反応もなしでした。
「どうしたの?」「大丈夫?」と
声をかけてくれる人もいません。

皆それぞれに、大晦日の夜を楽しんでいるようです。

夕食に食べた何かに当たったのか?、
それとも何かの食品アレルギーか?と
頭は急にこうなった原因を一人トイレで便器を抱えたまま考えていました。

便器に頭をつっこむようにして、しばらくその姿勢で
座り込んでいて次に考えたことは、

情けないことに、
「ああ、便器の中も掃除してないなぁ・・・
私以外、誰も掃除してくれないんだなぁ・・・
大みそかなんだから、日中トイレぐらい掃除しとくんだった。」ということでした。

自分の非常事態にも、そんなことを考えている自分に
病体にむち打って、
家事をやらざるを得ない者の悲しさを感じました。

家族は同じものを食べていてなんともないので、
食中毒でもなさそうだし、
アレルギーは過去の経験から考えても、
食べてすぐ何らかの違和感や症状が現れるから、
食後2時間たった今ごろアレルギーが起こるとは思えませんでした。

しばらくして、吐き気がおさまったので、また居間の布団に横になりました。

しかし、しばらくしてまたもやこみあげる吐気が・・・・。

もはや自力で起き上がれない状態で、
起き上がる弾みで吐いてしまいそうな危機感で、
わずか居間から2メートルほどのトイレまで自力で行けないのです。

「私をトイレまで連れていって~」とやっとの思いで近くでテレビを見ていた家人に頼むと、
迷惑そうに「何やってんの」というような冷たい言葉とともに、手を引いて起こしてくれトイレまで連れていってくれました。

他のもっと頼れる家族は別の部屋に行っていて、助けを呼びようがありませんでした。
でも、手を引いてトイレまで誘導してくれるだけ、ありがたかったです。

今にも、嘔吐しそうで絶対絶命で手で必死に口を押さえ、
トイレになだれ込み、あとはついに嘔吐と下痢。

家族が急に苦しんでいるんだから、
もっと誰か優しく接してくれてもよさそうなのに、
家族の誰もが私の状態に、全くの無関心状態です。

いつもどこかが具合が悪い脳脊髄液減少症患者なんか、
いざ、急激な具合の悪さがきても、無関心のまま、放置されるのは
長年の生活で慣れているとはいえ、悲しいものです。

好きでこんな体になったわけではないのに、
交通事故でこんな体に「させられた」被害者なのに、

今までも医師にも家族にも周囲にも、
やっかいもの扱いされて、白い目でみられることがしばしばでした。

今回の症状が、脳脊髄液減少症の症状なのか、
別の原因であったのかわかりませんが、

具合の悪い時に、優しい言葉もかけてもらえない、
助けてもらえないことは、
人間なら誰でも、つらいのではないかと思いました。

今までムカムカすることはあっても、
吐くことはない私でしたので、
吐くほどの苦しさは久しぶりで、本当に自分でも異常事態と感じました。

その後吐いて吐気はおさまり、
また居間のふとんになだれ込んで横になっていたのですが、
今度は猛烈な寒気がやってきました。

ガタガタガタガタ、異様な寒気にいてもたってもいられず、
「そうだお風呂であたたまれば治るかも」と思い付き、

必死の思いで脱衣して、かけゆして湯船に入りました。

あたたまって少し体が楽になりましたが、
今度は湯船からなかなか出られなくなりました。
だるいというか、眠たいような感じで
このまま湯船で意識を失ってしまいそうな感じでした。

それまでも、異常な眠気でお風呂で眠りこんでしまうことが
過去にも何回もあり、

いけない、出なければと思い、
えいっと気合いを入れて湯から出たものの、
もはや着替えることもできない状態に達していて、とにかく一刻も早く横になりたい衝動にかられ、

かろうじて体をざっと拭いて、
裸の状態にフリースパジャマのみを素肌に直に身につけただけで、
また布団になだれこむように横になりました。

しばらく横になって落ち着いたので、やっと布団の上で、
改めて下着を身につけ着替えました。

あとはもうろうとしながら、横になっていました。

居間に寝ていたので、
テレビを見ている家族に、
音ががうるさくて「音を消して消して」と必死で何度も寝ながら言っていました。

おおみそかにテレビを楽しんでいる人にとって、
「音を消して」とはいい迷惑で、
音がうるさいなら私が別の部屋で休めばいいだろうと思ったようですが、

私は本当に動けなかったのです。

いつものことですが、私の一大事は、
家族にとって一大事でもなんでもないみたいなのです。

というより、脳脊髄液減少症患者はいつもあちこちと
さまざまな症状を訴えて「具合が悪い」と
言い続けることが多いので、

いつも「狼がきた」とホラで騒いで、村人を驚かせていて、
いざ本当に狼がやって来て、それを伝えようと「狼がきた」といっても、
村人たちは誰も信じてくれなかった、
ホラ吹きの「狼少年」と同じ状況かもしれません。

私も年中具合いが悪いのなんのと言っていると、
家族も慣れっこになっていて、
こうして、本当にいつもよりあきらかに緊急事態であっても、
ほっておかれる事を改めて思い知りました。

救急車でそこいらの病院に駆け込んだところで、
脳脊髄液減少症の病名を知っている家族にさえ、
相手にされない症状では、
病院でも誰にも相手にしてもらえないことでしょう。

寒い中大騒ぎして、結局家に帰され、
家族や周囲に迷惑かけるぐらいなら、
どんな不調がやってきても、じっと耐えぬくのが得策だと
学習してしまっています。

実際、健康な人なら、あきらかに救急車を呼ぶであろうような事態であっても
脳脊髄液減少症患者は、過去の医療からの冷たい仕打ちを知っているので
耐えぬくことに慣れています。

でも、耐えてじっとして、苦しみが去るのを待つのが
一番だと、長年の闘病で学習していてもなお、
いつもと違う異常事態や
あまりに苦しい症状だと、医療機関に助けを求めて
駆け込みたくなる衝動にかられます。

心のどこかで、医療機関に期待しているのかもしれません。

健康で、
底なし沼にはまったような苦しみの経験のない人は
自分が自力で動けないほどの病気にでもなってみるまで、
助けを求めざるを得ないほどの弱者の気持ちが
想像できないのかもしれません。

脳脊髄液減少症は、本当に死なない病なのでしょうか?

正しく診断されないために、
あまりに苦しく不可解で理解されない症状から
自殺してしまう人や、

判断力低下の高次脳機能障害による不慮の事故死、

急激な頻脈や徐脈や呼吸困難などによる急死、

突然の嘔吐による窒息などの突然死で亡くなっていても、
ただ、原因が「脳脊髄液減少症」とわからないだけなのではないでしょうか?

「死なない病」と軽視されがちな脳脊髄液減少症に潜む本当の怖さは
患者自身しか気がつけないのかもしれません。

その後、ふとんから起き上がれない私に何のおかまいもなく、
みんな年越しそばをゆでて食べはじめました。

かろじて私に「食べる?」の声をかけてもらいましたが、
すでに食べられる状態ではなく、ただただ横になっていました。

年末や元旦に急に具合いが悪くなっても、
病院は手薄で亡くなる人いるんだろうな?。とか、
さっきまで元気だった人が容態が急変というのはこういう事をいうのかな?とか。

脳脊髄液減少症患者がこの病態の症状が悪化して、
苦しいからといって、救急車呼んだところで、
近隣の病院で何してもらえるわけではないしなぁ・・・・

とか、食中毒で元旦の朝に死んで冷たくなっているのもみっともないなぁ・・・とか、
おおげさですが、
いろいろぼんやりと考えていました。

しばらくして家族が見ていたパソコンテレビから、「ゆく年、来る年」の音が流れてきました。

ああ2008年がはじまったんだと、布団に寝たまま知りました。

結局第九も紅白も年越しそばも、
一人最後まで楽しめないまま、新年を迎えました。

そのまま、眠り、元旦の朝を迎えました。

翌日はまだ、胃の調子も少し変で、体調もおかしかったのですが、
年越しそばを食べられなかった悔しさから、
意地でカップ麺のてんぷらそばを食べました。

その後、家族のために、お雑煮を作り、
おせちを並べました。

元旦から休みはありません。
というか、最後に与えられた「家事」という仕事まで、
できなくなってしまうとか、
失ってしまうとか、で
家族や、社会から見捨てられる恐怖で、
どんなに苦しくても動いてしまうクセが抜けないだけかもしれません。

せっかくのおおみそかに
絶好調だったのに、急にあのようになり、
いったい自分に何が起こったのか今も理解できません。

唯一、考えられるのは、あの激しい指揮振りの腕の運動ぐらいです。

でも、まさか?

急に激しい腕振りをしたことで、何かの神経が刺激されたとでもいうのでしょうか?
謎です。

翌朝家族は「夕べはだいぶ苦しんでいたね。でもたぶん、大丈夫だと思った。」ですって・・・・

「自分がこうなってみたら?その時私も何も心配してあげないから・・・」と
少々いじわるな気持ちがわいてしまいましたよ。

人は悲しい生き物です。
体験したこと以外、なかなか想像することも、理解することも難しいのですから。

そんなことを思いしる事件で年が終わり、
新しい年を迎えました。

便器抱え込み事件は
「運」がついたといいほうに解釈しようと思います。
(きたない話ですみません。

今年もどんな逆境にも負けず、生きていきたいと
思っています。

もうすぐ2月ですか、
早いものです。

人生にも春が来ることを、期待したいと思います。




        

注、
この一件は、「脳脊髄液減少症」の症状ではないかもしれません。
でも適当なカテゴリーがないので「症状の説明」に入れることにしました。

参考
狼少年(関西外国語短期大学の方のページより)

そうか~情報伝達のフィルター化かぁ・・・・
そうだったのかぁ・・。家人に悪気があったわけではなく、情報伝達のフィルターのしわざだったのかも・・・。

脳脊髄液減少症のことを、的確に世に伝えるためには
情報伝達論に詳しい方のお力をお借りするのも手かもしれませんね。
支援者の皆さん、よろしくお願いします。
患者が自ら動くのは、限界があります。

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大晦日のできごと 1

2008年01月10日 | 症状の説明
大晦日は昼間に
久しぶりに家族と近くのスーパーへ買い物に行きました。

年末の人々の賑わいを
肌で感じたかったからです。

この日は、とても体が楽で、
呼吸困難もなく、痛みも、体の重さもだるさもほとんど感じないほどで
朝から、「快調」と何度も口にしていました。

でも、少し半身がしびれる感じがしていたので、杖をついてでかけました。

大晦日のスーパーは
お正月のためのいろいろな食材がたくさん並んでいて、
見ているだけで、
脳の刺激とリハビリになるような思いでした。

しかし、あまりの人ごみに疲れてきて
いくつかの食材を買って、
早々に帰ってきました。

年越しそばは、夜遅く夜食に食べることにして、
てんぷらを揚げてもらいました。

てんぷらは年越しそばようにとっておいて、
買って来た別のおかずで
6時半ごろには普通にご飯をたべ、
7時20分の紅白歌合戦までにすべてを終えていました。

あとは、
コタツに入って、紅白や他のテレビ番組をいろいろ見ながら、
夜がふける予定でした。

紅白がはじまり、最後のブログも更新し終わり、
コタツに入ってテレビを見始めました。

だんだん紅白がつまらなくなり、
家族も別の部屋でテレビを見出して、
途中から、私だけになり、

一人で布団に横になりながら、
紅白から、チャンネルを切り替え、
NHK交響楽団の
年末恒例の年越しクラシックの、
ベートーベンの第九を
コタツ横の布団に横たわりながら聞いていました。

(家事をしながら、いつでも横になれるよう、居間に布団が敷きっぱなしです。)

曲はなかなかお目当ての、
合唱付きの第4楽章にならないのですが、
ずっと聞いていました。

今年は好きなクラシックを大晦日に聞くことができ、
第九で年末をしめることができ、
ささやかな幸せを感じていました。

頻尿がもっと治まり、長く座っていられる自信ができたら、
来年はテレビの中のコンサートではなく、
本物のコンサートに行きたいなぁと思いながら、見ていました。

次第に指揮者のUPの画面に引き込まれ、
いつのまにか、寝ながら指揮者と同じように、宙に手を振り上げ、
手を激しく指揮者と同じように振っていました。

指揮者になりきったような気分で、
仰向けに寝たままテレビの指揮者を見ながら、
気持ちよく一緒に両手を振っていました。

今までは、寝ながら手を天井に向かってあげることは、とても疲れて長くできない行為でしたが、
調子の良かったその日は、手の脱力もなく、天井に向かって
指揮者と同じように激しく振ることもできました。

そんな自分にわずかな回復を感じながら、

このまま時間が流れ、テレビを見ながら、静かに世がふけ、
夜食に年越しそばを食べながら、「ゆく年くる年」を見ながら
年越しができると思っていました。

あんなハプニングが
その後の自分に襲い掛かろうとは、
全く予想だにしませんでした。

それぐらい、リラックスしていたし、
油断していました。



(つづく)

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七草粥

2008年01月07日 | 小さな幸せ
7日の朝に七草を作って食べました。

七草粥とは、
せり、
なずな、
ごぎょう、
はこべら、
ほとけのざ、
すずな、(かぶ)
すずしろ、(だいこん)の春の七草入りのお粥を、

正月の7日の朝に炊いて食べ、
今年1年の無病息災を祈る習慣だそうです。

お正月のご馳走で疲れた胃腸の
調子を整えるという意味もあるようです。

昨年は七草も買いに行けず、
作ろうと思う気力もなかったので、今年こそはと挑戦しました。

七草セットを買って、
前の晩に炊飯器のおかゆモードでセットして、
7日の朝に全粥が炊き上がるようにしました。

全粥だと、少しかためのおかゆになってしまったので、

別に、すずな(かぶ)とすずしろ(大根)を刻んで煮ていた土鍋におかゆをうつして、水を足して、少しゆるめのお粥にしてから、
のこりの、せり、なずな、ごぎょう、はこべ、を刻んで直接入れて、塩で味を調えました。

葉物は、直接入れず、さっと茹でてから入れると
苦味やあくがとれていいようですが、

私は野草の香りも苦味も楽しみたかったので
そのまま刻んでおかゆに入れてしまいました。

無病息災を祈ると言っても、
すでに無病とはいえない状態の私ですが、
脳脊髄液減少症の回復を祈って食べました。

冬の朝に、あたたかな部屋でお粥のゆげをながめ、

春を感じさせる草の緑と、おかゆの白も目に優しく、
ほどよい塩味とお米の甘さと、
七草のわずかな苦味と
ほのかな土の香りのお粥を口にして、

新年を無事迎えられた喜び、生きている幸せが
自然にふつふつと沸いてきます。

ささやかな日本の行事を味わうたびに
季節の移り変わりを感じ、癒しを感じ、

今まで自分が生きてこれたことへの感謝と喜びと、
未来への希望まで自然にわいてきます。

脳脊髄液減少症の体にとって、
水分と塩分と糖質を一度に補給できるお粥の効果は、
すでに体験的に知り、学びとっていて、療養生活に取り入れてきました。

野草の入った七草粥はさらに、体にいいと感じます。

皆さんも、七草粥、召し上がりましたか?
七草でなくても、青菜で一度おためしください。

脳脊髄液減少症の体も心も癒されます。
おすすめです。






参考
七草粥の豆知識
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新年の初めに伝えたいこと

2008年01月02日 | つぶやき

日本頭痛学会の皆様

日本神経外傷学会の皆様

皆様の脳脊髄液減少症に対するお考えを、

一部ネットで読みました。

 

申し訳ありませんが、皆さんの診断基準には

すくなくとも私はあてはまりません。

 つまり、皆様の診断基準では私は、

今までどおり、

「異常なし」か「精神的なもの」にされてしまう恐れがあると思いました。

 

私は、このことから、

皆様は、「正しく脳脊髄液減少症を理解されていない。

と感じました。

 

理解していないからこそ、

あのような

実際の脳脊髄液減少症患者の私もあてはまらないような、

患者の実態に即していない診断基準」をもっともらしく

示されるのだと思います。

実際の患者の私から見て、

どこがどう、自分の体験した実態と違うのかは、

体力的にゆとりのある時に 少しずつお伝えしたいと思いますが 、

まずは、皆様の診断基準では、

さまざまな不定愁訴の原因が「脳脊髄液漏れ」であっても、

見逃されてしまう危険性を指摘したいと思います。

 

今のままの皆様の考える診断基準では、

今まで私が受けてきたように、

脳脊髄液減少症患者が

「異常なし。」や「精神的なもの」「心因性」「ストレスのせい」と「自律神経失調症」「うつ病」などと

言われ続けて、放置される事態を生んでしまう恐れがあります。

 

古い考えの「低髄液圧症候群」の診断基準の考え方をひきずるなら、

私は今も、心因性患者のままにされてしまいます。

皆様方の考えた今の診断基準のままなら、今まで患者が置かれてきた状況となんら変わらず、病態は見逃され、悲劇はくりかえされかねません。

 今のままの診断基準では、

「脳脊髄液減少症」の早期発見、早期診断につながりません。

これでは、なんのための診断基準かと

私は激しい憤りさえ感じています。

 

このままでは、今後も、本当の病名すら気づかないまま、

医師にも知らされないまま、

快方に向かう可能性すら知らないまま、

苦しみ続ける患者が出続ける恐れがあります。

 

少なくとも私は、

皆様の診断基準では、抜け落ちてしまう。」という

この事実だけでも、

 

新年の初めにまず、お伝えさせていただきます

 

皆様の中に、脳脊髄液減少症患者の生の声や

脳脊髄液減少症治療を多数経験している

パイオニアの医師の声に

真摯に耳を傾けてくれてくださる心ある方がたが

必ずいることを信じています。

 

ご理解のほど、

よろしくお願い申し上げます。 

 

 

 

参考:

日本頭痛学会の

慢性頭痛診療ガイドライン

特発性低髄液圧性頭痛はどのように診断、治療するか

 

日本神経外傷学会の

 「頭部外傷に伴う低髄液圧症候群の診断基準などについて」と

「外傷に伴う低髄液圧症候群診断フローチャート」

このフローチャートでは、

私は正真正銘交通事故での脳脊髄液減少症なのに、外傷直後の状態の私でもあてはまらないのです。

 

つまり、脳脊髄液減少症患者を見落とす可能性があると思います。

 

 

 

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新年を迎えて

2008年01月01日 | 日記
 あけましておめでとうございます。 

大晦日に油断したせいか、
ちょっとしたハプニングがありましたが、

無事、新年を迎えることができました。

ただ、それだけで幸せです。

今年も、あたりまえの日常の中の幸せを見つけながら、
日々をすごし、
前に進んで生きたいと思っています。

今年もよろしくお願いします。  


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