ここのところ寒いです。
でも、地球温暖化の中、これが寒中の寒さだと貴重に感じています。
幼いころの冬を思い出し、懐かしい感じもします。


1月もはや、半ばを過ぎてしまいました。
もう年末の話などしている場合ではないのですが、
途中なので続きを書きます。
少し長くなり、以下、キレイなお話ではないので、
不快が予想される方はここで閉じてください。
よろしくお願いします。
大晦日の確か9時前だったと思います。
いよいよ、NHKテレビの大晦日の第九コンサートも
歌手が登場し、舞台に並びました。
オーケストラをバックに、歌手の独唱や輪唱が始まりました。
私は今か今かと、あのバックの第九の大合唱を待っていました。
と、指揮者を真似て寝ながら気持ちよく手を動かしていた自分の体に
小さな違和感を感じました。
それは急に、晴れわたった青空にぽつんと湧いた、
雨雲のようでした。
気のせいよね。
と自分に言い聞かせていましたが、
その得たいのしれない具合悪さは、
たちまち青空を埋め尽くす雷雲のように
全身に広がっていきました。
えっ?何?何この不調感は?と
自分の身に起こった変化が納得できないまま、
指揮する手をやめ、じっとしました。
具合いの悪さはやがて腹部の違和感に代わり、
次第にムカムカと気持が悪くなってきました。
せっかく第九もいいところなのに、もはやテレビどころではなくなりました。
だんだんと吐気がひどくなり、
ついにトイレに駆け込みましたが
オエオエとするだけで吐けません。
しばらく便器を抱え込み、一人でもがき苦しんでいました。
私のそんな状況に、家族は何の反応もなしでした。
「どうしたの?」「大丈夫?」と
声をかけてくれる人もいません。
皆それぞれに、大晦日の夜を楽しんでいるようです。

夕食に食べた何かに当たったのか?、
それとも何かの食品アレルギーか?と
頭は急にこうなった原因を一人トイレで便器を抱えたまま考えていました。
便器に頭をつっこむようにして、しばらくその姿勢で
座り込んでいて次に考えたことは、
情けないことに、
「ああ、便器の中も掃除してないなぁ・・・
私以外、誰も掃除してくれないんだなぁ・・・
大みそかなんだから、日中トイレぐらい掃除しとくんだった。」ということでした。
自分の非常事態にも、そんなことを考えている自分に
病体にむち打って、
家事をやらざるを得ない者の悲しさを感じました。
家族は同じものを食べていてなんともないので、
食中毒でもなさそうだし、
アレルギーは過去の経験から考えても、
食べてすぐ何らかの違和感や症状が現れるから、
食後2時間たった今ごろアレルギーが起こるとは思えませんでした。
しばらくして、吐き気がおさまったので、また居間の布団に横になりました。
しかし、しばらくしてまたもやこみあげる吐気が・・・・。
もはや自力で起き上がれない状態で、
起き上がる弾みで吐いてしまいそうな危機感で、
わずか居間から2メートルほどのトイレまで自力で行けないのです。
「私をトイレまで連れていって~」とやっとの思いで近くでテレビを見ていた家人に頼むと、
迷惑そうに「何やってんの」というような冷たい言葉とともに、手を引いて起こしてくれトイレまで連れていってくれました。
他のもっと頼れる家族は別の部屋に行っていて、助けを呼びようがありませんでした。
でも、手を引いてトイレまで誘導してくれるだけ、ありがたかったです。
今にも、嘔吐しそうで絶対絶命で手で必死に口を押さえ、
トイレになだれ込み、あとはついに嘔吐と下痢。
家族が急に苦しんでいるんだから、
もっと誰か優しく接してくれてもよさそうなのに、
家族の誰もが私の状態に、全くの無関心状態です。
いつもどこかが具合が悪い脳脊髄液減少症患者なんか、
いざ、急激な具合の悪さがきても、無関心のまま、放置されるのは
長年の生活で慣れているとはいえ、悲しいものです。
好きでこんな体になったわけではないのに、
交通事故でこんな体に「させられた」被害者なのに、
今までも医師にも家族にも周囲にも、
やっかいもの扱いされて、白い目でみられることがしばしばでした。
今回の症状が、脳脊髄液減少症の症状なのか、
別の原因であったのかわかりませんが、
具合の悪い時に、優しい言葉もかけてもらえない、
助けてもらえないことは、
人間なら誰でも、つらいのではないかと思いました。
今までムカムカすることはあっても、
吐くことはない私でしたので、
吐くほどの苦しさは久しぶりで、本当に自分でも異常事態と感じました。
その後吐いて吐気はおさまり、
また居間のふとんになだれ込んで横になっていたのですが、
今度は猛烈な寒気がやってきました。
ガタガタガタガタ、異様な寒気にいてもたってもいられず、
「そうだお風呂であたたまれば治るかも
」と思い付き、
必死の思いで脱衣して、かけゆして湯船に入りました。
あたたまって少し体が楽になりましたが、
今度は湯船からなかなか出られなくなりました。
だるいというか、眠たいような感じで
このまま湯船で意識を失ってしまいそうな感じでした。
それまでも、異常な眠気でお風呂で眠りこんでしまうことが
過去にも何回もあり、
いけない、出なければ
と思い、
えいっと気合いを入れて湯から出たものの、
もはや着替えることもできない状態に達していて、とにかく一刻も早く横になりたい衝動にかられ、
かろうじて体をざっと拭いて、
裸の状態にフリースパジャマのみを素肌に直に身につけただけで、
また布団になだれこむように横になりました。
しばらく横になって落ち着いたので、やっと布団の上で、
改めて下着を身につけ着替えました。
あとはもうろうとしながら、横になっていました。
居間に寝ていたので、
テレビを見ている家族に、
音ががうるさくて「音を消して消して」と必死で何度も寝ながら言っていました。
おおみそかにテレビを楽しんでいる人にとって、
「音を消して」とはいい迷惑で、
音がうるさいなら私が別の部屋で休めばいいだろうと思ったようですが、
私は本当に動けなかったのです。
いつものことですが、私の一大事は、
家族にとって一大事でもなんでもないみたいなのです。
というより、脳脊髄液減少症患者はいつもあちこちと
さまざまな症状を訴えて「具合が悪い」と
言い続けることが多いので、
いつも「狼がきた」とホラで騒いで、村人を驚かせていて、
いざ本当に狼がやって来て、それを伝えようと「狼がきた」といっても、
村人たちは誰も信じてくれなかった、
ホラ吹きの「狼少年」と同じ状況かもしれません。
私も年中具合いが悪いのなんのと言っていると、
家族も慣れっこになっていて、
こうして、本当にいつもよりあきらかに緊急事態であっても、
ほっておかれる事を改めて思い知りました。
救急車でそこいらの病院に駆け込んだところで、
脳脊髄液減少症の病名を知っている家族にさえ、
相手にされない症状では、
病院でも誰にも相手にしてもらえないことでしょう。
寒い中大騒ぎして、結局家に帰され、
家族や周囲に迷惑かけるぐらいなら、
どんな不調がやってきても、じっと耐えぬくのが得策だと
学習してしまっています。
実際、健康な人なら、あきらかに救急車を呼ぶであろうような事態であっても
脳脊髄液減少症患者は、過去の医療からの冷たい仕打ちを知っているので
耐えぬくことに慣れています。
でも、耐えてじっとして、苦しみが去るのを待つのが
一番だと、長年の闘病で学習していてもなお、
いつもと違う異常事態や
あまりに苦しい症状だと、医療機関に助けを求めて
駆け込みたくなる衝動にかられます。
心のどこかで、医療機関に期待しているのかもしれません。
健康で、
底なし沼にはまったような苦しみの経験のない人は
自分が自力で動けないほどの病気にでもなってみるまで、
助けを求めざるを得ないほどの弱者の気持ちが
想像できないのかもしれません。
脳脊髄液減少症は、本当に死なない病なのでしょうか?
正しく診断されないために、
あまりに苦しく不可解で理解されない症状から
自殺してしまう人や、
判断力低下の高次脳機能障害による不慮の事故死、
急激な頻脈や徐脈や呼吸困難などによる急死、
突然の嘔吐による窒息などの突然死で亡くなっていても、
ただ、原因が「脳脊髄液減少症」とわからないだけなのではないでしょうか?
「死なない病」と軽視されがちな脳脊髄液減少症に潜む本当の怖さは
患者自身しか気がつけないのかもしれません。
その後、ふとんから起き上がれない私に何のおかまいもなく、
みんな年越しそばをゆでて食べはじめました。
かろじて私に「食べる?」の声をかけてもらいましたが、
すでに食べられる状態ではなく、ただただ横になっていました。
年末や元旦に急に具合いが悪くなっても、
病院は手薄で亡くなる人いるんだろうな?。とか、
さっきまで元気だった人が容態が急変というのはこういう事をいうのかな?とか。
脳脊髄液減少症患者がこの病態の症状が悪化して、
苦しいからといって、救急車呼んだところで、
近隣の病院で何してもらえるわけではないしなぁ・・・・
とか、食中毒で元旦の朝に死んで冷たくなっているのもみっともないなぁ・・・とか、
おおげさですが、
いろいろぼんやりと考えていました。
しばらくして家族が見ていたパソコンテレビから、「ゆく年、来る年」の音が流れてきました。
ああ2008年がはじまったんだと、布団に寝たまま知りました。
結局第九も紅白も年越しそばも、
一人最後まで楽しめないまま、新年を迎えました。
そのまま、眠り、元旦の朝を迎えました。
翌日はまだ、胃の調子も少し変で、体調もおかしかったのですが、
年越しそばを食べられなかった悔しさから、
意地でカップ麺のてんぷらそばを食べました。
その後、家族のために、お雑煮を作り、
おせちを並べました。
元旦から休みはありません。
というか、最後に与えられた「家事
」という仕事まで、
できなくなってしまうとか、
失ってしまうとか、で
家族や、社会から見捨てられる恐怖で、
どんなに苦しくても動いてしまうクセが抜けないだけかもしれません。
せっかくのおおみそかに
絶好調だったのに、急にあのようになり、
いったい自分に何が起こったのか今も理解できません。
唯一、考えられるのは、あの激しい指揮振りの腕の運動ぐらいです。
でも、まさか?
急に激しい腕振りをしたことで、何かの神経が刺激されたとでもいうのでしょうか?
謎です。

翌朝家族は「夕べはだいぶ苦しんでいたね。でもたぶん、大丈夫だと思った。
」ですって・・・・
「自分がこうなってみたら?その時私も何も心配してあげないから・・・」と
少々いじわるな気持ちがわいてしまいましたよ。
人は悲しい生き物です。
体験したこと以外、なかなか想像することも、理解することも難しいのですから。
そんなことを思いしる事件で年が終わり、
新しい年を迎えました。
便器抱え込み事件は
「運」がついたといいほうに解釈しようと思います。
(きたない話ですみません。
)
今年もどんな逆境にも負けず、生きていきたいと
思っています。
もうすぐ2月ですか、
早いものです。
人生にも春が来ることを、期待したいと思います。

注、
この一件は、「脳脊髄液減少症」の症状ではないかもしれません。
でも適当なカテゴリーがないので「症状の説明」に入れることにしました。
参考
狼少年(関西外国語短期大学の方のページより)
そうか~情報伝達のフィルター化かぁ・・・・

そうだったのかぁ・・。家人に悪気があったわけではなく、情報伝達のフィルターのしわざだったのかも・・・。
脳脊髄液減少症のことを、的確に世に伝えるためには
情報伝達論に詳しい方のお力をお借りするのも手かもしれませんね。
支援者の皆さん、よろしくお願いします。
患者が自ら動くのは、限界があります。

でも、地球温暖化の中、これが寒中の寒さだと貴重に感じています。
幼いころの冬を思い出し、懐かしい感じもします。



1月もはや、半ばを過ぎてしまいました。
もう年末の話などしている場合ではないのですが、
途中なので続きを書きます。
少し長くなり、以下、キレイなお話ではないので、
不快が予想される方はここで閉じてください。

よろしくお願いします。

大晦日の確か9時前だったと思います。
いよいよ、NHKテレビの大晦日の第九コンサートも
歌手が登場し、舞台に並びました。
オーケストラをバックに、歌手の独唱や輪唱が始まりました。
私は今か今かと、あのバックの第九の大合唱を待っていました。
と、指揮者を真似て寝ながら気持ちよく手を動かしていた自分の体に
小さな違和感を感じました。
それは急に、晴れわたった青空にぽつんと湧いた、
雨雲のようでした。

気のせいよね。

その得たいのしれない具合悪さは、
たちまち青空を埋め尽くす雷雲のように
全身に広がっていきました。

えっ?何?何この不調感は?と
自分の身に起こった変化が納得できないまま、
指揮する手をやめ、じっとしました。
具合いの悪さはやがて腹部の違和感に代わり、
次第にムカムカと気持が悪くなってきました。
せっかく第九もいいところなのに、もはやテレビどころではなくなりました。
だんだんと吐気がひどくなり、
ついにトイレに駆け込みましたが

オエオエとするだけで吐けません。

しばらく便器を抱え込み、一人でもがき苦しんでいました。
私のそんな状況に、家族は何の反応もなしでした。
「どうしたの?」「大丈夫?」と
声をかけてくれる人もいません。
皆それぞれに、大晦日の夜を楽しんでいるようです。


夕食に食べた何かに当たったのか?、
それとも何かの食品アレルギーか?と
頭は急にこうなった原因を一人トイレで便器を抱えたまま考えていました。
便器に頭をつっこむようにして、しばらくその姿勢で
座り込んでいて次に考えたことは、
情けないことに、
「ああ、便器の中も掃除してないなぁ・・・
私以外、誰も掃除してくれないんだなぁ・・・
大みそかなんだから、日中トイレぐらい掃除しとくんだった。」ということでした。

自分の非常事態にも、そんなことを考えている自分に
病体にむち打って、
家事をやらざるを得ない者の悲しさを感じました。

家族は同じものを食べていてなんともないので、
食中毒でもなさそうだし、
アレルギーは過去の経験から考えても、
食べてすぐ何らかの違和感や症状が現れるから、
食後2時間たった今ごろアレルギーが起こるとは思えませんでした。
しばらくして、吐き気がおさまったので、また居間の布団に横になりました。
しかし、しばらくしてまたもやこみあげる吐気が・・・・。
もはや自力で起き上がれない状態で、
起き上がる弾みで吐いてしまいそうな危機感で、
わずか居間から2メートルほどのトイレまで自力で行けないのです。
「私をトイレまで連れていって~」とやっとの思いで近くでテレビを見ていた家人に頼むと、
迷惑そうに「何やってんの」というような冷たい言葉とともに、手を引いて起こしてくれトイレまで連れていってくれました。
他のもっと頼れる家族は別の部屋に行っていて、助けを呼びようがありませんでした。
でも、手を引いてトイレまで誘導してくれるだけ、ありがたかったです。
今にも、嘔吐しそうで絶対絶命で手で必死に口を押さえ、
トイレになだれ込み、あとはついに嘔吐と下痢。

家族が急に苦しんでいるんだから、
もっと誰か優しく接してくれてもよさそうなのに、
家族の誰もが私の状態に、全くの無関心状態です。
いつもどこかが具合が悪い脳脊髄液減少症患者なんか、
いざ、急激な具合の悪さがきても、無関心のまま、放置されるのは
長年の生活で慣れているとはいえ、悲しいものです。

好きでこんな体になったわけではないのに、
交通事故でこんな体に「させられた」被害者なのに、
今までも医師にも家族にも周囲にも、
やっかいもの扱いされて、白い目でみられることがしばしばでした。

今回の症状が、脳脊髄液減少症の症状なのか、
別の原因であったのかわかりませんが、
具合の悪い時に、優しい言葉もかけてもらえない、
助けてもらえないことは、
人間なら誰でも、つらいのではないかと思いました。
今までムカムカすることはあっても、
吐くことはない私でしたので、
吐くほどの苦しさは久しぶりで、本当に自分でも異常事態と感じました。

その後吐いて吐気はおさまり、
また居間のふとんになだれ込んで横になっていたのですが、
今度は猛烈な寒気がやってきました。

ガタガタガタガタ、異様な寒気にいてもたってもいられず、
「そうだお風呂であたたまれば治るかも

必死の思いで脱衣して、かけゆして湯船に入りました。
あたたまって少し体が楽になりましたが、
今度は湯船からなかなか出られなくなりました。
だるいというか、眠たいような感じで
このまま湯船で意識を失ってしまいそうな感じでした。

それまでも、異常な眠気でお風呂で眠りこんでしまうことが
過去にも何回もあり、
いけない、出なければ

えいっと気合いを入れて湯から出たものの、
もはや着替えることもできない状態に達していて、とにかく一刻も早く横になりたい衝動にかられ、
かろうじて体をざっと拭いて、
裸の状態にフリースパジャマのみを素肌に直に身につけただけで、
また布団になだれこむように横になりました。
しばらく横になって落ち着いたので、やっと布団の上で、
改めて下着を身につけ着替えました。
あとはもうろうとしながら、横になっていました。
居間に寝ていたので、
テレビを見ている家族に、
音ががうるさくて「音を消して消して」と必死で何度も寝ながら言っていました。
おおみそかにテレビを楽しんでいる人にとって、
「音を消して」とはいい迷惑で、
音がうるさいなら私が別の部屋で休めばいいだろうと思ったようですが、
私は本当に動けなかったのです。
いつものことですが、私の一大事は、
家族にとって一大事でもなんでもないみたいなのです。
というより、脳脊髄液減少症患者はいつもあちこちと
さまざまな症状を訴えて「具合が悪い」と
言い続けることが多いので、
いつも「狼がきた」とホラで騒いで、村人を驚かせていて、
いざ本当に狼がやって来て、それを伝えようと「狼がきた」といっても、
村人たちは誰も信じてくれなかった、
ホラ吹きの「狼少年」と同じ状況かもしれません。
私も年中具合いが悪いのなんのと言っていると、
家族も慣れっこになっていて、
こうして、本当にいつもよりあきらかに緊急事態であっても、
ほっておかれる事を改めて思い知りました。

救急車でそこいらの病院に駆け込んだところで、
脳脊髄液減少症の病名を知っている家族にさえ、
相手にされない症状では、
病院でも誰にも相手にしてもらえないことでしょう。
寒い中大騒ぎして、結局家に帰され、
家族や周囲に迷惑かけるぐらいなら、
どんな不調がやってきても、じっと耐えぬくのが得策だと
学習してしまっています。
実際、健康な人なら、あきらかに救急車を呼ぶであろうような事態であっても
脳脊髄液減少症患者は、過去の医療からの冷たい仕打ちを知っているので
耐えぬくことに慣れています。
でも、耐えてじっとして、苦しみが去るのを待つのが
一番だと、長年の闘病で学習していてもなお、
いつもと違う異常事態や
あまりに苦しい症状だと、医療機関に助けを求めて
駆け込みたくなる衝動にかられます。
心のどこかで、医療機関に期待しているのかもしれません。
健康で、
底なし沼にはまったような苦しみの経験のない人は
自分が自力で動けないほどの病気にでもなってみるまで、
助けを求めざるを得ないほどの弱者の気持ちが
想像できないのかもしれません。
脳脊髄液減少症は、本当に死なない病なのでしょうか?
正しく診断されないために、
あまりに苦しく不可解で理解されない症状から
自殺してしまう人や、
判断力低下の高次脳機能障害による不慮の事故死、
急激な頻脈や徐脈や呼吸困難などによる急死、
突然の嘔吐による窒息などの突然死で亡くなっていても、
ただ、原因が「脳脊髄液減少症」とわからないだけなのではないでしょうか?
「死なない病」と軽視されがちな脳脊髄液減少症に潜む本当の怖さは
患者自身しか気がつけないのかもしれません。

その後、ふとんから起き上がれない私に何のおかまいもなく、
みんな年越しそばをゆでて食べはじめました。

かろじて私に「食べる?」の声をかけてもらいましたが、
すでに食べられる状態ではなく、ただただ横になっていました。
年末や元旦に急に具合いが悪くなっても、
病院は手薄で亡くなる人いるんだろうな?。とか、
さっきまで元気だった人が容態が急変というのはこういう事をいうのかな?とか。
脳脊髄液減少症患者がこの病態の症状が悪化して、
苦しいからといって、救急車呼んだところで、
近隣の病院で何してもらえるわけではないしなぁ・・・・
とか、食中毒で元旦の朝に死んで冷たくなっているのもみっともないなぁ・・・とか、
おおげさですが、
いろいろぼんやりと考えていました。
しばらくして家族が見ていたパソコンテレビから、「ゆく年、来る年」の音が流れてきました。
ああ2008年がはじまったんだと、布団に寝たまま知りました。
結局第九も紅白も年越しそばも、
一人最後まで楽しめないまま、新年を迎えました。

そのまま、眠り、元旦の朝を迎えました。
翌日はまだ、胃の調子も少し変で、体調もおかしかったのですが、
年越しそばを食べられなかった悔しさから、
意地でカップ麺のてんぷらそばを食べました。
その後、家族のために、お雑煮を作り、
おせちを並べました。
元旦から休みはありません。
というか、最後に与えられた「家事

できなくなってしまうとか、
失ってしまうとか、で
家族や、社会から見捨てられる恐怖で、
どんなに苦しくても動いてしまうクセが抜けないだけかもしれません。
せっかくのおおみそかに
絶好調だったのに、急にあのようになり、
いったい自分に何が起こったのか今も理解できません。
唯一、考えられるのは、あの激しい指揮振りの腕の運動ぐらいです。

でも、まさか?
急に激しい腕振りをしたことで、何かの神経が刺激されたとでもいうのでしょうか?
謎です。


翌朝家族は「夕べはだいぶ苦しんでいたね。でもたぶん、大丈夫だと思った。


「自分がこうなってみたら?その時私も何も心配してあげないから・・・」と
少々いじわるな気持ちがわいてしまいましたよ。

人は悲しい生き物です。
体験したこと以外、なかなか想像することも、理解することも難しいのですから。

そんなことを思いしる事件で年が終わり、
新しい年を迎えました。

便器抱え込み事件は
「運」がついたといいほうに解釈しようと思います。
(きたない話ですみません。

今年もどんな逆境にも負けず、生きていきたいと
思っています。
もうすぐ2月ですか、
早いものです。

人生にも春が来ることを、期待したいと思います。










注、

この一件は、「脳脊髄液減少症」の症状ではないかもしれません。
でも適当なカテゴリーがないので「症状の説明」に入れることにしました。
参考
狼少年(関西外国語短期大学の方のページより)



そうだったのかぁ・・。家人に悪気があったわけではなく、情報伝達のフィルターのしわざだったのかも・・・。
脳脊髄液減少症のことを、的確に世に伝えるためには
情報伝達論に詳しい方のお力をお借りするのも手かもしれませんね。
支援者の皆さん、よろしくお願いします。

患者が自ら動くのは、限界があります。
