今日は、お天気です。
2月2日はフーフの日
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?(勝手に決めたい。)
きのうは意外に寒くて、公園にはいけませんでした。
今日は、朝から呼吸が苦しくて・・・・いけるかどうか・・・。
最近地域のさまざまな役員決めの時期に入ってきて、ちょっと悩んでいます。
先日、町内の方から電話
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がありました。
今度役員をお願いできないかって・・・。
早くも、4月からの役員決めがはじまるようです。
地域に生きていると、たとえ仕事をしていなくても、
地域のさまざまな役員に誘われます。
いえ、仕事をしていないからこそと、頼まれやすいのです。
昨年は横断歩道の立ち当番は辞退しました。
立っていられないからです。
ごみ収集場の清掃は、家族に代わりに行ってもらいました。
炎天下の草刈りは家族に行ってもらいました。
冷房の部屋にいても、まぶしく、喉が渇いて、起きていられなかったから。
地域の道路清掃のごみ拾いは許してもらいました。
でも、今まで、こんなに悪化して動けなくなるまでは
症状を抱えながらもいろいろな役を、私は必死で何でも辞退することなく、
こなしてきました。
○○委員、○○係、
暑い日の草刈りだって、やりました。
横断歩道の立ち当番だってやりました。
原因不明の症状で体調不良でも、悪化前の立って歩けた時は
なんでも積極的に、逃げずにやってきました。
もともと病気を理由に、めんどうなことから逃げる人間ではありません。
むしろ、無理してもこなしてきました。
「やりたくないから」と思われるのが悔しかったから、
必死に、社会についていこうと努力してきました。
でも、悪化で、起きているのが苦しくなったり、
呼吸が苦しくなって、立っていられなくなる症状がひどくなってからは
とても、お役に立てる状態ではなかったのです。
今回もまだ、体調が万全ではなく、
申し訳ないと思いながら、その役員をお断りしました。
まだ、家事をやっとこなす毎日で、リハビリ散歩さえできないこともしばしば。
取り込んだ洗濯物を、たたむところまで体力が持たず、そのまま放置の毎日。
思考力も、記憶力も、言葉によるコミュニケーション力もリハビリ途中。
体調に激しい波があり、
会合の日の、決まった日時に、
出かけられる状態である保障はどこにもない。
そんな状態で役員をやれば
かえって、皆さんに迷惑をかけてしまう気がします。
昨年も、治療前で身動きも取れないほどの体調の時、
違う役員決めの会合に欠席しました。
でも、
わざわざ自宅に電話がかかってきて、やっと電話に出ると
「役員をお願いできないか。」と言われました。
「病気のためできない」と断ったら、
「以前の役員決めの時もご病気でしたよね。
ずっとご病気で大変ですねぇ。
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」と言われました。
事情を全く知らない人が、
悪気はなく、なにげなく出た励ましの言葉だったのかもしれませんが、
私は、
「そんなに何年も病気が長引くなんて、役員やりたくないから、仮病でしょ?」と言われているように感じてしまいました。
症状が重く、苦しい時期だっただけに、
苦しさを理解されない中、誤解されつつ「断る」ということが、
本当につらく、心にも体にもこたえて落ち込みました。
これが認知された「重病名」を言えば、
その病状の深刻さ、闘病の過酷さが周囲に一瞬で伝わるのでしょうが
「脳脊髄液減少症で」と言っても、この例えようのないだるさや痺れや
痛さや、自殺を考えるほどの、
肉体的、精神的つらさが、ほとんど全く、人に伝わりません。
伝わらないということは、理解されないことですから、
さらなる誤解にさらされることになります。
診断がついて病名をもらった今ですら、こうです。
「脳脊髄液減少症」という病名すらなかった時代の
患者の置かれた状態を、どうか想像してみてください。
どれだけ、社会の無理解がひどかったか。
どれだけつらかったか。
今年は、病名を告げてお断りしてみましたが、
理解していただけたかわかりません。
いろいろな場面で、
「あの人は、いつも、病気を理由に役員を逃げている。」と思われても
しかたがないとあきらめています。
本人は窒息しそうなほどに息が苦しい
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、
心臓が苦しい、体が痛い、
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、だるくて動けない症状が
今だ続いていても、
周囲の人にしてみれば、見た目には、そうは見えないという、この不思議な病。
本当の闘病中であっても、仮病と疑われてしまう悲しさ。
でも、健康な人でも「仮病を使って、役員逃れをしている」方が
実際にきっといるのでしょう。
医師にも認知が広がっていない、
見た目に健常者の「脳脊髄液減少症」
まして、昨年秋から、
体調がいい時は、時間制限があるもののリハビリ外出している私。
そのわずかな時間の外出中の私を見た人は、
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なおさら、苦しい病気
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であることは信じられなくなるでしょう。
元気に動けるのは体調のいい日のわずかな時間のことで、
ほとんどの時間は、今も
家
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から自力でなかなか出られない状態であることは、
想像もできないでしょう。
呼吸困難で家の中でさえ、動けずうずくまっているような状態は
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外の人目に触れることはないのですから・・・・。
見かけるのは、元気な時の私だけ。
これがこの病気の回復中の「新たな誤解」を産む、
試練であると最近気づきました。
短時間、短距離ながら、自力で行動できるようになると、
身近で見ている家族でさえ、疑いの目
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で見ているのを感じることがあります。
元気な時と苦しんでいる時のあまりのギャップに
まるで、
「都合の悪い時だけ、具合が悪くなる。」かのように、
疑いの目で私を見ているように感じます。
演技なんかじゃないのに、本当に体調に波があるのに・・・
私を見るその冷たい目は何?
身近な人ですら、こうです。
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事情や病気をよく知らない他人なら、
なおさら疑いの目で見るでしょう。
大人が、認知度の低い病気になり、働かず家にいて、
しかも、地域の人々のお役にもたてなければ、
ますます誤解されて、
さらに周囲から、孤立するのを感じます。
このくらいのことも引き受けられない私は
甘えているのでしょうか・・・?
無理しても、なにか、役員を引き受けるべきなのでしょうか・・・?
それも社会復帰のリハビリになるのでしょうか?
心は葛藤していますが、
今はまだ、自分のことで精一杯でゆとりがないのです。
自分の世話がもっと楽にできて、他人のお役に立てる余裕が出るまで、
もう少し、どうか、許してほしい・・・。
甘えかもしれないけど、周囲の人々に助けてほしい。
支えてほしい。
昔は積極的で、行動的だった私。
本来の自分が完全に戻ってくる日を、信じたい。
それまで、誰もわかってくれなくても、誤解されても、
なんと批判されても、しかたがありません。
本人の体調は、本人にしかわからないのですから。
自分にできそうか、できそうでないか、は自分にしかわからないのですから。