細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

鞆の浦の不思議

2014-04-10 16:51:00 | 人生論

現代社会の諸問題の根源は共通のようでして、そのことは、「大衆社会の処方箋」にも明確に書いてあるし、内田先生の種々の本にも書かれているように思います。

共通の根源が見えるようになると、世の中の諸現象の理解も深まり、処方箋を理解すると自分自身のやるべきことも明確になるように思います。

「すべてがつながる感覚」を明確に感じたのは、2013年2月23日のことでした。翌朝の24日は、まさに見える世界が変わったように感じました。

その後、1年ちょっとを経て、今回、2014年3月末からの日本出張の間に皆様とたくさんお話をし、4月6日に鞆の浦で羽田冨美江さんとたっぷりとお話をし、その翌日辺りにまた「すべてが明確につながる感覚」をはっきりと感じました。

ではなぜ、鞆の浦に来ると、「すべてがつながる感覚」が研ぎ澄まされるのか?

これについては、「死」を通じて(直視することを通じて)、「生きる」ことの意義や意味について、自分自身の中で根源的に理解できるからであろう、と今回4/6(日)の訪問の後に感じました。鞆の浦に行くだけではそのような理解には至らず、やはり羽田冨美江さんとお話しするといつもそのような深いところへの理解に至ります。私がとても大好きな方ですが、やはりとてもすごい方なのだと改めて感じました。

今回は、羽田さんが、お義母様の介護をするようになって、お義母様のことが好きになり、その結果、自分のことも好きになった、とおっしゃっていたことが、私の「生きる」ことに対する理解を深めました。お義母様の介護をなさる前は、今ほど好きではなく、羽田さんがご自身のことも好きになれなかった、とおっしゃっていました。「介護の負の面ばかり世の中でクローズアップされるけど、介護のいい面ももっと伝えていかないといかんねえ」と、おっしゃっていました。

さらに、今回、羽田冨美江さんとお話していたときには、鞆の浦の喫茶店に、ぶらりと入ってこられた北山さん(私は全くの初対面)も我々の会話に参加され、ご自身のお体が不自由な中で、お母様の介護をされていることを伺い、上記の「介護を通して好きになる」ことを羽田さんと納得されながらお話しされていました。これが私の感性を大きく刺激しました。

感性が刺激された状態で、ゆったりと鞆の浦を一人で1時間弱、散歩しました。ご先祖様たちが祀られているお寺をゆったりと巡るだけで私の心が洗われていくような感覚を覚えましたし、その後、福山駅近くのお店で、鞆中学校の海野先生とじっくりとお話しできたときにも、様々な理解がお互いに深まりました。海野先生との最後の時間では、私は羽田さんとの時間で感じたことをお伝えしているときに涙が止まりませんでした。

鞆の浦、とは不思議なところですね。今後も通い続けようと思います。