細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

修行論、内田先生

2014-04-26 19:22:06 | 人生論

何事に対しても、批判する人というのはいるもので、批判、批評が悪いわけでは決してないでしょうし、私もそのような行為をすることもありますが、やはり、私自身はポジティブに世の中を見たいと思う人間です。だから、内田先生の見方にも共感するのだろうと思います。

村上春樹を批判する人がいてもいいし、村上春樹を称揚する内田先生の文章を批判する人がいてもいいのですが、私はそれらの方々の文章に魅せられることはないし、そのような批判的な文章を読むくらいであれば、「芥川龍之介大全」を読んでいたい。

内田樹先生の本は、我々の仲間の間で流行っていますが、「修行論」も含蓄深い哲学が記されています。以下、カッコは引用です。

「修行はそういうものではありません。走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。
 そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそも「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もいない場所を一人で走っている。もう同一のトラックを並走している競争の相手はどこにもいない。修行というのは、そういうものです。」

「生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」である。」

「加齢や老化を「敵」ととらえて、全力を尽くして健康増進とアンチ・エイジングに励んでいる武道家がいたとしたら、彼は生きていること自体を敵に回していることになる。」

「多くの人が考えているのと違って、大学教育とは、何か有用な知識や技術を「加算」することではない(そう信じている教師も少なくはないが)。そうではなくて、「学び」への衝動の自然な発露を妨害している学生たち自身の「無知への居着き」を解除することなのである。」

「しかし、人間の心身の能力を爆発的に開花させようと思ったら、私たちは「そのような能力が自分に備わっているとは思わなかった能力」を見つけ出し、磨き上げ、その使い方に習熟せねばならない。」

(道場では)(細田が解釈を加えるなら、「研究室という寺子屋においては」)、「自分の柔らかい部分をさらすことが許される」・・・「稽古は常に愉快に実施することを要す」(植芝盛平先生の道場訓)

「「自分の能力を高める努力」と「競争相手の能力を引き下げる努力」では、後者の方がはるかに費用対効果が高い。私が自分の武道的な能力を高めようとする努力は、さしあたり私ひとりにしかかかわらないけれども、同門の人々を委縮させ、恐れさせ、不安がらせ、能力の成長を阻害し、稽古をする意欲を失わせようとする努力は、高い感染性をもつからである。」

「「ものを創る」のはむずかしいし、手間暇がかかるが、「ものを壊す」のは容易であり、かつ一瞬の仕事だからである。100年かけて丹精した建物が一夜の家事で灰燼に帰すように、あるいは10年かけて築いた信頼関係が、わずか一言の心ない言葉で崩れ去るように、創るのはむずかしく、壊すのは易い。だから、相対的な優劣・強弱・勝敗に固執すると、人は無意識のうちに、同じ道を進む修行者たちの成長を阻害するようになる。」

「ほんとうに射程の長い研究をなしとげようと望むなら、研究者たちは長期にわたって淡々と(家庭生活を営んだり、友人と遊んだり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、旅行をしたり・・・・・しながら)ゆったりと継続することができるような研究スタイルを構築しようとするはずである。
 寝食を忘れ、家庭を持たず、友人を遠ざけ、研究外的なすべての活動を断念して、ブレークスルーの到来を待つ「マッド・サイエンティスト」型の研究スタイルは、その際だった外見ほどには生産的ではない。少なくとも、例外的な天才以外にはお薦めできない。」

上記のように、「修行論」の前半戦にも、私の大学での教育、研究室での教育、研究者としての修業哲学に通ずるところが多々ありました。

冒頭での話に戻りますが、批判、批評のみは、我々教育者が本来果たすべき役割とはほど遠いところにあるように思います。


労働哲学

2014-04-26 02:49:37 | 趣味のこと

村上春樹のファンであることは何度もブログで書いていますが、内田樹先生の「もういちど村上春樹にご用心」を読みました。書籍の帯に「これは村上春樹さんへのファンレターです」と書いてある通り、内田先生によるポジティブな村上春樹論です。

村上さんご自身が、書評というものを全く読まないらしい。書評は馬糞だと言い切るくらい相手にしないそうです。

内田先生のこの本の中にも、いわゆる文壇の方々は村上春樹を徹底的に批判するか、無視するかだそうでして、私が学生の頃に東大の総長だった蓮実重彦氏もクソみそに批判されるそうです。

「批評」って楽なんですよね。ブラッシュアップするための批評は必要だと思うのですが、批評が目的になった批評って、何かを生み出すのかしら。

その点、内田先生の村上春樹論は読んでいて非常に楽しい。

以下、「村上春樹の労働哲学」というエッセーからの一部引用です。

「・・・・ ほんとうにそうだと思うんです。僕たちの世界には理由もない壮絶な暴力や邪悪なものがたしかに存在する。そういうものに僕たちはほんとうになにげなく角を曲がったとたんに出くわしたりする。それがもたらす被害を最小化するためにも、日常生活の細部で決して手を抜いてはいけないんです。アイロンをきちんとかける。鉛筆を尖らせて削る。適切な塩加減でスパゲッティをゆでる。そういった気配りは少しも表層的なことではなく、生きる上での根本に関わることなんです。」

「「文化的雪かき」という言葉が『ダンス・ダンス・ダンス』で出てきますが、ああいうことを主人公の責務として描いた作家なんてこれまでいないんじゃないですか。一人一人の雪かき仕事のような無名の、ささやかな献身の総和として、世界は辛うじて成り立っている。そういう労働哲学、僕はとても好きです。」

小説家に共鳴するのは、その人の哲学に共鳴するからです。

一つ一つの仕事をしっかりやるしかないんですよね。

先ほど、日本の神話(第1巻)「くにのはじまり」(このシリーズは秀作です。大人も楽しめる本格的な絵本で、我が家の子供たちも大好き)を読んでやっている途中に、次女が足の指の爪が気になったらしく、伸びて剥がれそうになっていた部分を剥ぎ取っていました。剥ぎ取った部分をソファーの上にそれとなく捨てていました。

それを見て、「たった一つ捨てるだけ、と思っているかもしれないけど、あなたが5つ捨てて、家族四人全員が捨てたら20個のゴミになるよ。家がすごく汚くなる。だから、たった一つのゴミでも、ゴミ箱に捨てるなり、ティッシュにくるむなりするようにしよう。」と伝えました。納得していたようでした。

私がいつもブログで言っていることも同じです。一人一人が自分の本分を果たし、勇気をもって連携するしかないのです。それが、壮絶な暴力や邪悪から我々の大切なものが壊されていくのを最小化する唯一の道であろうと思います。

村上春樹の面白さ、すごさは他の切り口でも内田先生が紹介されていますので、ファンにはお薦めです。