銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ジャックと豆の木、大切な豆科の木が切り倒されて。

2010-12-26 00:26:58 | Weblog
 これは、金曜日からほとんど一日の間上げておいた文章が、一万字を
超えたので、前のほうを別立てで、進行としてあげました。そちらのタイトルは、『年末に、大銀杏が倒れたことを、考える』と成っています。
 その続きですが、スクロールして、こちらへ、お入りになっていただくことを希望して下においておきます。

 子供のころ、誰もが読む童話に、ジャックと豆の木』というものがあります。あれを皆様は、誇張と思っていらっしゃるでしょう。私も長らくそう思っておりました。

 家庭菜園をなさっておられる方でしたら、まめといったら、枝豆(大豆)、そら豆、えんどう豆、などをお考えでしょうし、庭で花を作っている人ならスイートピーなどがすぐ思い浮かぶでしょう。えんどう豆、や、スィートピーは竹の格子仕立てだったら、二メートルぐらいの高さにはなりますが、茎の直径は太くて一センチです。

で、『子供が登れるほどのしっかりした豆なんて、この世には、ないでしょう』と思っていました。ところが、実際に、それがあるのです。鶴岡八幡宮の境内、神奈川県立近代美術館・鎌倉館(旧本館)の庭内にそれがあるのです。

 私が鎌倉へ引っ越してきたのは、27年前ですが、その前から八幡宮とその中にある美術館にはよく遊びに来ていましたので、そのひときわ異彩を放つ、豆科(?)の大木には、強い印象を受けてきました。

 その名前は、メキシコ(あめりか)キササゲとも呼ばれるらしくて、切り口は新しいときには黄色です。だから、き・ささげというのでしょう。豆科とも思えぬ大木で、伐採後の切り口は直径が50センチはありました。もちろん、硬くて、人が乗っても倒れない序も区です。ジャックと豆の木は、その生長が一夜だったという天は童話特有のフィクションでしょうが、木の高さという点では嘘でもないと思わせる木です。鎌倉のも、樹高は30メートルはありましたが、横倒しの形になっており、臥龍ということばは、まさにこのことを指すと言った風情でした。


 もしかしたら、豆科ではないのかもしれませんが、幹がくねくねと、龍のように曲がるので、ささげというまめ科の名前がついているのです。大好きな木だったといってもよいでしょう。
 それで、何回もそれについてエッセイを書いています。それらはAOLのメルマガ(閉鎖されているが)で、書いてきました。
 この木が大問題なのは、すでに伐採をされてしまっていることです。それも、影からの悪い教唆によってでしょう。

 八幡宮さまは、その歴史が800年もあるのに、最近65年間だけ、この日本を支配している国際的軍産共同体のエージェントである井上ひさしと伊藤玄二郎のあいであによって、伐採をされてしまわれました。
 私はもちろん悲しみました。というのも、その伐採は、私を悲しませることが目的だということはすぐわかったからです。下にスクロールしていただきますと、広告を三権間に挟んで『ジャックと豆の木』というエッセイがあります。そのエッセイが与える感動をそぎたい、殺してやりたい、その気をどくしゃには、見せてやるものか』という憎しみで伐採されたのが、瞬間的にわかったからです。

 特に大昔の文章だから、上の文章の続きですが、日付を前にして、うえから続いてお読みいただけるように手配をしています。では、どうか、よろしく。

 ところで、もうひとつの、大結論へはいらせていただきます。

それは、伊藤玄二郎という人が、まったく見当はずれな選択ばかりしているということです。で、その結果、お気の毒に、八幡宮さまでは大銀杏が倒れるということとなりました。大銀杏を倒したのは、自然現象でしたが、私は前の年に、アメリカ(または、メキシコ)キササゲが、元気なのにもかかわらず、伐採をされたときに、予感として、あの大銀杏の倒れるのを察知していました。

天網恢々、疎にしてもらさずとは、まさに、このことなり』と感じ入ってしまいました。きささげを伐採なさったのは、どういうルートで何を考えて相なさったのかは八幡宮様に問い合わせたことはありません。が、以下の文章が、井上ひさしの目に留まり、この文章の力をそぐために、伐採をされたのでしょう。つまり、その跡地を訪ねる愛読者(といっても、私はその本を市販していないわけですが)が出てくると困るからです。

 私は、無論のこと、古い現象は忘れてあげたいですよ。恨みを残したくないです。ただし、井上ひさしが、死亡という隠れ蓑の影で、次から次へと、この日本全国へ及ぼす悪辣な、諜略行為を重ね続け、また、それによる論功行賞で、えらそうに都出を繰り返すのに、は、怒りを禁じえませんね。

もちろん、八幡宮様は利用をされただけだだから、あまりはっきりと書いては、お気の毒だとは思いますが、昨日も柳沢某のえばったらしい、雰囲気に5分間以上、石段で、さらされ続けたし、本日も、堂々と、崖の私有地で農作業をしている安野氏の姿を見つけましたので、「あ、そうですか。これは、書いてもよいと、天がお許しくださっていますね。そのサインでしょう。二人のまったく、無反省な姿に接すると言うことは」と考え付きました。
だって、そのふた家族は、大いなる原因者なのです。
私だけではない被害を、この日本へ与え続けている存在なのですから。関東圏の愛煙家、数百人が自由と尊厳を奪われていること、および、電車の遅延により、重大な損失をこうむっているかもしれないということ。などなど、枚挙に暇がないほど、この鎌倉の、この山から発信された現象は、深くて、大きいのです。


『プロの朗読者と私と、二人だけの音楽会』

私は、夜遅く小町通りを通る時、あたりに誰も人がいなくて、しかも気分が高揚している時には、歌を歌う事があるのです。今日はね。それほど、気分が高揚しているわけではありませんでしたが、それでもほっとしたというか、なんとないやわらかい気分であったのです。     
すると、対抗方向から、すごく良い声が聞こえて来ました。割と大きな声で、歌っている男性が歩いて来ます。すれ違う時に観察すると若くは無い。(実際には五十三才だと後で聞きますが)それが驚きでしたが、すれ違って数メートルしてから「もし、もし」と、こちらから声を掛けて呼びかけました。すごく良い声だし声量が只者ではない大きさで、あとで、プロの朗読者であり、鎌倉の喫茶店でお金を取るパフォーマンス『芥川龍之介の、奉教人の死』をやって来たばかりだという事が判るのですが、それを全然知らない時点から、私には感覚として、特別な人だと判ったのです。

 それで「あなたは、音楽がとても好きそうね。私も大好きだから、二人だけの音楽会をしません。どこか人のいないところで」と提案をしたのです。で、そういう場所として、八幡宮へ向かいました。彼は、源氏池の傍にベンチがあるといいましたが、私は最初から、鎌倉近代美術館(鎌倉館)の庭にあるアメリカ・きささげの傍を考えていました。私にとっては、その美術館はほとんど、我が家の庭みたいなもので、朝な夕なに横切るし、そのアメリカ・きささげは、こどもと一緒に三十年以上前に記念写真を撮った事があるのですが、その頃は、ほとんど、ベンチ代わりにできる高さで、臥龍のごとく横たわっていたのです。

そこに一人が座って、もう一人が美術館の玄関(これは、普通は内部のスタッフだけが使うものですが、ちょうど、高めの三段の階段になっているので、舞台としては、とても、適当です)で歌おうと考えたのです。
 しかし、まったく成長をしていないように見えたアメリカ・きささげは、意外にも結構成長をしており、とてもベンチとしては使えず、反対に、電気がついている玄関の方を観客席として使い、電気がついておらず暗いきささげ側に歌い手側が立って、パフォーマンスをする事になりました。
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 最初に彼は、おおたか静流(しずる)の歌を二曲歌いました。私は、今までは名前も声も知らなかった歌手ですが、コマーシャルソングの女王として、その声は日本中の人が知っているそうです。そのあとで、私が最近凝っているピアチェ・ダモールと、例の荒川静香のトリノオリンピック優勝時の音楽『誰も寝てはならぬ』を歌って、その後でお互いの音楽人生を語りながら、
 彼が、杜甫の、『春望』(漢詩)・・・・・・これは、作曲者がおらず、中国語の四声(イントネーション)を、生かしたものだそうです・・・・・を歌いました。
 このあたりで、彼を只者では無いと確信した私が問いただすと、プロの朗読者である事がわかりました。ただ、とても純粋な人のようで、私と同じく、その芸術だけでは、とても食っては行けないそうです。

 その後で、私は、今まで聴衆に一番受けた(PTAの宴会でしたが)歌として、春日八郎の『長崎の女』とか、他人の前では、高音部が出るかどうかに自信が無いので歌った事が無いが、四十代では最も好きだった歌として、トスカから、『歌に生き、恋に生き』を歌いました。が、どちらの曲でも、さすがに二十年が過ぎていて、最高音部は出ませんでした。
 春日八郎をこっちが歌ったので、彼も安心をしたのでしょうか? 天才以上の人として彼が思う、しかもその死によって、彼が突然歌に目覚めたという、美空ひばりを四曲歌いました。彼は美空ひばりについての音楽評論を何本も書いたそうです。インテリにして芸術家だったわけです。だけど、まだ無名だし純粋そうで、だから生活は苦しそうです。私とそっくり、・・・・・それに、後で、彼のビラを見せてもらったら、『風狂の朗読者』と書いてあったので、私がいつも、社会現象(および政治)について書く時には『風狂の歌い手』という呼称を使っているのとも、ぴったり合致するわけですね。

 ただ、歌い手としては、本当に驚くべき、表現力のある人で、すばらしい歌唱でした。私は、普段は美空ひばりを嫌いなのに、ねじ伏せられてしまいました。
********

 このあたりで美術館の内部から、警備員さんが二人出て来ました。私が、断りを言うと、「どうぞ、どうぞ、ご自由になさってください」といわれましたので、ふたりの、パフォーマンスが、相当、レベルが高かったと皆様にも、お考えをいただきたいのです。

 その後で、私は、カタリ(これは、パバロッティの持ち歌)とか、ハバネラ(カルメンより)とかを、全力でしかも、身振りを付けて歌いました。聞き手のレベルを信頼できるし、環境がすこぶる良いのです。誰も邪魔者は、聞いてはいない。セミだけはうるさいが、さすが鎌倉です。八幡宮を参拝か、帰宅のために通る人たちも、別に私たちの方へ近寄って来るわけでもない。そうです。こういう真に文化的な事を、突然にやっても、きちがい
(差別用語? でも、私は使いたい・・・・・誰かを指しているわけでもないし)だと思われない街だと、私は信じているのです。最後に、私がグノーのアヴェ・マリアを歌って、その後で、打ち止めにしようと提案をしました。

 で、二人とも静かになったわけですが、私が引き続いておしゃべりをしたのです。つまり、「グノーのアヴェ・マリアが、普段より低いキーになったわ。これは、あなたの影響だと思う。あなたは、男性としては声のキーが高いのではありませんか。だから女性の私が影響を受けて、このアヴェ・マリアを、元のキーで歌いました。普通はもっと、高いキーで歌うのです」と・・・・・・・

 すると、静かになったのをいぶかしんで、中から警備員のうちのお一人がもう一度出て来られたのです。そして、「もう、おしまいですか?」といわれました。「すごく良い声で、リクエストをしたいぐらいです」とも。私が、「こちらの男の方はお上手ですが、私は駄目だったでしょう?」というと、「いえ、リクエストしたいぐらいですよ」といって下さったのです。で、私が、「ではお言葉に甘えてトライして見ましょう。何か、歌のタイトルを仰ってください」と促すと、「では、青葉の笛を」と仰るのです。で、「あーおばしーげれる、さーくらいのー」と、楠正成の歌を歌いだすと、「それでは、ありません」と仰るのです。
 「そうではなくて、敦盛、ただのり、兄弟の話です」と仰って、平家物語の中の、その段の説明を始められたのです。すると、それを聞いていた朗読者の方が『僕、平家物語の朗読をしましょうか」といい出したんですよ。
 それで、多分、六十才代であろう、その教養のある警備員さんと、同じく六十才代である私のたった二人だけで、そのご本人が言うに、総計二十分は掛かるという「義仲の最後」の段を聞いたのです。

 ああ、それは、たった三分ほどに感じられました。

 皆様、今日の文章はどこといっておとしどころのない話です。山場も無い、逐一の状況説明のお話です。でもね。私が言いたい事は、最高で、かつ良質なものは、意外なところに在るという事なのです。テレビでもない、新聞でも無い。全く、違うところに、ひそやかに在るという事なのです。それが、ご理解を頂きたくて、これを、書きました。                  二〇〇六年八月二十九日   

 それを2010年に再録する、そして、このブログを書いているのは、2010年の12月25日(土曜日)の深夜です。上の文章を、さらに、手を入れて、署名を入れるのは、月曜日(27日)の早朝二時、に。   雨宮舜
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