銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

『棗(なつめ)』がいっぱい・・・骨董とは文化を伝えるものだった

2010-12-05 14:48:59 | Weblog
 ここですが、『感動がないときは書かない』と、決めているのに、感動の無い日でも書くことの態勢に入ってしまうのです。

 感情が動く事はダイナモです。特に怒りは、大きな起爆剤です。しかし、今日は一切、感情は動いておらず、ただ、分析だけを重ねるつもりですが、それが、他人の心を打つものになるかどうかに自信が無くて、それゆえに、かえって、考え抜き始めてしまったのです。普段は水が流れるように言葉があふれてきます。しかし、今日はひねり出し、こねくりだしながら語っていかせてくださいませ。
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 12月に入り、クリスマスシーズンに入りました。しかし、日本の街には以前ほどにはクリスマスソングは流れておりません。人々は静かに、自宅でクリスマスを送る見込みだそうです。

 そんな中、思い出されるのは、ディッケンズの小説クリスマス・キャロルの主役、スクルージです。お金本位な強欲な人が、クリスマスを機縁として、別の人間となっていく話です。日本のことわざで言えば、『情けは人のためならず』ということを表していたと思います。

 お金って、とても大切でなくてはならないものなのに、ありすぎても幸せではないのですよね。不思議なことですが、そうらしい。

 私はこの秋、相続の関係で、東京美術クラブというところに些少の縁ができたので、それを、きっかけとして、そこで行われる売り立て(即売会)に参加してみようと決めました。普段は新鮮なものが好きです。画廊で見る現代アートです。それは、一年か、半年以内の出来立てです。で、骨董には興味がないのですが、場所さえも知らなかった、その建物を二回も訪問をしたのですから、これをきっかけに、『日本の富豪たちが参加するであろう』即売会を、ちょっと覗いてみたいと思ったのです。

 で、時間的によゆうがあったので、浜松町の駅前の本屋に入り、富豪に関する本を数冊買いました。自分が富豪になりたいからではないのですよ。社会を勉強するために、です。五十代では、勉強の方向を、犯罪の実録書へ向けていました。今は『富豪とはナンだ』という分野に向かっています。そこで、本を5冊も買ったために、長時間の立ち読みとなってしまって、『あれ、五時近いぞ。これでは、入場できないかな』と心配になり、あわててタクシーを拾ったら、「今日は、東京美術クラブへ向かうお客が少ないので、催しはやっていないのではないですか?」と運転手さんが言うのです。でも、実際には開いていたので、、後で、『不況のせいで、以前ほど、お客が来ないのかなあ』と思いました。で、書画・骨董を、三千点に近い数を一度に見るという、一生に、初めての経験をいたしました。
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 さて、一番初めに気がついた事は「棗(なつめ、抹茶の粉を入れる道具)」の出品が多いということです。ヨーロッパのコレクターは根付けと、浮世絵を好むようですが、日本の好事家は、「棗」を好むようでした。その事に「どうしてなのだろう」と、まず、考察が行きます。利休が創設したわびちゃの精神とは、かけ離れた華やかさが「棗」には、あります。たいていは金蒔絵の漆でできていて、中には、螺鈿で、装飾をされたものもあります。これは、きっと形の小ささに原因があると思いました。抹茶の粉は少量でよいです。だから、高さが10センチ、直径が、6センチぐらいの、尻つぼみの円筒です。わびちゃの世界では、ボリュームが小さいほうです。

 ですから、利休の精神が覆うその世界の、ちょっとした隙を縫って、豪華になったのではないかと考えます。茶杓や茶せん、茶釜など、みんな質朴だからこそ、ここ一点だけは、華やかにしたいという、殿様や江戸時代の富豪たちの、好みの反映でもありましょうか? 

 それと、出品数が一番多いという事は、小さいので、値が張らないのに、華やかなので、初心者でも惹かれるからでしょうか? 値段としては、ピン(一つ200万円を越えるもの)からキリ(2万円ぐらい)までありますが、『だいたい、ひとつ、20万円から50万円だなあ』と感じました。

 さて、この棗を鎌倉で大量に見た日があって、それを、今日のメインの話題にしたいのですが、そこの主題は表現が大変に難しいところなので、恐れ入りますが、ここからは、短編小説として書かせてくださいませ。・・・・・
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 『棗で、満ちた壁』

 百合子が頭の中で、ざっと計算するに、小町通りだけは、一万五千回は通ったと思う。他のとおりは、回数がはるかに少なくなるが、26年も住んでいれば、大体のニュアンスはつかめている。その中で、そこだけは、違和感を感じるドアーがあった。開かずのドアーなのだ。26年間一度もあいているのを見た事がない。といっても、毎日通るわけではないのだけれど、すでに、100回は通ったが、それでも一度もあいているのを見た事がなかった。
 場所は、にぎやかなところなのに、お客が入っている気配が無い。
 
 しかし、チャンスはとうとう訪れた。ある夏の午後、そこが珍しくあいていたのだ。中を見ると壁一面びっしりと、華やかな茶碗類が飾られている。「あ、ここって、骨董店なのだ」とひらめいて中に入る。遠くから見て、茶碗だと見えたものは、実際には棗だった。驚いた。縦横ぎっしりと詰まっていて、棗だけで、30個はありそうだった。鎌倉の骨董店で、これほどの数の棗を一度に展示をしているところなんて無い。

 銀座の画廊だって、棗をこんな、ぎゅうづめ状態で、見せているところなんて無い。高価なものなので、ガラスケース内に、左右に十分に余白を残して配置するのが、普通のやり方だ。百合子は、骨董には興味の無い人間だが、相当にいいものを保存してある画廊だと感じて、歴史的な美がここからは、探せそうな気もした。で、

 「すみません、買うわけではないのですが、美しいものが大好きなので、ちょっと見せて下さい」と言った。すると、左側に立っていた主人らしき老人が、「うちは知らない人には売らないんだ」とつっけんどんに言った。そして、『見るのも、よしてくれ』というような冷たくて恐ろしい顔をした。ちょっと忘れられない態度と顔だった。で、びっくりして外へ出た。そのときに、この部屋が道路より、数十センチ下がっていることを知り、『あれ、落窪に住んでいるのだ。それも、秘密主義を強めているのね』と思った。ふっと小説クリスマス・キャロルに出てくるおじいさん、スクルージを思い出した。

 そして、『最近、ジョージ・ソロスが引退を決め、大金を寄付した後では、顔が美しく変化した』というエピソードを思い出した。

 相手は日本人だ。それも、鎌倉に住んでいる紳士(?)だ。しかも大金持ち。棗を、幅1,5メートル高さ1メートルコレクトしているのを見ただけで、そこにすさまじい金額をみた。その後、2010年12月4日、東京美術クラブの売り立てに参加した後では、あの壁はあそこだけで、一千万円の価値が隠れていると認識している。同じ棚の上とか、下は見ていない。下段には箱等がしまってあるとしても、あと、残っている、6メートル弱の壁に、何が保存をされているであろう。どの棚もコレクション・アイテムの大きさに合わせて、設計をされており、しかもびっしりと品物が詰まっていた。

 ともかくその、換気がなされていない洞窟のような部屋から、明るい外へ出ながら、もし別の壁の棚に、「棗」よりさらに価格が高い、茶碗(もちろん茶道用)でも、収納されていたら、あのお部屋一つで、五千万円から億を越える、収蔵庫となる。

 この人をいじめる必要などない。相手から、さげすまれたのは、一瞬だ。

 ただ、彼の異常なほどの無礼の影に、彼には、なにかの心配があると、百合子は気がついてしまった。

 心配とは何か? 名品がたくさんありすぎて、しかもそれを知らない人に見せることを、秘密にしていることだ。という事は、その入手資金が、節税のきわみによって、生み出されたものである・・・・・と考えられる。骨董品は美術品であり、第一義的には、投資の対象ではない。だけど、あの老人の極端な秘密主義と、高価なものが大量に、販売用の展示向きではない形で、保存をされているのには、普通の人である、百合子には違和感がいっぱい残った。

 いや、言葉を変えて、以下のように説明をしてくれたら、納得がしやすかったであろう。「すみません。うちは、専門家、つまり、画商や骨董商しか相手にしていないのです。つまり一種の問屋です。あなたは素人さんですか。となると、これらの品はお見せできません」と。

 すると、百合子だって、『あ、そうか、ここの品物の正札は、2割引ぐらいの安さでついているのだわ。だから、素人の私にその値段を知られてはまずいのね』と感じて、すっと、外に出る。そして、その日の事は忘れてしまうだろう。

 いや、あの大量のお宝=商品群にはきっと、値札などついていないのだ。玄人しか相手にしないというのなら、あの時、あの場に一緒に居た相手も、あの老人と同じく、物を見たらすぐ、これがいくらぐらいなのかが、値段がわかっている人だろう。で、二人は、その棗を、28万円か、32万で売買するかの相談を、値札なしでするのだ。二人の間の差は、二~五万円で、それを、どちらに有利に、するかの交渉ぐらいしかないのであろう。築地のマグロのせりではないが、あっという間に決まるのであろう。
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 百合子と骨董との、付き合いは、鎌倉にある、有名な店で、仏像を買ったことから始まった。その仏像は乾湿でできていて高さが30センチぐらい。光背がとくにすばらしく、どこかのグラビアで、博物館収蔵品として見た光背と同じデザインである。お顔よりも光背に惹かれて、それを買った。で、母にあげた。「父のために飾ってあげて」といって。

 父は次男なので、仏具は何も相続できなかった。だから、あたらしい仏壇の横に飾るために、それを、買った。大きさから考えて、明治時代の廃仏毀釈時に、外に出たわけではなさそうだ。1945年の敗戦時、農地解放他で、突然に、没落した旧家から出てきたものと思われた。または、太宰治が描いた、元華族らから出てきた?
 
 だから、そのお宝には、不幸の影が感じられる。というわけで、骨董はだいたい、買わない主義だ。が、最近では世の中に、仏師と言う存在がない。で、仏様のいいものが手に入りにくい。となると、『ちいさい個人向けの仏様としては、最高の技術の出てきた江戸時代のものを買うのは、いいかなあ』思ったのだ。そして、きちんとした骨董商(それこそ、正真正銘の東京美術クラブの会員である人)からそれを買った。

 その後、パリで、骨董に触れた。が、それは、いずれパリ物語という本を作りたいので、その中で書きたい画、簡単にまとめれば、日本より骨董に触れる人が多いのは、わかった。さすが石造りの国、かつ、湿気の少ない国だと思う。日本では、骨董にこるのは、富裕層で、かつ茶道やら、香道に親しんでいる趣味人が多い模様だ。江戸期のお殿様のお家から出た(伝来のあるもの)などが新しい富裕層の妻や娘に受けているのだと思われる。棗の次に目に付いたのが、香合だったし。

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 ところで、百合子が東京美術クラブに縁ができたのは、相続が絡んでいるとは、最初にいってある。弟が、父から相続したものが、名前としては、大家のものなのだが問題なのだ。あまりにも有名な画家が含まれているので真贋が疑われる。しかも敗戦後、満州から持って帰る際、箱を捨て、表装もはがした。だから、真贋がより不明になる。

 弟はきちんと、平等に遺産を分けようとしていくれているから、真贋がはっきりしないそれらの絵が面倒になった。

 百合子が、親切で信頼できる鎌倉の画廊にちょっといきさつを話してみると、そのオーナーが、「処分(イコール売るということ)を引き受けてあげます」といってくれたので、その人に一切を頼もうと思っていたのだ。が、業界の詳細を知らない夫が、先ず反対をした。「何事だって、ある人、一人に任せると、絶対にこちらが損をするよ」と彼は言う。そして、弟も百合子ほど知識が無いので、百合子が持って行きたい方向に賛成してくれない。二人を動かすのが、とても大変だった。

 で、東京美術クラブへ向かう事となった。その前に、別のオークション会社がつぶれているのを知ったので、タクシーの中で、「ここが美術品鑑定では、日本で最高のところで、他にはないのよ」と教えてから、その建物内に入り、懇談したのだ。

 が、しっちゃかめっちゃかで、その日は、百合子は、レディではなかった。上の方で、鎌倉の骨董店の主人を、紳士ではなかったと批判をしているけれど、百合子も時によっては野蛮になる。
 夫と弟の男性二人が、なかなか、行くべき方向へ進まないので、百合子は、仕方が無くて昔すでに相続をしていて今回も帯同した、自分所有の軸を出した。そのとき、弟
自分の物を間違えないように、自分のものだけに、ピンクの風呂敷を掛けて鎌倉の家を出た。が、実家でそれを空けたときに、そのピンクの風呂敷が間違って弟のもの覆っていたことを発見したときに、まず、「あれほど、注意して頼んだのに」と、やってくれた主人を他人の前で、叱ってしまった。これはすでに、相当に、いらいらあていたということだ。・・・・・

 やっと正しく開かれた小室翠雲という作家は、大衆的な知名度がない。で、今より、経済が安定していた五年ぐらい前でも、5万円で売れるかどうかと言われていた。それがさらに値段が低くなっている模様で、実質的に、二万円ぐらいの売値をつけたいと、東京美術クラブでは思ったみたいだった。しかし、戦後父が手当てしてくれた表装がすばらしい。あの立派な表装で、二万円だとしたら、それは、残念な売り物だ。だれが考えてもそうだ。その上、今の自分が二万円に困っているわけでもないし。

 だけど、私は、それをパスポートとして、売り立ての会へ参加してみたかったのだ。目の前で、自分が持っている掛け軸がいくらの定価で売られるのかを見てみたかったし、買い手が居ないか、いるのかも見てみたかった。東京美術クラブの催しに参加する、入場券代わりに、それを、売ることを考えていた。

 しかし、私はいつ、どこででも、そうなのだけれど、いったん口を開くと相手を驚かせ、その心胆を寒からしめてしまう。つまり、知識が、学芸員級に豊富なのだ。『う、この人って、ただならぬ感じ』という印象を誰に対しても、与えてしまう。この日も東京美術クラブのトップ学芸員をびびらせてしまった。百合子の肩書きに、大学教授とか、なになに、美術館・学芸員と言うものがついていて、それが印刷されている名刺をさっと出せたら、総てがスムーズに運ぶと思う。が、いつも初対面では、こういう齟齬が起きる。

 で、相手は、百合子がよく、分かっているだけに、この軸に、2万円台の価格をつけることを、納得しないだろうと推定したらしい。出、弱点があるということを納得をさせようとして、あっち、こっちのしみを指摘した。鎌倉の家が湿気が多いために、26年の間に、しみが生まれている。百合子はその事はをして、「ええ、それで、かまいません」と応えた。

 しかし、百合子の夫は、はたから、それを見ていて、『あほらしい。たった、2万円程度で、それを売っても、どうしようもないじゃあないか』と思ったらしくて「売るのを止めたら」と口を挟んだ。

 その途端に、百合子は切れた。ぶちきれてしまった。母の死後、2週間目だったのも災いした。相当大きな声で、「あなたね。私だって、売りたくないのよ。でも、弟にお勉強をして、もらいたいの。私が売るというその交渉の過程で、彼がいろいろ、学んでくれたら良いのよ。それを狙うために売るの」と言った。普段実におとなしいひとである百合子が、叫んだのだから、夫を弟を最初の人として、辺りは凍りついた。応接コーナーは、ついたてで区切られただけだったので、その向こうの、広い事務室内に居たほかのスタッフにも、この恐ろしいフリーズの気配が、伝わった。百合子はもちろん、参ったが、いまさら弁解しても後の祭りだから、ただ、黙っていた。

 四人が沈黙をして、事務手続きが滞った中で、突然に弟が、助け舟を出してくれた。「僕、相続用・鑑定に出します」といい始めたのだ。ほっとした。みんなほっとしたと思うが、私が一番ほっとした。三人が、実家から車に乗って出てきて、この東京美術クラブへ入る前に、一種の予習として、銀座で他のオークション会社に寄った。豪華に運営していたのに、つぶれて、しまって存在していないことを、その日に知った私は、ここ東京美術クラブで、今日のうちに、鑑定を依頼をするかどうかを、決断をした方がよいのに、と、考えている。が、男性陣ふたりが、ぐずぐずしているので、百合子は、いらいらしきっていたのだった。『やっぱり、私一人が、全部を預かって、鎌倉の画廊さんだけで、解決したら最も楽だったのに』と内心で怒り沸騰だった。けれど、弟が、相続用鑑定を、ここで、受けるのなら、それが、最適な解決方法だった。

 それで、やっと4人が座っている場の、フリーズ状態が解けた。弟が持っているものは百合子が持っているものよりも、はるかに格が高い作品だ。で、相手方の好意がいっきにました。

 相手方は俄然張り切りだした。小室翠雲と言う人は大衆的な知名度がないので、たとえ絵がよくても、お値段が上がらない。だけど、弟の持っているのは文化勲章を貰ったほどの知名度の高い作家だった。@@@@@

まことに済みませんが、ここで推敲を中断をさせてくださいませ。末尾も未完成ですが、疲労困憊をしてしまいました。明日続きをやります。

 しかし、上記の絵が手に入った時期もまた、絵が信じられないくらい値がつかなかった戦時中なのだ。私の両親が絵が好きなので、他の都が人が見放す中、ひときわたいせつにしたのだった。他の人は、ただただ、食料が大切という時代だった。父とは母は、丁寧に表装をはがし、帯(丸帯といって、膨らませると筒状になるもの)の間に挟んで、これらを、満州からもって帰ったのである。

 だから、たとえ偽ものであっても、最近『何でも鑑定団』という番組内で、「残念ながら印刷物です」といわれるようなものではない。無名の画家が生活費を稼ぐために、本当の絵を一生懸命描いて、署名だけ、大家のものを借用したという類の作品だ。

 で、箱が無いし、オリジナルの表装ではないが、主任・学芸員が、『うわ、面白い、久しぶりに、血が沸き踊るわ』と思ったみたいで、すっかり場が華やいできて、即座に弟の作品へ対する事務手続きに入っていった。細かい書類をいろいろ作る。それには感心した。安心して置いて帰れるようなシステムとなっている。その緻密な仕事振りにび驚きながら、ざっくばらんな自分を反省しつつ、ふと、『あれ、自分は自分用の書類を、きちんとしまったかしら』と、気がついた。バッグの中を見ると無いので、念のために、夫に向かって「預けたかしら」と問うと、横から、東京美術クラブ側が「あ、すみません。あとで作ります」と言ったので、私は、自分用の手続きは、忘れさられたのがわかった。ここでは、大家で人気がある作家と、誠実に生きたが無名な人では、歴然とした差がある。

 もう一つ、別のことにも気がついた。私たちがここでは、とても珍しい特別の客だと言うことも。この手の名品をここの会員(画廊や骨董店)ではない素人がここへ直接持ち込む事は普段は無いのだと思われる。そうなったのは、百合子と父の両方が、すこぶるつきの事情通(または、美術好き)であるから、こうなった。その事は誰も認めてくれないのだけれど、どうも、東京美術クラブの社員さんたちはそう思った模様なのである。で、後日、大きな誤解が生じた。

 売り立てに参加をしたいと電話で願い出たら、「会員じゃあないと、駄目なんです」と断られた。『あれ、美術雑誌には、誰でも参加できるという広告が載っていたのに、変だな』と思いながら、「ああ、そうですか。それじゃあ、あの小室翠雲は売らない事にいたします」といい、数日後、取りに行った。規定ではキャンセル料を、五千円払わないといけないのだけれど、私の、『弟に、勉強してもらうために、売るのよ。そばから、彼に手続きのやり方を見ていてもらうために、』という叫びに近い、主人への反論、(一種の叱責)が効いたのか、「頂かないで結構です」といわれた。二万円で売るのを気の毒にも思われたとも思われる。同情されたから、キャンセル料をとられなかった。それにあれを12月4日に展示したって、売れたとも思わない。それはありがたかった。

 が、返却を求めて再訪した入り口のカウンターに「売りたて(即売会)の宣伝チラシが入っているので、「これ、参加していいのですか?」と聞くと、今度は誤解がなく、「ええ、どうぞ」といわれた。電話内で誤解を受けたのは、あの最初の日のドンちゃん騒ぎで、百合子が、非常に知識が深いので、『売る側の人間として、参加したがっている』と向こう様が勝手に考えていてくれたことを明かしている。百合子が思っているようり、実力が高いとみなしてくれたのだ。

 ただ、百合子は、その駄目だといわれた、たった、2、3日の間に、この骨董の世界に冠する知識を数段高めた。それは東京美術クラブの会員には、どうしてなれるのかとか、その実態がどういうものだとか言う点である。簡単だった。東京美術クラブの応接室内で、弟や夫を前にぶち切れてしまった上記のような特別な場合を除いて、いつも人を信頼して、ニコニコしているので、他人が親切に、全部を教えてくれる。

 東京美術クラブの会員になるためには、まず、お店を開かないといけない。その前に、古物商の資格を警察に行って取らないといけない。それから、お店は相当の売り上げをあげ、地域社会でご近所の同業者から、信頼され、一目を置かなければならない。そして、誰か、二人の、古くからの会員の推薦が必要である。『うですか、それじゃあ、いまさら、参加する事はできませんね』と思う。だけど、世の中にはいろいろな職業があることには気がついた。

 我が家の人間なんて、みんなサラリーマンになることしか考えて居なかった。そして、よらば大樹の陰で、大会社に入ることがいいことだと考えていた。だけど、世の中には、驚くほど、いろいろな職業がある。そして、東京美術クラブの売り立てに参加して、茶道具の名品を見て歩いた結果、ここに集う会員が、日本文化のある一面を確実に支えている事に気がつく。とても、重要な仕事の一つなのだ。いままでは、全く知らなかった世界だ。
 しかし、私がこれから、この世界に参加していく気持ちはない。先ず今の私には視力が無い。それに、限られたお金を使って、何かを買うのなら、銀座の画廊で現代アートを買うことを、優先したい。

 だけど、いい勉強をした。母と父のおかげだ。二人で、満州から苦労をして、日本画を持って帰ってきてくれたおかげだ。

 今、12月の5日の午後三時です。二日掛けて、エピソードを出したり、入れたりしました。丁寧に追いかけてくださった方は、途中で鋭さを失ったのには、気がついて下さっていると思いますが、お許しくださいませ。2010年12月5~6日にかけて。
                          雨宮 舜
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