今は、初稿を書いた、8時間後で、推敲加筆をしている最中です。で、きちんと章立ても致します。ところで、その時点まで、【まさか、反町でそれが行われるとは?!? 激痛を伴う右足への攻撃・・・むろん宮台教授事件の真実を書いたからでしょう】を、次のものへと変更します。
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副題1、『鎌倉雪ノ下でも、隠微な攻撃===激痛を右足に起こされて、寝られない====が、私の肉体そのものに向けて行われているが、鎌倉から、遠く離れた、横浜市・神奈川区・上反町のアパート二階でも、それが、起きたので、びっくりした。と、同時に、今までは、秘密にしていた、私個人へのすさまじい、攻撃を書くこととした。全方位的におこわれている攻撃のことだ。NHKテレビニュースを利用した攻撃だけではない。それを、書かないと、痛みが止まらないからだ』
私は、22-12-16の明け方と、言っても、まだ、午前2時53分に、右足の、上腿部に走る激痛で、目を覚ましました。まさか、反町で、これが、起きるとは? と、驚き入っています。まだ、ここで、寝ること自体が、五回目なのに、肉体への激痛を伴う攻撃がここで、おこわわれるなんて、・・・・・それには、さすがにぎょっとして、皆様に、そこまでの、ことは、書かないで、居ようとしている、敵さんの攻撃の数々を、つい、書かないでは、居られなくなりました。
これは、むろん、敵さんからの、種々のIT的、システム駆使で、行われる攻撃ですが、一応寝入ったのが、午前、1時半ごろです。まだ、一時間半しか寝ていません。でも、きちんと起きだして、パソコンに向かって、その激痛が起きた事は、書いておきます。でも、一応、もう一度寝てみます。最近の体力では、特に、反町で、掃除や、リフォームという重労働をした後では、1時間半の睡眠だけでは、次の日、=16日の昼間は、何もできないからです。
一応、もう一度、寝ることへ、挑戦してみます。というのは、この激痛は、芍薬甘草湯という、漢方薬を飲むと治るのです。:::::::ここで、後刻の挿入として、それは、西洋医学の病院で、ちゃんと処方をされていて、すでに、三年たっていると、報告をさせてくださいませ。:::::::しかし、まさか、反町でも、その攻撃が行われるとは、思ってもいなかったので、持ってきていません。で、また、やられるかもしれないけれど、一応、寝入ってみます。なお、右足、の激痛は、いつもは、下腿部の痙攣と、言う形で、置きます。水泳の時に、よく足がつると、言うあれに似ています。しかし、本日は違いました。本日の方は、上腿部から、ひざ、下腿部と、ほぼ、右足が、丸まる、一本痛くて、布団(簡便なもの)の、中で、自分で、さすったり、マッサージしたりしても、鎌倉でなら、それで治ることがあるのに、本日は、治りませんでした。
::::::::後刻の、この部分への挿入ですが、その差は、こういう攻撃をだれがやっているのかを考案するのに助けになります。それは、今までは、桜田門ないのある部屋に置いてある大型画面で、CIAエージェントの手下としての、特殊部隊のIT専門技術者が、ポインターを動かして、それが、雪ノ下の自宅近辺に置いてある、ルーターを中継して、私を痛めつけていると、考えていました。でも、雪ノ下の自宅と、反町のアパートでは、私の肉体へ、狙う狙い方が違うのです。
雪ノ下では、ひざ以下の、筋肉の腱部分に、攻撃が起こされるので、筋肉が吊るのだと、推察してきました。で、発生した、命令を、雪ノ下の我が家近辺に置いてあるルーターを中継基地としていると考えていました。
でも、反町では、股関節下の、筋肉の腱か? それとも、そこらあたりの、神経結節(東洋医学で壺というところ)への、攻撃だったと、考えます。だから、右足全体が、痛くて、痛くて、どうしようもなかったのです。
これは、本当にIT的攻撃なのです。でないと、先ほど、反町駅そばの、コンビニに、本日の食糧を買いに行きましたが、本当の病気なら、長時間、この痛みは続くので、買い物など、行かれないはずです。この攻撃は、眠らせない・・・・・という拷問の変形です。ここから、その拷問について、過去に渡辺賢司他が、行った午前10時半の布団たたき事件と、富沢家+伊藤玄二郎+松尾隆市長+白井隆雄夫人+尾上共同事業体が、行った、寝かせないという、拷問について、語ります。それが、後段の副題αに続きます。だけど、横浜・反町と、鎌倉・雪ノ下では、痛点が、違うということは、攻撃担当者が違うのか? それとも、同じ桜田門がやっているが、場所が違うので、違う痛点を使ったか?
その謎を解かないといけません。私への攻撃は、すべて、真実の目的が秘匿された謀略として行われるので、ミステリーを解くという形でしか、理解できないからです。で、考える必要のあることはいっぱいです。肉体も酷使だが、頭脳も酷使の状態です。
これは、むろんのこと、安台教授襲撃事件について、私の語っていることがすべて正しいからです。15日には、ほかにも、4つ攻撃を発見しています。ただ、もう一回寝入ってみることをやりたいので、ブログで、それらの攻撃の詳細を書くのは後刻、または、後日に回します。
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副題2、『私は、16日の午前3時15分ごろ、パパパッと、荒い書き方で、自分が、今、激しい痛みを伴う、攻撃を受けていることを書いた。これは、一般の読者にとってはあまりにも遠いお話となるので、書きたくはなかったが、痛みが治まらないので、書いた。ところで、その後、もう一度、寝入ったのだった。3時45分ごろから、7時09分まで、3時間は、熟睡ができた。その前の、1時間半を加えると、両方で、4時間半となる。これは、最近の私にとっては、十分な睡眠時間であって、今も、涼やかな頭脳で、これを書いている。その際だが、もちろん、アモバンなどの睡眠導入剤は用いていない。どうして、熟睡できたかというと、この攻撃のシステムと因果関係が、すべて、わかっていて、精神的に、怖いと、思う気持ちがないからだ』
:::::::::ここで、後刻の挿入と訂正を、この濃い赤で、行います。安台教授と書いたのは、むろん間違っていて、宮台が正しいのです。自分でも、変だな?と思っていました。ただし、重労働後の睡眠が、たった、一時間半で、絶たれたのです。自分でも、おかしいと、わかっていました。が、そこですぐさま、確認をするのは、やりたくなかったのです。自分の過去ブログを読めば、正しい名前が宮台だと、理解ができます。でもね、そこまで、やると、頭がさえすぎるので、もう一回の入眠が不可能だろうと、考えたからです。もうろうとした頭の中で、早くもう一回寝たいと、願うきもちが、つよく、あって、そのままにして、寝入りました。
そして、今、7時9分に起きて、紅茶、ゆで卵、トマトだけのサラダで、おなかを満たしたところです。
::::::蛇足として、後刻にさらに重ねて挿入をすれば、横浜市、神奈川区上反町の町内会では、生ごみの回収日が、月、金です。それで、15日の夜は、自己所有のアパートに、鎌倉から、やってきて、宿泊していたのです。:::::::
ここには、清川病院で、捏造をされた肺の写真問題、および、山中竹春、横浜市長が、伊藤玄二郎に、教唆された松尾崇鎌倉市長のお願いによって、私が相続したアパートの、一階の住民(厚生年金をすでに受けている)に、生活保護費を下給した問題等、全部が、かかわってきているからです。だから、睡眠をさせないという拷問も起きたのだろうと、判断をしました。
さあて、ここから先は、初稿として、午後零時から書き始めます。清川まどか院長について、書き始めます。清川病院は、この2022年9月に、徳洲会のほぼ、中央病院と、みなすことができる、湘南鎌倉総合病院の、実質的傘下の病院となりました。
驚くべきことです。鎌倉一古い病院だと、思います。個人クリニックを除けばですが。まどか、院長は、四代目の筈で、今、50歳か、51歳の筈ですが、美しいお嬢様であり、30代にしか見えません。鎌倉駅から、徒歩7分で、来ることができて、グロリア少年合唱団で、有名なカソリック、雪ノ下教会のすぐそばです。そして、同じ13番地の区画内(道路で、囲まれた敷地群)の中に、清川病院も、鎌倉春秋社もあります。鎌倉春秋社は、もっと、小さな木造の建物(一階が店舗である建物の、二階)を使っていて、二か所移転をしたと聞いていますが、
私がパソコンを使い始めて、メルマガ配信をし始めると、同時に、CIAエージェントとしての彼の格も上がって、木造家屋の二階から、一、二階ともに、自社ビルとして使える、美麗なタイル張りのビル(旧東京ガスの支店があったビル)に移転をして、堂々たる、旗揚げをしました。それは、私の格が急に高くなった(実力を発揮し始めた)ということもあったでしょうし、
養老先生を取り込んだということもあったでしょう。養老先生の母君のエッセー集(=自伝みたいなもの)を、出して、養老先生と、強固な絆を築いたみたいです。
私は、養老先生の母君と直接会ったことはありません。まったく別のH先生(=女医さん。現在存命なら、105歳以上だと、思われる)にそれを聞かされたのですが、「昔はねえ、医者になる女なんて、めっかちびっこと、きまっていたものよ」ですって。その先生は、美貌の持ち主で、お孫さんが、医療法についての、著作を出す、有名なお医者さんになっているみたいです。お嬢様が、国際キリスト教大学卒業できれいな方です。さて、メッカチびっこは、極端な言い方だったとしても、大正期に生まれて、女医になる女性とは、一般的な、女性とは、相当異なっていたことは確かです。
養老先生の母君も同じで、障碍者ではないが、けた外れの実行力とパッションの持ち主だった模様です。平均値では、収まらない方だったみたいです。私も同じなのですが、弾圧の対象となっていて、浮上をできません。だが、養老先生の母君は、伊藤玄二郎の勧めによって、ある一つの後ろめたさを突破できたのです。それはです。戦前には、それが、希少なことだった、妻の方から、夫を捨てて、別の男性と再婚すると、言う道を選んだ方だからです。
養老先生は、小さいときに一人で遊ぶのが好きでしたね。それは、頭の良い男の子として、普通のことだったかもしれないけれど、一つには、専業主婦全盛期に、母君が家にいない、職業婦人だという事(=女医)と、もう一つは、母君が、夫を捨てて、別の男性を選んだと、言うこと、そういうことが、小さな影を養老先生の周辺に落としていたと、も、私は考えるのです。孤独はいいんですよ。孤独は優秀な男性と、女性を生みます。しかし、幼い男の子には、負担だったと、かんがえます。
しかし、伊藤玄二郎の勧めによって、「かえって明らかにした方がいいのです。それは、別に恥じ入ることではない。同町圧力の強い日本では、ちょっと変わった選択でした。だが、別に恥じ入ることではない」と、言われれば、『そうか、そういう風に考えればいいのだ』と、なって、ずいぶんと安心なさったと、思います。
で、伊藤玄二郎にとっては、そういう右辺の杖があった上に、左辺の杖として、清川病院があったと思います。医事新報というタブロイド判の新聞が無料で、宅配新聞をとっている家庭に、配られるのですが、これを編集しているのが、かまくら春秋社です。これが、いつから、発号をされたのかを、私は、知りませんが、伊藤玄二郎は、その始まりに際して、清川まどか先生の祖父あたりか、父君あたりに、深く食い込んだと、思います。
でね、伊藤玄二郎にとっては、清川まどか先生は、子供みたいなものです。同じ道路で、囲まれたおなじ、区域内にあるのにもかかわらず、道路一本隔てた、カソリック雪の下教会と同じ番地、小町2丁目14番地を名乗り、清川病院と同じ番地、小町2丁目13番地を名乗っていないのは、彼固有の深謀遠慮ゆえかもしれないのでした。
でね。自分の、子供みたいなものだから、安心して使ったのです。私に・・・・・肺の…癌らしく見える捏造写真をみせる様に手配をして、そして、不必要な手術をさせて、殺していく・・・・・そういう謀略に、まどか先生を安心して、使ったと、推察されます。
伊藤玄二郎にとって、私がそんなからくりを見破ることができるとは、想定外だったと、思いますよ。