副題0、『この章を書き始めるにあたっての、お断わり』
前報が、途中です。その続きを書かないといけないのですが、頭の中に浮かんでいることは、別の事です。しかし、断絶があるわけでもなくて、前報の、続きの続きで、6章ぐらい先で、書く予定のことが、今、頭に浮かんでいるのです。
私は、常に、神様が、私の指先を支配し、書かせてくださると、いっています。だからこそ、これほど、長期にわたって、泉のごとく文案が湧くわけで、無理は全くしておりません。で、本日も、神様が、頭の中に下してくださることを書きましょう。
本日の主役は、大原光孝さんという男性です。昨日までの主役だった、川合良一氏、遠藤博文氏、白井達雄氏などと、連携している人物で、ご近所住まいです。彼は、今までに、10件か、それ以上のひどいことをやってきている人物で・・・・・それに対して、報酬が、誰かから、支払われている可能性があると、私は、考えています。つまり、自民党内閣の官房機密費から、彼に、月給、もしくは作品買い上げ料、もしくは、企画展(無料で、画廊を使える形)などの、金銭が出ていると、最近は、考えています。
で、今般の一連のシリーズは、すべて、彼が、2019年4月第二週に行った、【植木鉢の怪】と、いうミステリーを、解明するための前段階として、書いているのですが、ここで、最終段階を先に、取り上げることといたしました。
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副題1,『我が家の真下、川合邸の斜め前に、神奈川県立近代美術館本館の、正門があった。その中に、小さな喫茶店があり、そこで、私は、2001年に、大原光孝さんに、ニューヨークで、2000年の秋に摺ってきた版画の批判をしてもらった』
私は、1984年にこの鎌倉雪ノ下に引っ越してきたのですが、それ以降、大原光孝さんと、最初に友達になって、それ以降、1996年まで、ずっと、いい関係を築いてきたと、考えています。しかし、2001年の、初春に、初めて、強烈な違和感を感じたのです。それを、これから、書いていきましょう。
その日の批評kai の最後に、大原さんが、如何にも惜しそうに、「恵美子(奥さんの名前)がね、川崎さんとは、付き合ってはダメだと、いうのですよ。あなたの手には負えない人だからって」と、いったのです。
この瞬間、わかったことは、奥様は、旦那を愛していないということでした。大原光孝さんと、17年間にわたって、いい関係を築いてきたのは、美大卒ではない私が、絵の批判をしてもらっていたからです。私は、すでに、1980年に銀座で個展をしているのですが、美大卒ではないので、お客さんの先行きが先細りになると、考えて、公募団体展(国展とか、女流展などに、出品を始めていたころのことです。
でも、そこに入れば入ったで、また、学閥(国画会では、芸大を主流派とする派閥と、また、芸大以外の、各美大卒系統の派閥があった)があったり、
北久里浜の大詐欺事件の影響で、御大島田章三さんに、讒言が入っていたらしくて、いじめられたりで、ちっとも楽しくないのですが、それは、30年後の、今だから、はっきりと言えることで、1990年代には、まだ、そこまでの、見通しには、達しておらず、自分は、国画会でも、女流画家協会でも、会員になれる、と思い込んでいて、それを疑わなかった時代です。
でも、ご近所に創形美術学校卒のプロの画家・大原光孝さんがいるわけで、・・・・・彼は公募団体展を軽蔑しているのですが、それだけ、実力があるからであろう・・・・・と、信じて、指導を仰いでいたのです。で、彼を上に立てて、信頼をしていたのでした。
彼は、それを、非常に楽しみにしていました。こういう作業をする方が、ご近所の噂話をするよりも、ずっと、高度な作業だと、思うのですが、恵美子夫人は、それを遮断したい模様です。
ここですが、読者の皆様に、これは、はっきりと、言っておかないといけません。恵美子夫人が、夫と、私との関係を嫌がるのは、エロスとか恋愛には、関係がありません。無論の事政治的な問題です。
恵美子さんは、自分がかわいいとか、すてきだと、いう部分に、自信を持っているので、自分たち夫婦よりも、12歳程度、年上の私(=雨宮舜 本名・川崎千恵子)なんか、競争相手としては、眼中にないです。
この時点で、すでに、鶴岡八幡宮の吉田茂穂宮司様・就任祝いの、パーティに私は、招かれていて、(七里ガ浜プリンスホテルで、丸テーブル着席の、フランス料理が、提供された。私が、招かれたのは、当時、すでに、ぼんぼり祭りに献灯をし始めていたからだと思う)となりに座った酒井忠康氏に、一時間半の間、無視され続けていたので、CIAエージェント=瀬島隆三からの攻撃は、ひしひしと感じとっていて、恵美子夫人の夫への命令の陰に、それがあるだろうと、私は感じ取っていたのでした。
大原光孝さんにとって、無上の楽しみである、私の絵を批判すること、ついでに、技法について、あれこれの助言をすることは、家族全般にとっても、楽しいことであったはずです。私は、後刻、ささやかながら、実際に役に立つ食料品を、お礼に、持参をしていたから、お子様にとっても、お父さんが、きんっ所の人の役に立っていて、かつ、その人よりも上なんだと、いうことは、誇りを与えていたはずです。
:::::::ここで、挿入となりますが、それが、失われたことは、お父さんをお子さんが、批判することへつながりました。お子さんとしては、お父さんが、収入がないと、いうことは、とても、いやな事だったと、思うのです。お母さんから、お金をもらっていると、いうのは、普通の家とは違いますからね。:::::::元へ戻ります。
しかし、この山は、本当に静かな山であって、安野家の前で、毎日の午後開かれる井戸端会議の内容が、すべて、私に聞こえる様に、大原光孝さんと、私が、主に、美術のことを話し合って盛り上がっていること、とか、大原さんが、我が家に、100号以上の大作の油絵の批判のために、入って行く姿等は、昼間、この山に住んでいる主婦には、目撃をされていたと、考えられます。この山には、自ら、「自分は、伊藤玄二郎の愛人だったので、いまだに、彼には、よくしてもらっている」と語る、石川和子さんをはじめ、何人もの敵方が放っているスパイがいて、
彼らは、銀座の画廊街で、随一の友達になるはずの、山口みつ子さんを殺した様に、私に友人がいては、困ると考えて、大原光孝さんと、私との仲を裂きたいと、思ったのでしょう。人は石垣、人は城という言葉を信じているらしくて、私の、身辺から、親しい友人をみんな引っ剥がしていっていますのでね。それで、私を弱体化させえると、考えている模様です。・・・・・それが、その平家池の水面の反射が壁に映るその喫茶店内で、瞬間的に分かったのですが、例のごとく、私は、相手である大原光孝さんには、自分が思っていることについては、何も告げませんでした。
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副題2、『やがて、このミステリーの謎が解ける。それは、女子美卒の、恵美子さんには、佐野ぬいさんとか、酒井忠康氏からの、私への讒言が入っていて、そちらの方を、夫の日常の姿よりも、優先したので、夫光孝さんと、私との仲を裂いたのだった。それは、うっすらとわかっていたのだが、NHKニュースが、ラグノオ佐々木と、いう名前を、画面で、きちんと報道をしたことで、このブログで、それを、書き表す機縁が生まれた』
なお、原文は、あと注1にリンク先を置いた中に出てきているのですが、それを、全部お読みいただくのは、ご迷惑でしょうから、
簡単に、抜き出してまとめると、
青森県弘前市にラグノオ佐々木と言う、お菓子屋さんがあります。北海道の、六花亭などと、並び称される、大きなお菓子屋さんでしょう。その経営者一族の、苗字は佐々木と言って、その現在の当主の父君は、昭和初期、または、大正期に慶応大学に学びラグビー部に所属をしています。その当時の、ラグビー部監督のお嬢様が、私の日吉台小学校時代の、友人で、とても頭の良い、かつ、きれいなお嬢様です。今も、パリッとした皺一つないお顔の奥様です。その友人が、「くめおちゃんが、なんとか、かんとか」と、言ったり、「佐野ぬいさんは、くめおちゃんのお姉さんなのよ」と、私に教えたりしている、前段階があり、それで、恵美子さんが、放った、夫への命令の謎が、解けたのでした。
ただし、大原光孝さんも、どうしようもない子供で、妻が、ああいった、とか、こういったとかを、他人である私に話すのも、とんでもない話です。これが、ワインが割れてと、いうエッセイを書く際に、私が、ものの見事に大原さんを分析するに役立つ前段階としてあったと、いわせてください。
かつ、NHKニュースが、見事にラグノオ佐々木を取り上げたりするので、すべてのミスtリーが解けて気tのです。かつ、日大アメフト問題の、真相も解けてきたのでした。
佐々木来目夫とは、私の、1962年次の、国際キリスト教大学のたった23人しかいない同級生で、テリー(純粋日本人ですが、AFS経験後、自分をテリーと友人たちに呼ばせている存在です)とか、古村浩三君も同じ、23人の中に含まれています。テリーは、私に対して、常に礼儀正しくて、私が、それが、原因で、彼女については、このブログでは、ほとんど書かないレデイですが、私をベイカーさんという美形のアメリカ人男子学生【エール大学から、来た留学生と、聞いているが、真正のスパイだったと、思う】に売り渡した、女性です。今、思えば学生時代から、どこか、隔靴掻痒の感がある人でした。アメリカ留学中に、何らかの方法で、心底から、洗脳されて帰国したのだと、思います。
もう、何人か別に、AFS経験者で、日本で、CIAエージェントとして、活動している女性がいて、それらの女性に、したたかにいじめられている私です。テリーの方は、日本で、同時通訳者兼、農業好き(したがって、お米を作っている)主婦(および母)として暮らしている女性ですが、
三輪喜久代さんという女性は、子供を作らず、配偶者についても、あまり、情報をもたらさず、ひたすらに、大物スパイ(もしくは、エージェント)として、ロンドンに定住し、スタップ細胞疑惑などを、ロンドンで、生起させている女性です。あと、日本財団の、元理事長だった塩見悦子さん(これは、長谷川智恵子さんに、茨城県教育委員会で、障害児を、出産前検診で、見つけて、中絶させましょうと、いわせた人間です)。ほかに遠くに住んでいるので、言及し得ていない、高田弘子さん・・・・・AFS留学中に、アメリカのユダヤ系大富豪の養親に、気に入られて、アメリカの私立大学(たいていは、学費がとても高い)、ブラウン大学に、通学させてもらった、私の中学時代の同級生・・・・・なども、隠々滅々たる手法で、私をいじめていると推察しています。
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副題4,『ここで、ベイカーさんと、いうアメリカ人学生が登場する。彼は、自分のへまな、発言のせいで、私に自分がアメリカCIAのスパイであることを、見破られたと、考えて、1965年に、旧中島飛行機の滑走路で、私を、殺そうとした。
その経緯は、まさしく、鶴岡八幡宮で、源義朝が公卿に殺されたのと、そっくり同じ手法だった。テリー(前説で、語っている女性)からの命令で、国際基督教大学の学生会館内の、狭い一室に、行くように言われたのだが、そこには、初めて、話をするベイカーさんと、ほかに二人の日本人大学生がいた。その中にいた、日比谷高校出身の学生が、「僕は、学生には、すでに、期待をしていなくて、労働者を、啓発したい。だから、三鷹駅前で、ビラを配りたい」と言ったら、
で、男子学生に戻ります。古村浩三君と、佐々木来目夫ちゃんは、寮で、一緒だった上にラグビー部で、一緒です。この二人にとって、2学年上に、石塚雅彦さんと、いう男子学生がいて、当時、石塚さんの親の家は、日吉にあったので、通学できる範囲ですが、彼は、寮に入りました。その彼の同期、または、上級生として、ロックフェラー4世がいるのです。
ところで、これほどに、CIAエージェントに追い回されている私ですが、その理由は、主に、日本人エージェント、井上ひさしと、伊藤玄二郎が、私を敵視しているからです。が、その二人が、なぜ、私を追い回し苛め抜くかを考えると、彼ら二人のさらに、上位者がいるわけです。私は、今まで、北久里浜における、実質的大詐欺事件である、地積変更届のラインから、瀬島龍三が背後にいると、考えて、それは、語ってきています。
しかし、もう一つのラインも推察されていて、それを本日、語り始めます。
それは、ロックフェラー4世、もしくは、ベイカーさんが直接に、石塚雅彦さんと、結び付いており、その二人が、私を殺す様に命令を下しており、
それを、目立たない形で、実行する為に、
石塚さんが、古村浩三君を使って、1966年卒業の、私の友人たち、すべてを離反させ、孤立化させる様に、実行行為を果たしていると、いう点です。
その古村浩三君は佐々木来目夫ちゃんを支配しているので、来目夫ちゃんの姉である佐野ぬいさんは、女子美の同窓会の縁で、大原恵美子さんを説得し、夫の光孝さんに、私との縁を切る様に、手配をさせたと、見ています。
では、なぜ、そんなことが、醸成されてしまったかをこれから、語っていきましょう…
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副題5,『テリーこそ、このblogの全登場者の内、もっとも、腹黒い人間かもしれない。私は、それを恐れて、テリーの漢字表記名をここにさらさないのではない。まだ、積み上げ方が足りないと、思っているだけだ』
テリー(前節で、語っている女性)からの命令で、国際基督教大学の学生会館内の、狭い一室に、行くように私は言われたのですが、そこには、初めて、会話をするベイカーさんと、ほかに二人の日本人大学生がいました。その中にいた、日比谷高校出身の男子学生S君が、「僕は、学生には、すでに、期待をしていなくて、労働者を、啓発したい。だから、三鷹駅前で、ビラを配りたい」と言ったら、ベイカーさんが、「僕は三鷹警察署の署長と親しいから、そのバラマキの許可を取ってあげる」といったのです。私は、目をまん丸くしました。その日、私は、その部屋では、何も語らず、ただ、辞去しただけだったが、後日、じぶんがスパイであることがばれてしまったと、思いこんだベイカーさんに、後ろから、首を絞められて殺されそうになったのです。
性善説の人である私は、まさか、ベイカーさんが、そんなことをするとは、夢にも思わず、ただ、ただ、偶然が重なって救われた後で、寮に帰って、寮母さんに「痴漢に襲われた」と話しました。
しかし、その1965年当時から、不思議で、不思議で、なりませんでした。
だって、ICUの男子学生が、同じ大学の女子学生を置換として襲うのは、考えられないことでした。ICUは、DEBATEというのを鍛えるのです。それは、アメリカの大統領選挙で候補者同士が、テレビ討論をするのをご覧になるとよくわかるでしょうが、討論と言っても、闘論と、いう様なもので、表現力をいや増しに鍛えられます。だから、痴漢など、する必要はないのです。では、外の三鷹市民だったかですが、それもあり得ないです。1965年当時のあたりは、畑だらけで、人家がないです。そんな場所で、引っかかるかどうか、皆目わからない獲物を待ち伏せしている人なんて、いやしません。
この謎も、テリーがCIAの一員だったと、仮定すると解けるのです。9畳程度の細長い部屋に、二人で、居住をするのですが、テリーは、私が101号室で、テリーは、103号室でした。気を付けて、耳を澄ましていれば、私が部屋を出る気配は、すぐわかります。その後、約束の場所(例えば学生用、ラウンジとか、図書館)にいるベイカーさんを訪ねて、千恵子さんは、今出たわよ」と言えば、自転車を乗り回すベイカーさんが、旧中島飛行機の試験飛行用滑走路、800メートルの間に、歩いている私に追いつくのは、簡単でしょう。
ところで、テリーの恐ろしい本質が、わかったのは、1998年から、2002年の間に逗子のアトリエからかけた、長電話の中での、対話で、わかったのだけれど、それに入る前に、少し、毒消しと、息抜きをしたいので、ここで、1962年入学組の話ではなくて、1956年入学組の、上級生、特に渡辺幸子さんについてのエピソードを語りたいです。
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副題6、『最近、すべてのエピソードを、以前より、深めて書いている。渡辺幸子さんとのエピソードも、以前より深めて語りたい。最近、新制作展には、いっていないが、これは、1999年から、2002年までの話であって、渡辺幸子さんは、新制作内部で、出世できないことと田沢茂氏の、支配力の強さに参っていて、その愚痴をよく私に話していたものだった』
主人は普通のサラリーマンの家に育ったのですが、男の子4人をすべて、大学に行かせて、かつ3人は、東京へ遊学させたものですから、実家では、相当に、厳しい、しつけを受けていたらしくて、長電話を、許せません。一方、日吉という、ブランド住宅街で育ち、かつ、父親が、「日本の上位6%以内の納税額の人だから、入学試験優秀組へ、あげる事になっている奨学金を、あなたには、あげられません」と、いわれている私とは、生活感覚で、相当な違いがあります。その最も顕著な例は、電話の使い方です。今は、携帯が発達していて、こういうことを言っても、理解ができない人も多いでしょうが、1990年の終わりごろまで、女性は、固定電話で、長話をするものでした。
で、1990年代までは、私の友達は、ほとんどが、仕事を持っているので、電話を交わすのは、夜であって、主人が嫌がるので、私は、それを、理解できない相手に対して、失礼な、ことになったケースも多々あります。しかし、今では、私が、主人に向かって「私たちは、生い先が短いのだから、お金を使ってもいいのよ。おいしいものを食べましょう」とか、「もう、78まで生きたのだから、お金を残しても仕方がないのよ」と言っているので、長電話を許すようになりました。が、そういうときに限って、長電話を交わす相手がいないのです。こういうブログを書いているから、私は、旧来の友達に電話をかけることをいたしませんし、相手からもかかってきません。ただ、ただ、パソコンが、壊れるので、そのサポートの電話を長々とかけているくらいです。
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ところで、長電話が、自由にできる様になってうれしいなどというと、皆様は、もしかしたら、私が、大原麗子さんみたいに、仕事上の愚痴を相手に、繰り返し話していたと、おkン替えになるでしょうか? 違うんですよ。私は、ひどく前向きであり、その修業期間を、たいへん楽しんでいたので、相手から頼られると、いう関係も数人を相手に、形成されていたのです。
一方で、私は、疎遠になっている友人にも電話をかけ、自分の昔の、本当の気持ちを説明をしたり、釈明をしたりすることもできて、相手との、真実の理解が深まると、いう経験もしました。
このころ、頼られる相手として、機能した一人が渡辺幸子さんであって、何かを教えてもらって、びっくりした相手の方は、テリーだったのです。特に、私が卒業した後の、1966年4月からの、ICUの荒れ具合と、日比谷高校卒のS君が自殺未遂を、こともあろうに千鳥ヶ淵で、行ったと、いうエピソードなど、驚嘆をさせられました。
あの3年間の中で、旧知の人と、気が済むまでの長電話(時には、一晩で、4時間も同じ人と話した)は、私を大きく成長をさせたと、思います。人間とは何だと、いう意味で、理解が、相当に、深まりました。
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副題8,『渡辺幸子さんとは、2002年まで、同じ条件下にあったので、彼女の愚痴を聞くこととなった。それは、主に、ICU卒業生が公募団体展の世界に入ると、学閥がないので、不利になると、いう問題で、表面的に言えば、二人は、条件が全く同じだった。彼女は、新制作に出品をしていて、会員になれないことを嘆いていたし、こっちは、国画会に、出品していて、やはり、会員になれないことは、不満だった。
しかし、心理的に言えば、私の方は、すでに、公募団体展を離れる決意をしていたので、条件が全く違うのだった。
で、私は、田沢茂先生の支配法に対する愚痴については、珍しく、はっきりと意見をいった。「やめなさい。そのグループに所属するのは」と、いっていた。しかし、彼女は、新政策を、やめるつもりはないので、したがって、田沢先生のもとを去るという決意もつかなかったのだ。新制作とは、もっともモダンな、方の団体展だと、思うけれど、団体展の組織そのものが、古い家元制度を導入していて、一種のやくざ組織みたいなところがあるので、逃げるのは負けだと、なるのだろう。
:::::::ところで、これも挿入なのだけれど、山口千里さんが、野見山暁次の、秘書になったのは、私と、千里さんがある時期、相当に、近かったからだと、私は見ている。千里さんは、聖心女子大卒で、国画会内部に学閥の支援は無論ない。でも、芸大派閥に属していたから、やがて会員になるだろうと、本人も周囲も思っていただろうに、なかなか、なれなかった。そういう時に、愚痴を言うというのではなくて、ボディラングエッジで、私は、千里さんを励ましていたのだった。
魚心あれば、水心ありで、千里さんにも、私が支援をしているということはわかっていたらしくて、ある時、銀座で、「お茶しない」と誘われた。千里さんが好きだと、いうチョコレートの飲み物を三越の地階に、飲みに行ったのだけれど、私が気を許して、会員になれない苦しみを語ったからかなあ? 千里さんが、団体展の問題とは、全く種類の違う質問をしてきた。「あなたは、自分をお姫様タイプだと、思うの? それとも女中タイプだと、思うの?」と。
私は、自分の容貌が千里さんより劣るのは、自覚をしているので、「うん、女中タイプよ」と答えた。千里さんは、瞬時、黙りこくった後で、「もう、帰ろう」と提案してきたので、私は、「あ、そうね」とだけ言って、別れた。その当時の千里さんは、千代田区在住だった。私は、鎌倉だ。お互いに長い時間のお茶のみはできない主婦・兼・母親だから、速攻で、別れた。しかし、今思い返すと、ひどく懐かしい。千里さんは、私をお姫様タイプだと、考えていた。だから、苦労が多いとも考えていたのだろう。だけど、本人が自覚をしていないことを他人が、いっても、だめだろうと、思って、もう帰りましょう」と提案したのだった。ここで、こういうエピソードをさらすのは、私と大原光孝さんとか、江美子さんとの会話が、そっくりだからだ。役割は、反転している。私は大原光孝さんが、「川崎さん、みんなが、川崎さんは、離婚をするよと、噂をしているよ。(へえら、へえら・・・・・というカッコ内は、私が入れた擬音だが)」と言っても、現場では何も反論をしない。それが、あの三越地下での会話と、そっくりな構造だった。
千里さんは、自分が国画会の会員になれないことは、「もう、いいのよ。私は野見山先生を大好きだし、(野見山先生は、国画会の人ではないし)』と、いった。カッコ内は、私の補足であって、彼女が発言したことではないが。
この時の会話が、尾行者によって盗聴をされており、したがって、千里さんを、私から、引っ剥がすために、野見山さんが、秘書にしたのだと、私は、考えている。そのことをみつ子さんには言いたかった。世間の人がそういう風に見ているだろうが、千里さんが、恋の勝利者として、野見山さんの、秘書になったわけではない。千里さんは、鎌倉エージェントの、思惑で、野見山さんの秘書になったのであって、その人事には、大きく私が関与している。「これは、極端に、政治的な目的の人事なのですよ」と、みつ子さんに伝えたかった。
しかし、二人だけになるチャンスがなかった。本当に残念だ。その後、千里さんは、ひどく変わっていく。しかし、彼女には、ここで、「千里さん、あなたが何を脅かして来ても、私は、びくともしないわよ。そして、あなたが、以前より、頭が悪くなったのではないかと、心配しています」と、いっておこう。
ここから先にテリーとの電話の内容に入ります。その後渡辺幸子さんとの電話の内容に入ります。そして、大原恵美子さんに戻ってきます。それから、大原光孝さんに戻っていきます。しかし、それらの文章を、全部この章に入れられるかどうかは疑問で、また、新しい章へ入ることとなるかもしれません。では。
後注1,
20-6-22・NHKはラグノオささきという会社名を出した。次の日には、段ボール会社の実名を出さない。違いは何だ
その半年前に、ちらっとだが、以下の文章の中でも、そのことを語っている。
代々木公園に集まり、消えたイラン人は・・・・・朝日の記事・・・・・but I can't copy and paste it, so I must use my special tecnique
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