連載も3回目です。今回は内野過労死事件が登場します。
以下転載開始
トヨタシステムで労働者は幸せになれるか。3
2006年7月
愛知働くものの健康センター理事 近森泰彦
3、現代の強制労働---トヨタシステム
私が所属している「愛知働くものの健康センター」は労働安全衛生法はじめ諸規則、厚生労働省行の発する政指導を実地に生かして、働きやすい職場環境づくりをサポートするNPO団体です。長く続いた小泉政権の規制緩和方針下で次々と労働法が改悪され、経団連が後押しをする成果主義賃金制度と一体をなして長時間労働、健康破壊、うつ病が急速に広がり過労死・過労自殺に追い込まれる労働者が増えて来ました。
それは健康センターをたずねてくる労働者・遺族の方々が語る深刻な相談内容にもくっきりと現れています。トヨタは以前からうつ病、過労死、過労自殺の多い「評判の企業」でしたので事例としてトヨタ自動車堤工場(豊田市)の内野過労死裁判を取り上げてみます。
被災者、内野健一さん(1971年生)は入社後ずっと堤工場の組み立てラインで働いてきました。家族は奥さんと子供2人、酒もタバコもやらない家庭的な好青年でした。2001年4月、まじめな働きぶりが認められてEX(エキスパート、旧職制の班長)にいち早く昇進しました。
仕事は若手の優秀なEXということもあって一挙に付加されました。担当職務は組み立てラインで車体(塗装前の組み立て車)の検査、車の表面ゆがみ、傷、凹みなどを見つけて手当てをするという仕事です。
組みたてられた車体は60秒に1台の割合でコンベアを移動し担当ラインにはいってきます。作業員は直ちに車体の両側に1人ずつはり付いて、目視と掌を使って車体全面をさすり検査を行います。体の動きはあらかじめ決められたマニュアルどおりでまるでロボットです。全ラインのなかでも機械化、自動化が遅れている部門ということです。
他のラインの労働者は「あそこにだけは行きたくない」と敬遠される職場です。熟練者になると百分の一ミリ以下の傷を瞬間に見つけるというほどの神業的能力を身につけるまでになるそうです。同じ仕事をしていたトヨタの退職者から話を伺う機会があり仕事の内容が理解できました。
その彼も仕事中に過労で倒れトヨタ記念病院に運ばれた後職場復帰が認められず結果的に強制的な退職に追い込まれてしまいました。勤務中は常時緊張を緩められない連続作業で彼にとっては「地獄のような仕事」だったと言っていました。
緊張状態は長時間にわたって維持できるはずがなく、わずかな欠陥を見逃してしまうことがしばしばおきます。すると後工程でこれを見つけたGL(グループリーダー)が血相を変えて怒鳴り込んできます。こんなことは日常茶飯事でいつもEXの内野さんが頭を下げて対応に走り回っていました。
トヨタ看板方式によれば「問題が発生すればまずラインを止めよ」と原則が指示されています。ところがライン停止が大きなマイナス評価になることを知りつくしている労働者にとって「恐怖の事態」となるので簡単にラインを止める子とはできません。
内野さんがつけていた申し送り帳の車体図には不良箇所が実に几帳面に記入してありました。この記録を見ただけで彼の心労が伝わってくる思いがします。毎日の記帳や関係者との調整はほとんど時間外の仕事となりました。
内野さんはEXに昇進した後、本人の意思に関係なく本来業務のほかに;
① QCサークルリーダー
② EX会広報担当
③ 交通安全リーダー(トヨタ社員は絶対に事故を起こしてはならない!)
④ 新入教育担当(期間工含む)
⑤ 労働組合の職場役員(トヨタでは役職に就くとそのレベルに見合った組合役員に会社が
指名し「組合選挙」で選出される)など多くの仕事を新たに持たされました。
彼の帰宅時間が徐々に遅くなり始め、亡くなる半年ぐらい前から新車の立ち上げがあって一段と多忙になりました。ちなみに交替勤務時間は、早番---6;25~15;15、遅番---16;10~翌日1;00となっています。早番の帰宅が夕食時を過ぎ、遅番の帰宅が朝食時になることがあったと奥さん(博子さん)が語っています。
内野さんの友人たちは「過労死するよ」と心配して忠告してくれました。博子さんは心労のあまりカレンダーに彼の出退勤時間をつけ始めました。
2002年2月9日、遅番で残業中、午前4時過ぎ、内野さんは机から崩れるように床に倒れ込みトヨタ記念病院に運ばれましたが帰らぬ人になってしまいました。享年30歳でした。博子さんはとっさに「原因は仕事以外にない」と判断して、まじめに働いてきた夫が報われることを願って1ヶ月後の3月、豊田労働基準監督署に労災申請を出しました。
翌2003年12月、監督署は会社も認めた死亡前30日間の100時間をはるかに超える残業時間さえ認めず、また仕事過密性と死亡の関連についてはまともに調査することなく却下しました。
博子さんは翌年1月裁判では二審に相当する愛知県労働者災害補償審査官に審査請求申し立てをしました。担当審査官はトヨタの事件であることから腰が引けて、2005年3月31日年度末にあわただしく業務外決定を下したあと、翌日4月1日付け転勤辞令を手にして逃げるように行方が分らなくなりました。
博子さんはこの決定に怒りを覚えて、同年7月22日名古屋地方裁判所に豊田監督署長を相手に提訴し労災認定却下取り消しを求める裁判を始めました。
法廷での論点は、一つに前記「会社の仕事」の範囲を明確にすることがあります。被告の豊田労働基準監督署長(厚生労働省)はトヨタシステムの根幹を成すQC活動を業務と認めず、これを労働者の「自発的な活動」と強弁して自らの判断を絶対化しようとしています。そればかりか上記①~⑤をすべて業務と切り離し、それらにかけた内野さん労働時間をカットして長時間労働を消し去ろうとしています。なんという姑息なやり方でしょうか。真実から目をそらす作為的かつ死者に対する不遜な態度はやがて余すところなく明らかにされることでしょう。
QCの業務性否定はトヨタ生産システムの成り立ちを理解しない詭弁でしかありません。裁判はトヨタの下僕と化した国を鋭く問い詰める構図になってきました。
以上 転載終わり
以下転載開始
トヨタシステムで労働者は幸せになれるか。3
2006年7月
愛知働くものの健康センター理事 近森泰彦
3、現代の強制労働---トヨタシステム
私が所属している「愛知働くものの健康センター」は労働安全衛生法はじめ諸規則、厚生労働省行の発する政指導を実地に生かして、働きやすい職場環境づくりをサポートするNPO団体です。長く続いた小泉政権の規制緩和方針下で次々と労働法が改悪され、経団連が後押しをする成果主義賃金制度と一体をなして長時間労働、健康破壊、うつ病が急速に広がり過労死・過労自殺に追い込まれる労働者が増えて来ました。
それは健康センターをたずねてくる労働者・遺族の方々が語る深刻な相談内容にもくっきりと現れています。トヨタは以前からうつ病、過労死、過労自殺の多い「評判の企業」でしたので事例としてトヨタ自動車堤工場(豊田市)の内野過労死裁判を取り上げてみます。
被災者、内野健一さん(1971年生)は入社後ずっと堤工場の組み立てラインで働いてきました。家族は奥さんと子供2人、酒もタバコもやらない家庭的な好青年でした。2001年4月、まじめな働きぶりが認められてEX(エキスパート、旧職制の班長)にいち早く昇進しました。
仕事は若手の優秀なEXということもあって一挙に付加されました。担当職務は組み立てラインで車体(塗装前の組み立て車)の検査、車の表面ゆがみ、傷、凹みなどを見つけて手当てをするという仕事です。
組みたてられた車体は60秒に1台の割合でコンベアを移動し担当ラインにはいってきます。作業員は直ちに車体の両側に1人ずつはり付いて、目視と掌を使って車体全面をさすり検査を行います。体の動きはあらかじめ決められたマニュアルどおりでまるでロボットです。全ラインのなかでも機械化、自動化が遅れている部門ということです。
他のラインの労働者は「あそこにだけは行きたくない」と敬遠される職場です。熟練者になると百分の一ミリ以下の傷を瞬間に見つけるというほどの神業的能力を身につけるまでになるそうです。同じ仕事をしていたトヨタの退職者から話を伺う機会があり仕事の内容が理解できました。
その彼も仕事中に過労で倒れトヨタ記念病院に運ばれた後職場復帰が認められず結果的に強制的な退職に追い込まれてしまいました。勤務中は常時緊張を緩められない連続作業で彼にとっては「地獄のような仕事」だったと言っていました。
緊張状態は長時間にわたって維持できるはずがなく、わずかな欠陥を見逃してしまうことがしばしばおきます。すると後工程でこれを見つけたGL(グループリーダー)が血相を変えて怒鳴り込んできます。こんなことは日常茶飯事でいつもEXの内野さんが頭を下げて対応に走り回っていました。
トヨタ看板方式によれば「問題が発生すればまずラインを止めよ」と原則が指示されています。ところがライン停止が大きなマイナス評価になることを知りつくしている労働者にとって「恐怖の事態」となるので簡単にラインを止める子とはできません。
内野さんがつけていた申し送り帳の車体図には不良箇所が実に几帳面に記入してありました。この記録を見ただけで彼の心労が伝わってくる思いがします。毎日の記帳や関係者との調整はほとんど時間外の仕事となりました。
内野さんはEXに昇進した後、本人の意思に関係なく本来業務のほかに;
① QCサークルリーダー
② EX会広報担当
③ 交通安全リーダー(トヨタ社員は絶対に事故を起こしてはならない!)
④ 新入教育担当(期間工含む)
⑤ 労働組合の職場役員(トヨタでは役職に就くとそのレベルに見合った組合役員に会社が
指名し「組合選挙」で選出される)など多くの仕事を新たに持たされました。
彼の帰宅時間が徐々に遅くなり始め、亡くなる半年ぐらい前から新車の立ち上げがあって一段と多忙になりました。ちなみに交替勤務時間は、早番---6;25~15;15、遅番---16;10~翌日1;00となっています。早番の帰宅が夕食時を過ぎ、遅番の帰宅が朝食時になることがあったと奥さん(博子さん)が語っています。
内野さんの友人たちは「過労死するよ」と心配して忠告してくれました。博子さんは心労のあまりカレンダーに彼の出退勤時間をつけ始めました。
2002年2月9日、遅番で残業中、午前4時過ぎ、内野さんは机から崩れるように床に倒れ込みトヨタ記念病院に運ばれましたが帰らぬ人になってしまいました。享年30歳でした。博子さんはとっさに「原因は仕事以外にない」と判断して、まじめに働いてきた夫が報われることを願って1ヶ月後の3月、豊田労働基準監督署に労災申請を出しました。
翌2003年12月、監督署は会社も認めた死亡前30日間の100時間をはるかに超える残業時間さえ認めず、また仕事過密性と死亡の関連についてはまともに調査することなく却下しました。
博子さんは翌年1月裁判では二審に相当する愛知県労働者災害補償審査官に審査請求申し立てをしました。担当審査官はトヨタの事件であることから腰が引けて、2005年3月31日年度末にあわただしく業務外決定を下したあと、翌日4月1日付け転勤辞令を手にして逃げるように行方が分らなくなりました。
博子さんはこの決定に怒りを覚えて、同年7月22日名古屋地方裁判所に豊田監督署長を相手に提訴し労災認定却下取り消しを求める裁判を始めました。
法廷での論点は、一つに前記「会社の仕事」の範囲を明確にすることがあります。被告の豊田労働基準監督署長(厚生労働省)はトヨタシステムの根幹を成すQC活動を業務と認めず、これを労働者の「自発的な活動」と強弁して自らの判断を絶対化しようとしています。そればかりか上記①~⑤をすべて業務と切り離し、それらにかけた内野さん労働時間をカットして長時間労働を消し去ろうとしています。なんという姑息なやり方でしょうか。真実から目をそらす作為的かつ死者に対する不遜な態度はやがて余すところなく明らかにされることでしょう。
QCの業務性否定はトヨタ生産システムの成り立ちを理解しない詭弁でしかありません。裁判はトヨタの下僕と化した国を鋭く問い詰める構図になってきました。
以上 転載終わり