さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

2012年06月17日 14時48分24秒 | Web log
課題の全てを提出しました。

ヤッホー。

大変だった。

特にこの数週間は吹き出物と口内炎に悩まされたけれど。

日本とオーストラリアでは、学び方へのアプローチの仕方が違うなぁ
という印象を受けました。

わたしが受けた教育(小中高)では、暗記中心だったと思います。

こちらでは(少なくとも私が受けた授業は)

とにかく自分で考えて、自分で答えを出すということが強調されているなぁと思いました。

そして導きだす結論も、より客観的なものでなければなりません。

レポートを書くときも、それに関する記事、賛否両論を掻き集めて読み、自分の論理を裏打ちする
ことを求められました。

主観的に書かれたもの(出典がないもの、あるいはあっても質の低いもの)は、信憑性が低い
と判断されることや、

エンターテイメントである小説の分析であっても、自分がどう感じるか、どう思うかよりも、
ちりばめられた言葉や、それらの言葉から導き出されるイメージ、隠喩のようなものを手がかりに、
作者の意図を汲み取ることを教えられました。

そうやって、自分の意見や考えというものを感情的、主観的に主張するのでなく、まず自己批判というか、
自分の意見、考えをひとまず置いといて、客観的、論理的に分析、検討して、再構築する=自分の意見に責任を
持つという姿勢をこの半年で学んだような気がします。

20年以上も前の話しになりますが、私が高校から大学へ進学したときのとてつもないギャップのようなものを
感じたのを思い出しました。

高校までは、全ての教科で ひたすら覚えて、覚えて、覚えて、より高い点数を取り、いい学校に進学することが
前提の日々だったと思います。

でも、大学に入ってからは『覚える』授業じゃありませんでした。

ま、それはそれで楽しかったので、N大学に在学していたときは、興味がそそられる講義を片っ端から受けて、
卒業に必要な単位以上の講義を取って、自分の専門以外の講義とかにも顔を出して自分の知的好奇心を
満たす毎日を送りました。

が、私にとっては 正直なところ

「 何をしたらいいのか分からない 」=「だから片っ端から講義を受けてみる」

という日々でもあったなぁと思います。

高校で散々「より偏差値の高い大学に入るため」の勉強をし、大学に入った途端にほったらかしの雰囲気に
放り出された私。

大学のその自由さは、自分の関心のあることを突き詰めて、熟考して、結論を見出すために必要な在り方だった
のだろうけれども、当時の私は、恥ずかしながら、そういった学問対する姿勢を全く理解していなかったと思う。

きっと私には素質がなかったんでしょうね。

大学を卒業して20年の年月を経てようやく

「 私は何も分かっていなかった 」という事実にたどりついた気がします。

署名

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