さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

母語、第二外国語 言葉の習得について

2017年02月04日 10時30分58秒 | Web log
しばらくブログを放置しておりました。

日本に帰国して、一年が過ぎました。
そして、新しい年を迎えて、一か月が過ぎました。

時間が経つのは本当に早いものですね。

さて

特殊な環境で、国語を教えているわけですが、なぜ?なぜ?を繰り返した一年が過ぎました。

普通に日本語を話せるから、日本の学校で行われているような国語の授業をすれば、みんな
分かるだろうと思って、仕事を始めたわけですが、いやいやどうして。

ことごとく予想が外れるという現実。

いろんなレベルの子がいることは確かで、それぞれに対応すればいいのだろうと思うのですが
個々のレベルに応じた対応をし、プリントをそれぞれに揃えるのも大変なので、できるだけ一斉授業を
試みるも、まずうまくいかない。

国語の授業は、言葉を媒体に授業をするわけですが、生徒たちの語彙数が圧倒的に足りない。

当然のことながら、一年生だから一年生の教科書がある程度読めるかというとそうではない。

読める子もいれば、読めない子もいる。それは日本の学校でも同じなんだろう。

でも、読める子と読めない子のレベルの幅は、わたしが教えている学校にくらべたら少ないと思う。

ところで、言語には二つの領域があって、日常・生活語力といわれる Basic Interpersonal Language Proficiencyと
認識・学術語力と言われる Cognitive Academic Language Proficiencyとがあると最近知った。

だから、普通に会話することができても、それは日常生活語力によるものであって、生活とは違う空間で使われる 
認識学術語力は、教育現場や家庭での補足学習などで習得、強化されるものと考えられる。

なので、日本語で運営されている学校へ行かないというのは、その分野での語彙が不足することを
意味する。

彼らは、英語を媒介後とした学校で学んでいるわけだけれども、そこでふと疑問に思う。

「日本語で理解できない英語の単語を彼らはどうやって習得するのか?」ということ。

私が英語を学び始めたのは中学一年生からだから「Apple」という言葉を聞いたときに日本語の
りんごを結びつけた。そうやって語彙を増やしていった。

りんごなどという生活に密着した英語を覚えるのは簡単だけれども、例えば5年生の教科書に出てくる
「識別する」という言葉。

英語ではIdentifyとなるわけだけれども、かなり抽象度の高い言葉。

それが英語の授業ででてきたときに、生徒はどのようにその言葉を習得するのか?

識別するという日本語を習得していない5年生の子はどうやって、Identifyという言葉を理解できるのか?

ということになるわけだけれども、恐らく私が働いている学校の子供たちは ストレートに Identifyと 
入っていくのだろうと思う。

言葉は概念がコミュニケーションツールとしてコード化されたものだけれども、もやもやとした概念が根底にあって、
詳しく辞書のように説明できなくても(しなくても)、その言葉が持つ意味は感覚で分かっていて、言葉がそれに結びついて
それをいろんな状況で使うことができるようになる。

となると、母語でない外国語で教育を受けている子供たちは 識別という言葉を分からないまま成長していくか、
あるいはIdentityという言葉に後で「識別する」という「日本語訳」が入っていく、ということが起こるのだろうと
思われる。

日本人なのに、英語が第一言語になってしまうというわけ。

わたしも、10年間オーストラリアに住んで、英語漬けの生活をしたので、時々「あれ?日本語でどういうんだっけ?」
とか、「英語で言ったほうが早い」という現象が起こっている。それから漢字も書いているときに「これでよかったのかな?」
みたいなことも起きる。

日本語を忘れてしまっている自分に気づかされる。みっともないけど、それが現実。

でも、英語ができるかといったら、生きていく、そして海外でなんとか働く程度の英語はできても、絶対にネイティブには追いつけない。
使い切れる語彙力が絶対的に少ないから。

30才を過ぎて外国に行ったわたしにでさえ、そういう現象が起こるのだから、初等教育の子供たちの脳みそは、
高い割合で英語に「上書きされている」。

日常語の日本語は維持できても、アカデミックな日本語の成長が遅れる。

移民の子弟が日本の公立の学校に行っても同様のことが起こるという文献を読んだ。

母語の成長が遅れるだけでなく、(一時的かもしれないけれども)日本語の授業についていけないという現象が起こるらしい。
高校受験などは、かなりハードルが高い。日常的に友達と日本語を使い、学校で授業を受けても、追いつけない子供は
追いつけないらしい。

そして学校での疎外感から、学校になじめなくなる、自信の喪失、引きこもりなどといった問題へと発展していく
子供たちもいるということだ。

でも、すべての移民の子供たちがそうなるかといったら、そうでもないのだろうし、一時期両方の言語が不安定になったとしても
長い目でみれば、いずれ、どちらかが強くなり、結果、二つの言語の住み分けが可能となっていくものなのかもしれないし、
今のところ私にはよくわからない。

長い目で対応していかなければならない事柄を、果たして社会が寛容に受け入れることができるのか?

画一化が好きなこの国の社会が、そういうった問題を抱えている子供を個別的に、寛容に受け入れるシステムができているか?

政府は、労働力が不足している分野に移民を受け入れようとしているようだけれども、その子弟の教育面での政策をきちんとしないと
結果、社会問題として発展していく可能性があるんじゃないのかな?とふと思う私なのでした。

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