カラスノゴマがひっそり種になっていた。
どうして名前にゴマとつくのか、花を見てもわからない。
3センチ足らずのさやがはじけて、小さな光る種が
のぞいたのを見て、ようやく納得する。
この草は、草もみじとして美しい。
食用の胡麻とは親戚でも何でもない。
わけあって、近松門左衛門の浄瑠璃を読む。
(もう、どんな「わけ」なんだか、わけわからなくなっており・・)
そもそもこれは「読む」ものじゃないのかもしれないけれど、
見て聴いたってどこまで理解できるのかあやしいし。
ま、江戸時代だから、現代に近いぶん、
平安・室町などより理解しやすいんじゃないかなと、
簡単に考えたのが間違いで・・
漢に三尺の斬蛇あって四百年の基をおこし
秦に大阿工市あって六國を合す
古の君子是を以て自ら守ると
子路がうたひし剣の舞かへす袂も面白き
・・と、冒頭から難しくて目が点々になっておりまする(笑)。
上の文は自分でわかりやすいように行分けしてみたけれど、
実際はこんな改行はなく、40ページ余りべったりと続いている。
主人公が出てきたと思ったら、あっというまに横道にそれていき、
別の男女の話になったかと思うと、別の仇討の話になったり、
唐突に主人公の婚約者が現れたり、いつのまにか戦闘になってたりと、
どうにも流れがうまくつかめない。
つかめないなりにも、あきらめず読み進むと、あ、ここは見せ場だな、
あ、ここは泣かせるとこだな、となんとなく感じとれる部分がある。
お客の喜ぶ要素をあれもこれも欲張りに取り揃え、
五段重ねのおせち料理みたいな構成になっているらしい。
装飾と技巧をこらした言葉遊びも山盛りで・・
われが思ひは深見草 たれかあはれと白菊や
紫苑 鴈皮(がんぴ)に 罌粟 しもつけの花桶に
しだれ櫻や糸柳 水なき空の釣舟も 焦がるる色の紅椿
手まり山吹かきつばた 花仙の姿置きあげに
文字をすかしの すかし燈籠 額燈籠
手ぎはやさしき花かづら 振り分け髪をくらべこし
井筒燈籠 井戸屋かた はひまつ はるる朝顔の・・
これの前にも後にもまだまだ続いているのですが、
切れ目がわからないし、きりがないので、引用ここまで。
話がうんと戻って、物怪録がらみで巌谷小波を読んでいたとき、
ちょっと面白いものをみつけました。
ゲーテ原作「魔法使いの弟子」の翻案で
「狂言・魔法弟子」。
(魔法使)隠れもない魔法の名人でござる。
今日た諸用あつて、山一つ彼方へ参らうと存ずる。
それにつき太郎冠者を呼び出いて、申し付くる事がござる。
ヤイヤイ太郎冠者あるかやアい。
(太郎冠者)はアー。
(魔法使)えーい。
(太郎冠者)はアッ。
(魔法使)居たか。
(太郎冠者)御前に。
このあと、留守中の掃除を言いつけられた太郎冠者が、
一計を案じ、ほうきに呪文をかけて身代わりに働かせようとする。
その呪文、原文は漢字が多いですが、読みづらいので、
ちょっとひらがなで書いてみましょうか。
うじゃら むじゃら むぎゃむぎゃむぎゃ
ほうき ほうき たけぼうき
しゅろのほうきに くさぼうき
おおぼうきに ちいぼうき
くされぼうきに ふるぼうき
ほうきにせい(精)があるならば
ひとになれや ひとになれ
うじゃら むじゃら むぎゃむぎゃむぎゃ
と、となえるうちに、ほうきはだんだん人になっていく。
だけど、舞台の上で、どうやってほうきを人間に変えるのか。
「工夫あるべし」と、巌谷先生、あっさり書いておられますが?(・・笑)
発表されたのは明治25年。
当時は、狂言というものが、坊ちゃん嬢ちゃん方にも
ごくなじみの深い娯楽だったのでしょう。
同じく巌谷小波、明治27年の「十二月の苺」は、
寒い冬の朝、義理のおっ母さんに「いちごを探しておいで!」と
追い出されたお雪ちゃんが・・という、これも翻案なのですが、
その行き先が「町外れの公園」というのが、なんだか意外すぎる。
公園って、当時まだわりと「新しい」ものだったのではないかしら。
閑猫、お目々ぱちくりの連続。
本日のにゃんこ。
影の中に影があるよ。
本日の「いいね!」
STRANDBEEST (動画)
風を食べて、歩く。
浜辺で「放し飼い」にされているらしい。
オランダの彫刻家テオ・ヤンセンさんの作品。